第53話 境界の値段
最初に気づいたのは、医療院だった。
「……奇妙な患者が、増えています」
白衣の女性が、そう言った。
「怪我ではありません」
「病気とも、違う」
「ただ……」
言葉を探すように、視線を落とす。
「“何かを忘れている”んです」
俺は、診察室の奥を見た。
寝台に横たわる男。
年齢は三十前後。
意識は、はっきりしている。
「名前は?」
「……分かりません」
「怖いか?」
「いえ」
男は、穏やかに答える。
「でも……何か、大事なことを」
「置いてきた気がします」
魔力反応は、ない。
呪いも、ない。
だが――
(……削れてる)
境界に、触れた痕。
「他にも?」
「三人ほど」
医師が答える。
「全員、共通点があります」
「街道南」
「倉庫街」
「……境界事故の、周辺です」
やはり、だ。
外に出ると、
リーファが、唇を噛んだ。
「……助けられないんですか」
「戻らない」
はっきり言った。
「境界は」
「踏んだ対価を、必ず取る」
「命じゃないだけ、まだ軽い」
それが、救いとは言えないのは分かっている。
その日の午後。
噂は、広がり始めていた。
「近道を使ったら、記憶が抜けた」
「感情が、薄くなった」
「名前を、忘れたらしい」
恐怖ではない。
計算だ。
「それでも」
「便利なら……」
そんな声が、混じる。
丘の上。
風に当たっていると――
「値段が、見えてきたな」
旅装の男が、低い声で言う。
「……安いと思う者もいる」
「いるだろうな」
男は、淡々と答える。
「だから、人は踏む」
「命が助かる」
「距離が縮む」
「戦いを避けられる」
「その代わりに」
「少し、削れるだけだ」
俺は、目を閉じた。
「……止められない」
「止められない」
男は肯定する。
「世界が、そういう選択を許している」
「お前が、全てを止めたら」
「境界は、別の形で壊れる」
それが、分かっているから――
走れない。
夕暮れ。
雑貨屋の前で、
ユイが俺を呼び止めた。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「ね」
ユイは、少し不安そうに言う。
「踏んだ人たち……」
「……戻らない部分がある」
正直に答えた。
ユイは、黙り込む。
「でも」
しばらくして、顔を上げた。
「全部、なくなるわけじゃない」
「そうだ」
「じゃあ」
ユイは、小さく頷く。
「ぼくは、踏まない」
その選択が、尊い。
だが――
強制できるものじゃない。
夜。
街の灯が、静かに揺れている。
追放された無能魔術師は、
この日――
境界は、力ではなく
“取引”として、世界に受け入れられ始めていることを、
はっきりと理解した。
そして同時に。
それでも踏まない者がいる限り、
世界は――まだ、戻れると。
彼は、信じていた。
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