第3写 想いのカタチ
超、説明回
では、心霊写真の話を聞かなくなってしまった本当の理由は何か?
専門家のもっともらしい理由は置いておいて、限られた世界の人間だけが知る事実がある。
原因は、デジタルカメラの普及にあった。
専門家の意見と変わらない?
原因は同じ。だが、心霊写真を見なくなった理由が違うのだ。
デジタルカメラの普及は、カメラの記録媒体の変更でもあった。
フイルムでは24枚から36枚程度の撮影枚数が普通だった。
ところが、今のデジタルカメラの撮影枚数はどうだろう。
普及初期こそ、記録媒体であるフラッシュメモリの価格の高さと記録技術の限界によって、デジタルカメラに使用できるメモリサイズは(当時は大容量と言われるメモリサイズだったが)大きいものではなかった。
フイルムよりは多く枚数を保存できるが、撮影枚数の上限には気を配る必要があったというのが、普及初期のデジタルカメラの事実だった。
メモリの価格の高さの問題から、記録媒体を8cmのCDーRやMOディスクを選択したり、フロッピーディスクに記録する機種まであった。
(今では笑い話のネタにされることが多いが、この機種がデジタルカメラの普及に大きく貢献したことは強調しておく)
だが、記録技術が進み、メモリの価格も安くなって普及初期より数万倍以上も大容量化されている今、果たして撮影枚数の上限を気にする機会はどれほどあるだろう?
スマフォで撮影などしていても、枚数の上限を気にする機会など数ヶ月に一度程度ではないだろうか?
もはや単純に写真を記録する手段として、枚数という一点で、フイルムはフラッシュメモリには勝てないであろう。
フイルムカメラによる撮影と、その成果である現像された写真の美しさはデジタルカメラとはまた異なる味わい深いものがあるが、パソコンとインターネットの爆発的普及、さらには携帯、スマフォによる写真付きメールの展開によって現像という行為すら必要となくなってしまった現在、フイルムカメラが写真撮影という行為の中で主流に返り咲くことはおそらくないだろう。
デジタルカメラの普及は、撮影という行為を手軽なものにし、携帯、スマフォを含むネットを通した写真によるコミュニケーションの普及が世の中における撮影枚数の総数を、フイルム時代とは比較にならないものまで引き上げた。
だが、ここまで写真を撮る機会、写真の枚数が増えているのに、どうして単純に心霊写真の数は減ってしまっているのだろうか?
ここで一つ問う。心霊写真とは、何であろうか?
それは、何らかの強い意志が写真というものに記録されたものである。
生きとし生けるもの、およそ何らかの知性があれば、そこには意志が生じる。生きていたい、生物として当たり前の、ただそれだけのことすら意志と言えよう。
そして、意志は時にカタチをなす。
想いの強さ、思い続ける時間の長さ、積もり積もったその想いは、時に大きく、また強靭になる。
ある条件が成立した時、その想いのカタチを観ることができてしまう。その一つの結果が、心霊写真となるのだ。
では、その条件とは何か?
なぜ、写真に写すことができるのであろうか?
その原因は、レンズというものにあった。
心霊写真の話を世間ではトンと聞かなくなってきて、それに関連付けてネタになることの多い霊能力者のような人間の話も減っている。
が、消えた訳ではない。
物証として写真そのものを用意しなければいけない心霊写真とは異なり、霊能力者がその能力を「証明」する方法は色々とあるからだ。
聴けないはずの声を聴く、動かないはずの物が動くなどの方法が、霊能力者以外の第三者にまでその能力を「証明」する典型的な方法だろう。
もちろん、「自称」霊能力者も、トリックを使用してそれを実現するだろう。
だが、霊能力者が「自称」か「本物」かはさておき、第三者ではその能力を確認するのが難しい「能力」がある。
観る。
瞳を通し、普通の人では観えないものを観てしまう。
想いのカタチが観えてしまう。
普通の人では観えない故に、その能力が本物なのか普通の人では判断つかない。
ただでさえ霊能力者は胡散臭いという扱いを受けやすいのに、観ることを能力とする者は、さらにそれが強くなる。
だが、本当に観えてしまう人はいるのだ。
それが本人にとって幸いとなるかどうかは別として、観えてしまうものはどうしようもない。そしてその本人は、「波長が合ってしまう」とコメントすることが多い。
観ようとしているのではなく、観えてしまうのだから。
だが、なぜ観えてしまうのか、波長があってしまうのか?
その理由は、観ることができてしまう人間の瞳にあった。
瞳の作りそのものはは人間誰でもほぼ同じだが、人それぞれで視力が違うことからもわかるように、瞳の性能は個人個人でそれぞれちがう。そして、視力が異なるだけでなく、人により色の見え方も微妙に異なる。人によって、本当にわずかなレベルで千差万別、そのわずかな「性能」の違いによって、「観えてしまう」人間が現れるのだ。
では、「観えてしまう」人間だから心霊写真が撮れるのかといえば、そうではない。
「観えない」人間も心霊写真は撮れてしまう。
その理由が、先にも述べたカメラの「レンズ」というものにあった。
人間の瞳は、その働きはまさにレンズである。
レンズの性能がたまたま「観える」人間の瞳と同じ働きをした時、想いのカタチを写し込み、心霊写真となるのだ。
そのことに気づいた人間がいた。
そして、その人間は、想いのカタチを観ることができる人間だった。
その人間は、想いのカタチを観ることができる自分の能力を自覚しており、そしてそれを生業としていた。正しく霊能力者であり、多くの「自称」霊能力者と異なり、社会的にも「正しく」その能力を使用していた。
ファンタジーの類でよく使われる職業だが、退魔師や陰陽師、エクソシストのようなものは確かにある。万人に説明できない現象への対処を仕事とするため、どうしてもおおっぴらにできる職業ではないが、専門家でなければ対処できない事象が確かに存在するため、「裏稼業」の扱いを受けながらも消えることは絶対にない。
だが、彼はその仕事を誇りに思っていた。
ほとんどの人間が観ることができない想いのカタチ。
それは、ポジティブなものもあればネガティブなものもある。
そして、得てしてネガティブなものほど想いは強く、時に想いのカタチが「観える」に留まらず、チカラとなって周りに影響を与えてしまうことがあるのだ。
自分の経験を思い返して見て欲しい。
これまであった人間で、とても強い意志を持っていることヒシヒシと感じさせる人はいなかったか?
それがポジティブにしろネガティブにしろ、何らかの圧力を感じさせる人間がいたはずだ。ポジティブな圧力であれば、オーラとか威厳とか呼ばれることもある、それは、一つの想いのカタチでもある。
そして、ネガティブな想いのカタチは、その性質上、一所に集まりやすい。暗い想いは長続きし易く、長く続くほど想いが強くなり易いのが一因だろう。
そして、想いのカタチには、同じ性質のもので集まりやすい傾向があった。特に、ネガティブなものほどその性質は顕著であった。
結果、集まりに集まったネガティブな想いのカタチは、現実に影響を与えられるほどの強さとなる。その想いの方向性から、いい影響ではないのは明らかだろう。
退魔師や陰陽師、エクソシストなどと呼ばれるものの仕事の一つは、その影響を取り除くことにあり、その作業は除霊などとも称された。
取り除く方法は千差万別だが、ネガティブな意志のカタチを何らかの方法でなくしてしまうという点で共通だった。方法は問わない。取り除きさえできれば良いのだから。
ポジティブな意志のカタチをその場に持ってきて上書き・中和したり、ネガティブな意志を吸い上げ、その場から運び出したりする。
運び出した場合は、当然、運び出したネガティブな意志のカタチへの対処が必要だが、その方法にも様々にある。
別の場所で中和をおこなったり、自身では中和をできない場合はできる伝手に依頼をすることもある。もっといい加減で、周囲に影響がないレベルまで拡散させて誤魔化すものもいる。
いづれにしろ、「除霊」にはネガティブな意志のカタチを観ることができ、さらには何らかの干渉ができる必要があった。
先の、「レンズの可能性」に気づいた霊能力者は、実際にカメラを使用した「除霊」を試してみたことでさらなる発見をすることができた。なんと、心霊写真として想いのカタチを撮影すると想いのカタチを写真として観ることできるようになっただけでなく、写真に移すことまでもができたのだ。
当時はフイルムカメラしかなかった時代。しかも、除霊という作業を通じた作業と異なり、心霊写真の撮影を通した想いのカタチの取り込みでは、一度ですべての想いのカタチを取り除けることは稀であった。
それでも、事前に入念な準備作業を経てお札なり依代なりを用意し、現場でも長時間、想いのカタチと直接向き合って「除霊」作業を行うことを思えば、カメラによる撮影だけで代行できるということは画期的なことだった。
時間も危険性も格段に減らすことができる。
自分の仕事に誇りを持つ彼の霊能力者は、レンズの可能性に気づいて以来、その研究に全力を掲げた。
どうすれば確実に心霊写真を撮影できるのか?
撮影できるレンズの種類は?条件は?
その霊能力者はほぼ確実といえる方法論を編み出した。
何の事はない。レンズとフイルムにそれぞれ強制的に想いのカタチの影響を与えて、心霊写真を撮れるようにしたのである。
想いのカタチをものに付与する、取り除く。日本ではその手のことを得意とするところが豊富にあった。
神社仏閣。
だが、場所は豊富にあっても、任意の方向でものに想いのカタチを与えることができる能力を持つ人間は意外に少なかった。
彼の霊能力者がその手のことを本当にできる伝手を得て、試行錯誤を延々と繰り返して方法論を確立するまでに、気づけば20年もの歳月が経っていた。
そして、いざ方法論が確立された時期は、デジタルカメラの普及が始まった頃と重なっていた。
記録方法がフイルムからフラッシュメモリにかわったとはいえ、レンズを通して撮影することに変わりはなく、一眼レフカメラのようなレンズ交換式カメラの場合、同じメーカーでさえあればデジタルカメラとフイルムカメラでレンズの互換性もあったため、フラッシュメモリへの対策さえ行うことができれば対応は可能との見通しがあった。
さらに2年程の試行錯誤を必要としたが、ついにデジタルカメラへの対応も完了することができた。
そして、その間にフイルムカメラを使用して「除霊」を行っていたため、同業者には、その方法と有用性が広く知れ渡るようになっていた。
もとより技術の独占など考えていなかった彼の霊能力者は、デジタルカメラ版の確立と共に、その技術を惜しみなく広めて回った。
長々と説明してきたが、この普及の結果が、心霊写真を見なくなることに繋がった。
乱獲が発生したのである。
想いのカタチがネガティブだろうがポジティブだろうが関係ない。
多くのその手のものにとって、除霊は仕事であり、飯のタネなのだ。
ネガティブなものであれば、正しく「除霊」となり、ポジティブなものの場合、その方向性の力を持ち運びできるというのは、色々と利用価値があるのだ。
そして、この国には古くから、自主的に「悪いもの」を取り除き、それを報告すれば報酬がもらえる制度があり、公としてそれを業とする職もあった。
それが乱獲に拍車をかけた。
いくらデジタルカメラが普及し、スマフォなどでお手軽に撮影ができるようになっても、写るものがいないのでは写らない。
発生する先から、専門家が獲って行くのだから。
除霊業者間での競争も激化した。
カメラによる除霊が普及するまでは、業者の「処理」数は発生数にギリギリ追いつく程度であったのだが、普及後は完全に過当競争状態となった。
想いのカタチがどんなに弱いものであっても、発生した数時間以内に業者が殺到、除霊されるありさまだった。
お上の動きもこの状況に一役買った。
あまりにも古くから続く制度であり、しがらみも非常に多いため、届け出た時の報酬を簡単にはさげられなかったのである。
しかも、過去よりずっと、ネガティブな想いのカタチがもたらした被害は大きいものが多く、除霊によって得られる報酬は莫大と言って良いものに設定されていた。
一番低い報酬でも、サラリーマンの2ヶ月分くらいの収入になるのである。
いかなる伝手か、事情を知ったにわか業者が参入し、みな、狩りに狩って狩りまくった。
こうして、世の中から心霊写真は消えて行った。
だが、彼の霊能力者は満足気だったという。
お読みいただきありがとうございました。