第57話 それでも踏む者
その依頼は、ギルドの正式書式で届いた。だが、綴られた文面は妙に短い。
件名:境界使用を伴う救助
依頼主:ハインツ
備考:結果は、すべて自己責任で引き受ける
ロイドが、無言で紙の端を指で押さえたまま俺を見た。
「……俺に、止めろと?」
「いや」ロイドは首を振る。「“知っておいてほしい”だけだろう」
俺は紙を静かに畳んだ。止めるためでも、手を貸すためでもない。ただ、見届けるために行く。
現場は、崩れかけた谷道だった。転落した荷車が斜面の途中で裂け、その下に人が取り残されている。石がぱらぱらと落ち続け、足場は今も痩せていく。時間はなかった。
「……踏むぞ」
ハインツはそう言って、俺を見た。値踏みする目ではない。確かめる目だ。
「止めないか?」
「止めない」
即答だった。
「理由は?」
「それを選んだのは、お前だ」
ハインツは短く笑い、喉の奥で「……だよな」と零した。
次の瞬間、彼は境界を踏んだ。空気が歪み、距離が縮む。ありえない速さで、彼の姿が谷底へ滑り落ちていく。
数分後、救助は成功した。取り残された二人は、生きている。
だが――谷を這い上がってきたハインツは、片手で胸を押さえ、荒く息を乱していた。
「……来たか」
「何を、失った」
俺が問うと、ハインツは少し考えてから答えた。
「……娘の、声だ」静かな声だった。「顔は覚えてる。名前も分かる。だが、声だけが、どうしても思い出せない」
リーファが、唇を噛む。
「……それでも、ですか」
ハインツは、谷の下へ目をやった。助けられた二人が、抱き合って泣きながら礼を繰り返している。
「……それでも、だ」
迷いはなかった。
「俺は今日、踏んでよかった」
俺は、何も言わなかった。言える言葉が、なかった。
帰り道、リーファが静かに口を開く。
「……間違っている、とは言えません。でも、正しいとも言えない」
「それでいい」
世界は、白か黒で塗り分けられてはいない。
街へ戻る丘の手前で、旅装の男が風上に立っていた。
「見届けたな」
「……ああ」
「どう思う」
「尊敬はしない。否定もしない」俺は言葉を選ぶ。「ただ、重い選択だ」
男は、ゆっくり頷いた。
「それが、正解だ」
ハインツは、これからも踏むだろう。俺は、踏まない。同じ世界で、違う道を歩く。それだけのことだ。
だが今日、その違いの輪郭が、以前よりくっきりと手に触れた。娘の声を失ってなお「よかった」と言い切れる者がいる――その事実を否定せずに抱えたまま、俺は自分の道を選び直す。
別れ際、ハインツが俺に頭を下げた。踏む者が、踏まない者に。その順序が逆でないことに、しばらく言葉が出なかった。
次にギルドの扉を叩くとき、俺が受けるのは、きっと誰の声も奪わない依頼だ。
使えば助かる。失うものもある。――その二択の外を、次話で探します。




