8 初恋
フィクシスは、あの日から一日も欠かさず愛する人の元を訪れていた。最初の頃はただ静かに涙を流すだけだったが、次第に許しを乞う言葉をかけるようになっていった。
「すまない、エウリラ。ごめん。ごめん」
「何故あんな愚かなことをしてしまったのか」
「おはよう、エウリラ。昨日は、兄上に叱られてしまったよ」
前夜の出来事を思い出し苦笑いを浮かべる。
先日、『第二王子フィクシスはスフェル侯爵家の企みによる被害者であり、婚約者エウリラは侯爵の企みの結果、呪いによりダイヤモンドと化した』と布告が出された。あわせて、首謀者である侯爵とメルティカは終身刑。その他一族は爵位剥奪、財産没収の上、国外追放となったことが発表されたのだ。
社交界の貴族たちは表向き王家の発表に倣っていた。しかし、裏ではフィクシスに好奇の目や非難の視線を向け、呪いと宝石の噂をまことしやかに囁く者もいた。
箝口令は敷かれたものの、すべての口を塞ぐことはできない。
とある夜会にフィクシスは兄である王太子リンクスの補佐として出席していた。
『娘を宝石になど、ご勘弁願いたいものだ』
酒の勢いか、あるいは意図的な挑発か、嘲笑う声が、傷心のフィクシスに浴びせられた。思いの外よく通る男の声に周囲の空気も凍りついた。
不躾な発言に一瞬言葉に詰まらせたが、彼はエウリラへの愛を貫くと決めたのだ。
『ご心配なく。私には、もうたったひとり、心に決めた愛する人がおります』
フィクシスは嘲笑の主をまっすぐ見据える。
『エウリラ以外の女性に、よそ見などしません。ですから、貴方のご令嬢が宝石になることは、永遠に有り得ませんよ』
わずかに声を震わせつつも、静かに決意を込めて言い放った。
真剣な眼差しに周囲の者たちは息を飲み、嘲笑った貴族は気まずそうに視線を逸らしてそそくさと立ち去った。
夜会からの帰路、馬車の中でリンクスはフィクシスを嗜めた。
『フィクシス、公の場で相手の挑発に乗るな。王家の品格に関わる』
顔を伏せ『申し訳ありません、兄上』と呟いた。
『気持ちは痛いほどわかる。お前の想いの強さも。だが、今後はもう少し賢く立ち回る術を身に付けろ。……もっとも、あの場で、恥をかいたのはあの男の方だろうがな』
リンクスは窓の外へと視線を移し、わずかに口角を上げた。
弟を蔑んでいたあの男が社交界から消える日も近いであろう。
『……スフェル家に対する処罰も正式に発表された。次第におまえに対する好奇の目もなくなるはずだ』
声は厳しかったが、咎める視線ではなく、弟を案じる眼差しをしていた。
リンクスの言葉にフィクシスはただ静かに頭を垂れた。
厳しい言葉の端々に滲む兄の気遣いは、充分伝わっていた。
*
「エウリラ、君の好きなスズランを摘んできたよ」
白く小さな花がまさに鈴のように集まるスズランの束を花瓶に活け、エウリラの足元に飾る。
「君は覚えているだろうか? 初めて出会ったあの日を──」
目を閉じれば、今も鮮やかなあの日の記憶が蘇る。
王宮の庭園で行われた有力貴族家同士の結婚式。
まだ五歳と幼かったフィクシスは、王族らしくと口うるさい兄から逃げ出す。華やかな喧騒を避け、会場の片隅にある生け垣の陰に隠れていた。
『……取り皿にケーキをみっつ乗せただけで、あんなに怒らなくてもいいのに』
まだあとふたつは乗せられたな、とひとり頬を膨らませる。
当時のリンクスは第一王子としての責任感からか四歳差とはいえ大人びていて、フィクシスにとっては父の次に怖い存在だった。
その時、突然ガサガサと生け垣が音を立てる。驚いたフィクシスは『うわっ』と小さな叫びを上げてしまう。
生け垣の根元を掻きわけて現れたのは、ふわふわとした栗色の仔犬──ではなく栗色の髪。驚いて固まるフィクシスを大きな蜂蜜色の瞳がじーっと見つめてくる。
『あれ、こんなところでなにしてるの?』
……何をしてるのかは僕が聞きたい。有り得ないだろう、貴族令嬢が生け垣から這い出てくるなんて。
『僕は、疲れたから休んでいたんだ』
何故だか兄から逃げてきたとは言いたくなくて、ささやかな嘘をついた。
『それより、君、貴族の令嬢が……こんな、お転婆すぎるだろう』
『うふふ。大丈夫よ。お母様が「エウリラも大人になれば立派な淑女になるわ」って言ってたもの』
得意気に胸を張る姿にフィクシスは全身の力が抜けてしまう。
その時ひときわ大きな歓声が響いて、ふたりは並んで生け垣から頭を覗かせた。
今日の主役、花嫁が会場に姿を見せていた。真っ白なウエディングドレス、その裾には花婿の家紋を模した翼を広げた鷹。
『素敵ねえ。私、ウエディングドレスにはスズランの刺繍を入れたいわ』
花嫁を目で追いかけながら、エウリラが溜め息交じりに呟いた。
この出会いが、フィクシスにとって初めての恋に落ちた瞬間だったのだろう。
王城にはまずいない天真爛漫なエウリラ。彼女は、母の言葉の通り成長するとともに立派な淑女へと変身を遂げた。
天真爛漫な幼い頃も淑女になった後も、フィクシスにとって彼女はかけがえのない存在だった。
「知っているかい? あれが、僕の初恋だったんだ。あの日の君の言葉が忘れられなくて、ウエディングドレスにスズランの刺繍を入れたんだよ」
梟の刺繍がないと母にたしなめられて、スズランの葉を梟の羽根の図柄にしたのだ。
語りかけるフィクシスの声は、誰もいない儀式の間で虚しく反響する。
スズランの束を飾った花瓶を見つめながら、フィクシスは静かに初恋の思い出に浸り続けた。




