第53話 境界の値段
最初に気づいたのは、医療院だった。
「……奇妙な患者が、増えています」白衣の女性が、そう言った。「怪我ではありません。病気とも、違う。ただ……」言葉を探すように、視線を落とす。「“何かを忘れている”んです」
俺は、診察室の奥を見た。寝台に横たわる男。年齢は、三十前後。意識は、はっきりしている。
「名前は?」
「……分かりません」
「怖いか?」
「いえ」男は、穏やかに答える。「でも……何か、大事なことを、置いてきた気がします」
魔力反応はない。呪いもない。それなのに――。
(……削れてる)
境界に触れた痕だ。魔力でも肉体でもなく、その人間を形づくっていた何かが、薄く削り取られている。
「他にも?」
「三人ほど」医師が答える。「全員、共通点があります。街道南。倉庫街。……境界事故の、周辺です」
やはり、か。
外へ出ると、リーファが唇を噛んだ。
「……助けられないんですか」
「戻らない」はっきり言った。「境界は、踏んだ対価を必ず取る。命じゃないだけ、まだ軽いほうだ」
それが救いにならないことは、自分でも分かっている。
その日の午後には、噂が広がり始めていた。
「近道を使ったら、記憶が抜けた」
「感情が、薄くなったらしい」
「名前を、忘れたって」
だが、人々の声にあるのは恐怖ではなかった。計算だ。
「それでも、便利なら……」
そんな呟きが、確かに混じっていた。
丘へ上がる。風に混じって、旅装の男の声がした。
「値段が、見えてきたな」
「……安いと思う者もいる」
「いるだろうな」男は、淡々と答える。「だから、人は踏む。命が助かる。距離が縮む。戦いを避けられる。その代わりに、ほんの少し、削れるだけだ――そう思えるうちは、な」
俺は、目を閉じた。
「……止められない」
「止められない」男は肯定する。「世界が、そういう選択を許している。お前が全てを止めたら、境界は別の形で壊れる」
それが分かっているから、走れない。走らないことのほうが、よほど力を要る。
夕暮れ。雑貨屋の前で、ユイが俺を呼び止めた。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「ね」ユイは、少し不安そうに言う。「踏んだ人たち……」
「……戻らない部分がある」
正直に答えた。ユイは、しばらく黙り込む。それから、顔を上げた。
「でも、全部、なくなるわけじゃない」
「そうだ」
「じゃあ」ユイは、小さく頷く。「ぼくは、踏まない」
その選択は、尊い。だが――強制できるものじゃない。誰かに「踏むな」と命じた瞬間、それはもう、この子が自分で選んだ言葉ではなくなる。
ユイの頭の高さに目を合わせたまま、しゃがんでいた。この子の前では、力を出す気になれない。持っているものを一度も見せずに済む相手は、そう多くなかった。
夜。街の灯が、風にあわせて静かに揺れている。境界は、いつのまにか力の問題ではなくなっていた。“取引”として、この街に受け入れられ始めている。それでも――ユイのように、便利さを前にして立ち止まる者がいる限り、削られた世界は、まだ元へ戻れる。俺は、揺れる灯のひとつひとつを見下ろしながら、そう信じることにした。
忘れることの代償を見た後で、それでも踏むと言い切る男が現れます。




