5 綻び
婚姻の儀を十日後に控えた、ある夜会でのこと。
メルティカに『エウリラのことで、殿下にだけお伝えしたいことがある』と人目を避けてるように控え室へと連れ出された。
『どうぞ、フィクシス殿下。お疲れでしょう?』
酒の入ったグラスを手渡される。口にするのは躊躇われたが婚約者の親友だ、無下に断るのも気が引けた。それに『エウリラについての話』も気になり、警戒心が薄れたのだろうか、つい一口、二口と喉に流し込んだ。
革張りのソファーに向かい合って腰掛けたメルティカに尋ねる。
『それで、エウリラのこと、とは?』
『実はエウリラから、ウエディングドレスの刺繍がスズランだと伺いまして、殿下の紋章でないのは何故なのか、と……』
眉を下げ、友人を案じる心配顔。しかし、手で隠した口元を醜く歪めていることに、フィクシスは気づく由もなかった。
確かに、この国では婚約者のウエディングドレスには、新郎の紋章を入れて贈るのが伝統だ。だが、慣習から外れるのには理由がある。僕にとっては伝統よりも遥かに意味のある大切な理由が。
『それは……』
エウリラの友人とは言え、その理由をやすやすと話す気になれずに口ごもった。
まさか、エウリラはあの日の出来事を忘れてしまったのか?
『もしかしたら、エウリラとの婚姻を迷ってらっしゃるのでしょうか?』
ずい、と身を乗り出すメルティカに潤んだ瞳で見つめられ、不意打ちの視線に思わず心臓が跳ねた。
──思えば、なんと軽率な行動だったか。やり直せるならば、今すぐにでもあの時に戻りたい。
そこから先は記憶が曖昧だった。喉が焼けるような感覚に思わず咳き込み胸を押さえる。途端に頭がくらりとし、全身が燃えるように熱くなっていくのがわかった。
慌てて立ち上がり彼女から距離を取ろうとするが、足元が覚束ない。メルティカは素早く距離を詰めると、壁際に追いやったフィクシスに勢いよく抱きついてきた。
『フィクシス殿下……ずっと、ずっと、お慕いしておりました』
必死に引き剥がそうとするが、体が痺れて力が入らない。みずみずしい桃の香りに鼻孔が刺激される。抵抗するフィクシスの顔を、両手で強く押さえつけ薄紅色の唇が近づいてくる。
『お願いします。わたくしのことを、どうか愛してくださいませ……ね? 殿下』
洞窟の奥から響いてくるように歪んだ声。視界に映るメルティカの声と姿が、愛するエウリラと重なり目の前にいるのが誰なのかわからなくなってしまう。
フィクシスはただ必死に幻となったエウリラの名前を呼ぼうとした。だが、自分の意志に反して、唇からこぼれたのは全く違う言葉だったのだ。
『──愛、している』
思わず、自分にしがみつく華奢な背中に手をまわし抱き寄せた。
目の前にいるメルティカに対してなのか、それとも幻の中にいるエウリラに向けてなのか。酩酊状態の中で、フィクシス自身にも判別出来なかった。
結果として、この夜の出来事がエウリラの運命を決定づけたのだ──。
*
『エウリラ、ひとりにしてすまなかった』
先ほどからフィクシスの姿が見えず、会場内を探し歩いていたエウリラは背後から探し人に声をかけられた。
振り向くと、控え室が並ぶ廊下の奥からフィクシスが少しよろけながらやって来る。腰下まで届く上着の合わせを直しつつ、少し慌てているのか額にはうっすら汗が滲んでいた。
『大丈夫ですか? なにか不測の──』
突然強く抱きしめられ体温が一気に上がり、鼓動が周囲に聞こえてしまいそうなくらい大きくなる。
彼の婚約者となってから今日まで、手の甲への口づけはあった。けれども、奥手なフィクシスがいつ誰が来るかもわからない場所で、大胆な行動に出るなんてエウリラは考えもしなかった。
突然の抱擁に赤くなりながら、エウリラは違和感を覚えた。フィクシスから漂うお酒の香り。そして嗅いだことのある桃の匂い──メルティカが愛用している香水の残り香に胸がざわめく。
右手を顔に添えられ上を向かされる。見上げた彼の瞳はどこか虚ろで。
『フィク、シス……さま』
呼ぶ声が、震えてしまう。
フィクシスは口づけようとして、一瞬迷うように動きを止める。そして、唇を額にそっと押し当てた。
嬉しく感じるはずの行為が、惑わせる。フィクシスから濃厚に漂う甘い桃の匂いが、彼がメルティカと二人きりでいた証拠ではないのか、と。
――先ほどまで姿が見えなかったのは、メルティカ様と一緒にいたからですか?
疑念を晴らしたいのに、言葉は喉の奥で詰まったまま。
『そろそろダンスのはじまる頃だ、行こう』
まばゆい光と喧騒の渦が広がる会場へと、足を踏み入れた。華やかな音楽に包まれ、ダンスの輪があちこちで花開いている。
『僕たちも踊ろう』
エウリラをリードする彼の指先が微かに震え、驚くほど熱い。腰に添えられた手は、折れんばかりの力で彼女を抱き寄せた。
『フィクシス様、顔色が……』
向かい合った彼を見上げた時、下顎に付着した淡い紅色の汚れが目に入った。
心臓が、跳ねる。
エウリラは思わず手を伸ばし、その紅を拭う。自らの心に広がる不安を拭い去るように。
きっと誰かとぶつかって匂いが移っただけよ、そうに違いないわ。
この紅も、何かの間違いよ。
自分に言い聞かせるたびに、ほの暗い感情が積もって全身が冷えていくのを感じた。それでも、エウリラは自分の中で芽生えたその感情に蓋をすることしかできなかった。




