第2章:愛の完成、あるいは死の始まり
エルナは懐かしい夢から目覚めた。
あれは、初めてキリアンと会った日のこと。彼の何も見ていない瞳がふいに自分へと焦点を合わせた。彼が何を想って自分を妻に迎えたかは分からない。ただ、実に99回もの死を彼女に与えたのはキリアンその人だということしか分からなかった。
エルナは、寝台の天蓋を見つめながら、最も鮮明で無機質だった初めての死を想起した。
一回目のあの日、彼女はまだ何も知らなかった。没落から救ってくれた公爵を、冷徹ながらも慈悲深い恩人と信じ、一年の契約を満了した自分への自由という報奨を心待ちにしていたのだ。
契約終了日の夜。キリアンは、暖炉の火が爆ぜる静かな書斎に彼女を呼んだ。机の上には、旅立つ彼女への餞別として、琥珀色に輝く最高級のブランデーが二つのグラスに注がれていた。
「一年間、実によく務めてくれた。君という美しい妻を失うのは、惜しいほどだ」
その言葉を、エルナは額面通りに受け取った。差し出されたグラスを手に取り、彼と視線を合わせ、微笑みながらその毒を煽ったのだ。
異変はすぐに訪れた。喉の奥を、熱い鉄の棒で撫でられたような違和感。続いて、肺が急速に石に変わっていくような錯覚に襲われた。酸素を求めて喘ぐエルナの視界で、キリアンは一歩も動かず、ただ静かに彼女を観察していた。まるで、砂時計が落ち切るのを待つ観測者のように。
「……あ、……旦那、様……?」
声が出ない。崩れ落ちたエルナを、彼は抱き起こすこともしなかった。
キリアンはゆっくりと彼女の傍らに跪くと、麻痺し始めた彼女の頬を、手袋を嵌めた指先でそっと撫でた。
「やはり、生身の人間は不完全だ。瞬きをするたびに表情を変え、私の知らない思考を巡らせる。だが、今ようやく、君は完成に向かっているよ」
絶望に染まるエルナの瞳を、彼は恍惚と見つめていた。
内臓が焼けるような痛みが全身を支配し、意識が遠のく中、エルナが最後に見たのは、自分を愛おしそうに眺める彼の何も見ていない瞳が、初めて喜びに爛々と輝く瞬間だった。
(ああ、この人は、私を愛していたんじゃない……)
死の間際に悟った。彼は、エルナという人間が欲しかったのではない。自分の手で「死」という永遠を与え、二度と変化することのない、完璧な静止画となった彼女を愛でたかったのだ。
ドクン。
心臓が最後の一打ちを終え、暗闇に飲み込まれた――。
次の瞬間、彼女は眩い朝の光の中で、あの結婚式の朝の鏡の前に立っていた。
エルナは寝台の上で、自分の喉を強く掴んだ。あの一回目の死で植え付けられた、冷たい毒の痺れは、今でも彼女の魂に消えない刻印として残っている。
キリアンの手の中で、ブランデーのグラスが静かに揺れていた。
琥珀色の液体に反射するのは、暖炉の火と、そして目の前で「自由」という名の偽りの希望に瞳を輝かせるエルナの姿だ。
(ああ、不快だ)
彼女が微笑むたび、キリアンの胸を言いようのない焦燥が突き上げる。
一年。彼女は完璧な妻を演じきった。だが、その完璧さはキリアンにとって「いつか失われるもの」のカウントダウンでしかなかった。
明日になれば、彼女はこの屋敷を去る。誰かに微笑み、誰かに触れられ、老いて、醜くなり、やがて彼の記憶にない場所で塵に帰る。
そんな変化を、キリアンの傲慢な愛が許すはずもなかった。
「一年間、実によく務めてくれた」
嘘ではない。感謝すらしていた。彼女がその「美しさの絶頂」のまま、今日この場所で止まってくれることに対して。
エルナがグラスを傾け、毒を飲み干す。
キリアンは、彼女の喉仏が小さく上下する瞬間を、瞬きもせずに見つめていた。
まもなく、彼女の瞳から生気が剥離し始める。
肺が動かなくなり、酸素を求めて彷徨う彼女の指先が、テーブルの端を虚しく掻いた。床に崩れ落ちるその仕草さえ、キリアンの目には舞踏会のワルツより優雅に映った。
(もっと私を見て、エルナ。その絶望を私だけに捧げてくれ)
彼は椅子の背にもたれたまま、動かなかった。助けるためではない。彼女の細胞一つ一つが死に屈し、不変の物質へと変質していく神秘を、一秒たりとも逃したくなかったからだ。
「あ、……旦那、様?」
掠れた声が、彼の名を呼ぶ。
その瞬間、キリアンはこれまでにない全能感に満たされた。今、この女の世界には自分しかいない。恐怖も、痛みも、最後に刻まれる意識のすべてがキリアンという存在で塗り潰されている。
キリアンはゆっくりと立ち上がり、冷たい床に横たわる彼女の傍らに跪いた。
手袋を嵌めた指先が、次第に体温を失っていく肌をなぞる。
「やはり、生身の人間は不完全だ」
囁きながら、彼は歓喜に震えていた。
激しく波打っていた彼女の胸が、ついに静止する。
見開かれたアイスブルーの瞳が、焦点を失い、鏡のように無機質な輝きへと変わった。
(美しい。ようやく、君を愛せる)
もはや彼女は、自分を拒絶しない。自分を裏切らない。明日になれば去ってしまう生き物ではなく、永遠に自分の書斎を飾る至高の芸術になったのだ。
キリアンは、エルナの冷たくなった額に、深く、敬虔なキスを落とした。
これで完成だ。この世界で最も美しい標本。
だが、その陶酔が頂点に達した瞬間、世界が音を立てて崩れ始めた。
彼の指先が触れていた肌の感触が、霞のように消えていく。
「……何だ? これは」
完成したはずの標本が、腕の中から砂のようにこぼれ落ちる。
焦燥に駆られ、虚空を掴んだ。
次の瞬間、眩い朝の光が視界を焼き――彼は、一年前にエルナを初めて迎え入れた、あの結婚式の朝へと引き戻されていた。
キリアンは自らの手を見つめ、狂ったように笑い声を上げた。
(神が、まだ不足だと言っているのか)
彼女を完璧に殺し、完璧に愛するために。
キリアンの終わりのない、百回に及ぶ標本制作が、その日から始まったのである。




