第1章:殺意の初夜
長い一日が終わった。
豪奢な新婚の寝室。エルナは一人、静かにドレスを脱ぎ、薄い夜着に着替えていた。真新しいシルクの肌触りは、過去九十九回のどの夜よりも冷たく、そして重い。
(今夜も、いつも通りなのね……)
九十九通りの死の記憶が、ずらりと標本のように脳裏に並んでいる。エルナはベッドサイドに座り、深く息を吐いた。もはや恐怖はない。ただ、無限に繰り返されるこの茶番に対する、深い倦怠感だけが胸中に渦巻いていた。
扉が静かに開く。
音もなく入室したのは、キリアン・フォン・ドレッドリッヒ公爵。彼はいつも身に着けている手袋をゆっくりと外し、完璧な所作でサイドボードに置いた。
キリアンはエルナの前に立ち、ゆっくりと顔を屈めた。その瞳は、深淵の闇を湛えながらも、彼女だけを射抜くような熱を宿している。
「エルナ……君は、本当に美しい」
囁きと共に、彼の手がエルナの頬を包み込む。吸い寄せられるように顔が近づき、重なった唇から、熱い吐息が流れ込んできた。
深く、喉の奥まで探り合うような、情熱的なキス。キリアンの腕は折れそうなほど強く彼女を抱き寄せ、その拍動がエルナの胸にも伝わってくる。初々しい花嫁なら、このまま愛の深淵に溺れてしまうような、完璧な睦み合い。
だが、その熱が最高潮に達した瞬間。
「……っ」
キリアンの大きな手が、愛撫の延長でエルナの細い喉を掴んだ。
直前まで唇を割っていた男の瞳から、一切の熱が消え失せる。代わりに宿ったのは、透き通った冬の湖のような、静かな殺意。彼はそのままエルナをベッドへ押し倒すと、馬乗りになり、全体重をかけて彼女の喉を潰しにかかった。
酸素が遮断され、視界がチカチカと明滅し始める。
だが、キリアンは気づく。腕の中の女が、全く抗っていないことに。
過去のどの獲物も、そして過去九十九回のエルナも、死に直面すれば醜くもがき、絶望に瞳を濡らした。しかし、今のエルナはどうだ。
彼女は苦痛に顔を歪めながらも、その瞳は驚くほど冷ややかに、ただ静かにキリアンを見つめ返していた。
「……旦那様」
エルナが、掠れた声で口を開いた。キリアンは、死の間際にあるはずの女が言葉を発したことに、本能的な戦慄を覚える。
「……なぜだ。なぜ、怯えない。死ぬのだぞ、お前は」
エルナは、自分の首を絞めるキリアンの手に、自らの手をそっと重ねた。
「……旦那様。親指の位置が……少し、甘いわ」
「何?」
エルナは、死の淵にあるとは思えないほど穏やかな笑みを浮かべた。
「……頸動脈を……もっと、確実に……。そう、そこを一気に。今のやり方では、苦しい時間が、長引くだけですわ。32回目の、時のように……背後から、頸椎ごと……折ってくださった方がずっと、鮮やか、でしたのに」
キリアンの指から、力が抜ける。
殺すのは容易い。だが、このレクチャーが、彼の完璧な世界に致命的なノイズを走らせた。
「お前は何を言っている……」
「殺したいのなら、どうぞ。でも、今度の私は少しだけ気が変わりましたの。死んで差しあげるよりも、生きてあなたの『絶望』を観察する方が、ずっと楽しそうだと思って」
キリアンは、己の心臓が不規則に跳ねるのを感じた。
殺意が、どろりとした未知の感情に塗り替えられていく。この女は、自分が知っている「エルナ」ではない。
「……面白い。一年の契約だったな、エルナ」
キリアンは彼女の喉元に残った指の跡を、今度は愛撫するように丁寧になぞった。
「生きていろ。お前がその余裕を失い、泣き叫んで死を乞うまで……私はお前を、一秒たりとも離さない」
翌朝。主人の部屋から出てきた執事オズワルドは、主人の異様な様子に気づき、モノクルの奥で瞳を細めた。
キリアンは、朝食も摂らずに書斎へ引きこもり、昨夜のエルナの瞳を思い出しては、陶酔したように自らの手を眺めている。オズワルドは、エルナの部屋を訪れると、慇懃に頭を下げた。
「奥様。旦那様が殺すのを忘れるほど何かに没頭されるのは、生まれて初めてのことでございます。……さあ、あのお方をどう壊してくださるのですか?」
エルナは、鏡の前で首筋の痕を隠すようにリボンを結び、静かに笑った。
「あら、忘れたわけではないわ。彼はただ、新しいおもちゃの遊び方を考えているだけよ」
百回目の人生。
キリアンの殺意は、エルナの異常性という名の毒によって、引き返せない執着へと変わり始めていた。




