ウィル、初めてのお使い
「一先ず、ラッツさんは馬車の準備を。用意が出来次第、レンとジョンさんを連れてシロー様の元へ。トマソンとマイナ、ミーシャは私とウィルを探しましょう」
ウィルがいなくなったことに気づいたリビングではちょっとした騒ぎになっていた。
よもや屋敷の外に出たとは思えないが、それにしてもタイミングが悪過ぎる。
お子様に空気を読むよう願うのは無理な話か。
各々が行動を起こそうと動き出したその時、
「失礼するぞ」
「おああっ!?」
リビングのドアをくぐり抜けて姿を現した緑の毛並みの大きな狼に、ラッツが間の抜けた悲鳴を上げた。
トマソンとマイナ、ミーシャが素早くセシリアの間に割って入って身構える。
が、その背にいる人物を見てぽかんと口を開けてしまった。
「「「ウィル様っ!?」」」
「あいっ♪」
使用人達の反応が嬉しかったのか、ウィルが手を上げて返事をする。
「ひ、一片……これはいったい……」
呆気に取られたレンが恐る恐る風の一片に尋ねると、風狼の表情がふと緩んだ。
「ほう……鉄仮面のようであった小娘がそんな表情をするようになったのだな……」
「そんな事はどうでもいい!」
レンが赤面しながら声を荒らげる。
風狼はレンの疑問を無視して周囲に視線を向けた。
「ふむ……ウィルの話ではシローと娘達が危険で、皆が悲しんでると聞いたが」
それもついさっきまでの事。
気持ちを持ち直したトルキス家の面々は意思の篭った目をしていた。
「下を向いてばかりいられません。私達はこれからシロー様と娘達を助けに、皆で乗り込む所存です」
代表してセシリアが意思表明すると、風狼は目を細めた。
「儚げであったあの奥方が……強き母になられたものだ」
「一片様……」
風狼と同様に目を細め、笑みを浮かべるセシリアに風狼が頷き返す。
「丁度よい。ウィルの願いでな……儂もシローの助太刀に向かうところだ。積もる話もあるが、全て事が済んでからにしよう」
事も無げに言ってのける風狼にリビングの空気が凍りついた。
セシリアも一瞬何を言われているか分からず、笑顔のまま固まる。
「うぃる、とーさまとねーさまたち、たすけてくるー」
場の空気を読めないウィルが、無邪気に手を振って。
「では、後ほど」
風狼はそう言うと床を蹴り、庭を出て飛び去っていった。
後に残された者達がぽかんとしたまま、その後ろ姿を見送る。
「ウィル様、行っちゃった……」
マイナがポツリと呟いて、ようやくその場にいた全員が我に返った。
「たいへん!」
「ラッツ! 馬車、馬車!」
「お、おう!」
「ウィル様ぁ! お待ちくだされぇ!」
「あれぇ? 私はぁ?」
「ウィル様、飛んでっちゃったんだからアンタも来るの!」
リビングは上へ下への大騒ぎになった。
ウィルの初めてのお使いは、幻獣をお供に戦闘中の父へ魔刀の届け物と姉達の救出である。なんでこうなった。
呆気にとられたまま、立ち直るのが一番遅かったのは意外にもレンであった。
「ウィル様……」
レンがグッと拳を握り締めて、肩を震わせる。
「一片……ゴロツキ共……もしもウィル様に何かあってみろ……」
溢れ出そうになる魔力を必死に噛み殺しながら、レンは踵を返してリビングを後にした。
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緑色の大きな狼が小さな子供を背に家々の屋根の上を駆け抜けていく。
それを路上から見上げていた八百屋の女性は慌てて店に駆け込んだ。
「あんた! たいへんよっ! トルキス様のとこのウィルベル様が大きな狼に乗って屋根の上を駆け抜けていったわ!」
声を荒らげる妻に、奥で作業していた主人が気のない笑い声を上げた。
「冗談言っちゃいけねーよ? ウィルベル様はまだ三歳だろ? そんな事にゃなんねーって」
取り合わない主人に女性が軒先からもう一度向かいの屋根の通りを見上げる。
狼とウィルの姿はもうない。
いつもの日常の風景だ。
「それもそうね……疲れてるのかしら?」
そんな自覚はないのだが、と女性は気のせいにして、いつも通りの仕事に戻っていった。
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小高い建物の屋上で足を止めた風の一片は周囲を警戒しながら、背に跨るウィルの方に視線を向けた。
「大丈夫か? ウィル」
「ひとひらさんといっしょだから、へいきー」
高所からの眺めに怯えないかと気遣った風狼にウィルが嬉々とした返事を返す。
場所も聞かずに飛び出した風の一片であったが、風の幻獣である彼は周囲の気配を広範囲に渡って感じ取ることができた。
契約者であるシローの気配であれば尚更だ。
意識を集中して気配を探る風の一片の背でウィルもキョロキョロと周囲を見回した。
そして、見つけたそれにウィルが目を輝かせた。
「ひとひらさん、ひとひらさん、あれー」
風の一片の頭をテシテシ叩いてウィルが指差す。
その先に視線を向けると緑色の燐光を伴い宙に浮く子供達の姿があった。
年の頃は十歳前後、三人いて談笑しながら宙を流れていく。
「あれは風の精霊だな」
「ふぁぁ、せーれーさん」
精霊や幻獣は山や森、川といった自然界の中で発生する魔素の濃い場所に生息している。
そういった場所は大抵人の手がついていない自然に多く、また精霊は人の欲望を見抜いて人目を避ける為、無垢な心を持つ者の前にしか現れないという。
かと思えば、森で遭難した旅人が精霊の導きによって九死に一生を得たり、子供が川に流されて溺れた所を幻獣に助けられたりと、世間的に目撃例が後を絶たない。
人目にはつかないが確かに存在する精霊や幻獣達。
謎の多い存在であるが、ひと握りの人間しか知らない事実がある。
「ウィルは仮にも儂と契約し、儂に認められた。だからウィルは精霊を見ることができるのだ」
「みんな、みえないのー?」
風の精霊達は街の上空を堂々と飛んでいるが、誰かがそれに気付いた様子はない。
「そうだ。自ら姿を晒さない限り、人間に見えることはない」
「そっかー」
残念そうに眉根を寄せるウィル。
そのうち、精霊の一人がウィルと風の一片に気付いた。
屋根の上に鎮座する風狼を見て、慌てた精霊は身振り手振りでウィル達の事を仲間に伝える。
精霊達の反応に気分を良くしたウィルがブンブンと精霊達に手を振った。
「おーい」
精霊達は顔を見合わせていたが、やがて気の優しそうな精霊の男の子がウィルに手を振り返してくれた。
嬉しくなったウィルが一層力を込めて手を振る。
その様子を静観していた風の一片がふと顔を上げた。
「ウィル、シローの気配を捉えた。往くぞ」
「わかったー」
眼下の通りを歩いていた人間もウィルと風の一片の存在に気付いて騒ぎ始めている。
騎士らしき衣装を身に纏った髭面の熊のような男が慌てて走って行くのが見えた。長居は無用だろう。
「せーれーさん、またねー」
ウィルが手を振り終えて、魔刀の鞘を抱え直す。
風狼が音もなく屋根を蹴って、通りの反対側へ飛び移った。
上空を飛び渡る大きな狼の影に人々が騒ぎ立てる。
「かんせー?」
「悲鳴だ」
首を傾げるウィルに風狼が屋根の上を駆けながらツッコむ。
目的の場所はすぐそこだ。
足を早めようとした風の一片が不穏な気配を感じて舌打ちした。
「ウィル! シローの下に行こうと思ったが、ひと固まりになっている者達に忍び寄ろうとしている輩がいる! このままでは避難した者が襲われる!」
「たすけなきゃ!」
風の一片が進路を修正する。
魔力を共有しているウィルにも分かっているのか、風の一片が目指す場所を真っ直ぐ見ていた。
「あそこー!」
ウィルの指差す先に他の建物とは離れた小屋がある。
「突っ込むぞ、ウィル!」
「つっこむー!」
風の一片が最後の一歩を力強く踏み切って、高々と宙を舞った。