13 短剣
普段儀式の間を訪れるのはティトスくらい、後は常駐する神官たちがときどき王城と行き来する程度。王宮の片隅ということもあり、衛兵は静かで穏やかな時が流れる空間を日々警護していた。
ティトスがいつも通りに訪れ、いつも通りの日常となるはずだった。
「公爵……令嬢、こ、ここは、王族以外は立ち入れません」
訓練された衛兵ですら、その異様な光景に思わず怯んだ。
エスフォール公爵家の令嬢といえば、貴族令息たちの憧れの存在だと、身分の低い衛兵ですら知っている高嶺の花。
しかし、テラコッタ色の髪はぐしゃりと乱れ、鮮やかな緑の瞳は血走っている。口元は赤黒く汚れて浮かべた歪な笑みが不気味さを増していた。血塗れの手で短剣を握りしめ、ふらりとしながら向かってくる様はまさに化物。
「止まれ! 止まって下さい、エスフォール公爵令嬢」
一歩また一歩と儀式の間へと続く階段を上るリディアナ。階段に彼女の足跡がひとつまたひとつと赤く残るのを、衛兵は呆然と見つめた。
唸り声と荒い呼吸が混ざった音が口から漏れ聞こえ、衛兵は息をのむ。恐怖で体が硬直し、脇を通りすぎる彼女を目で追いかけるしか出来ない。
「ま、待ちなさい……」
ハッと我に返った衛兵が彼女の肩を背後から掴んだ。中には殿下がいるのだ。侵入を許す訳にはいかない。
次の瞬間、振り返ったリディアナが細い体からは想像も出来ないほどの力で衛兵の腕を振り払う。バランスを崩した衛兵は鈍い音を立てて階段を転がり落ちていった。
荘厳な扉を強引に押し開きリディアナの姿は中へと吸い込まれていく。
*
「殿下、お茶でも飲んで行きませんか?」
儀式の間の廊下でアルマンに呼び止められ、促されるままその部屋へ入る。壁一面の書棚に古びた書物が並び、目が奪われる。初めて訪れたはずの場所に、ティトスは何故か懐かしさを覚えた。
質素な作りの椅子に腰掛けるティトスの前に、アルマンが湯気の立つカップを置く。
「疲労に効くハーブティーです」
そんなに顔に出ていたのか。いや、流石に顔に出るのも仕方ない。
心の落ち着く薫りに誘われて、カップを手に取り口へと運んだ。
「僕は、どうすればいいのだろうな」
半ば独り言のようにティトスが呟いた。
「殿下――」
アルマンが何か言いかけたのと同時に、建物の外から「止まれ!」という衛兵の声と、やや遅れて何かが落ちる鈍い音が響いた。
何事かと部屋を飛び出そうとするティトスを、アルマンが神官長として落ち着いた仕草で制する。
「お危のうございます、殿下。私が様子を見て参りますので、こちらでお待ち下さい」
普段の穏やかさからは想像もつかない迫力に気圧され、ティトスは黙って頷いた。
彼が扉に手を掛け開くと、儀式の間へと向かう不審者の姿が横切った。
「お待ちなさい、ご令嬢。ここはあなたが足を踏み入れてはならぬ場所。立ち去りなさい」
廊下へと踏み出したアルマンは、テラコッタ色の髪が揺れる背中に声を掛けた。
騒ぎを聞き研究室の向かいの扉から若い神官がふたり顔を出す。
「ひっ……」
ひとりが廊下に点々と続く赤い足跡を辿り、視線を移すと思わず悲鳴を上げた。
「おまえたち、衛兵を呼んで来なさい」
しわがれた声で冷静に指示を出すアルマンの言葉に、若い神官ふたりは顔面蒼白になりながらもその場を離れた。
「壊してやる。そうすれば、私だけのものになるのよ」
儀式の間の重厚な扉の開くギギギと軋む音がリディアナの叫びと重なりあう。
この声は、エスフォール公爵令嬢か?
「まさか……」
研究室まで届いた叫びに、引き留めるアルマンを振り切ってティトスは部屋を飛び出した。
目指すのは、愛する人が眠る儀式の間だ。
*
初めて足を踏み入れる儀式の間。石壁を飾る初代王妃のステンドグラス。圧倒的な存在感にリディアナも思わず足がすくんだが、ほんの一瞬だけ。
ステンドグラスの光が降り注ぐダイヤモンドの乙女像を捉えるとふつふつと沸き上がるどす黒い感情。
「……見つけたわよ、『悲劇の婚約者』」
短剣を握り直し、『悲劇の婚約者』へと向かっていく。
「おまえさえいなければ、殿下の心は私のものになる……!」
握りしめた短剣を大きく振りかぶり、勢いよく振り下ろした。
「やめるんだ! リディアナ嬢」
ティトスの叫びが儀式の間に響き渡るのと同時に、彼は一直線に『悲劇の婚約者』に駆け寄った。庇うように抱き締めた直後、右肩の辺りに、鈍い痛みが走り思わず「ぐ……っ」と呻きが漏れた。
幾つもの慌ただしい足音。飛び交う怒号。衛兵たちがリディアナをティトスから乱暴に引き剥がし、床に押さえつける。
刃先が赤く染まった短剣が、宙を舞いカランと音を立て床を転がった。弾かれた短剣から散った鮮血の飛沫が、『悲劇の婚約者』の透明なドレスの裾を赤く染めた。
傷口が燃えるように熱を持ち、右手の感覚がぼやけていく。痛みを堪えつつ抱き締めたダイヤモンドの彼女に傷がないか確認し、振り返るとリディアナへと視線を移す。
「リディアナ嬢……あなたの心を傷つけたことはすまないと思う。だが、僕の人生に、あなたという選択肢は永遠にないのだ」
立っているのがつらくなり膝をついた。ティトスは心からの謝罪を述べる。それでも偽れない想い。
「殿下がどれほど『悲劇の婚約者』を愛していると言ったところで、所詮は石でしょう……!」
涙と土埃で汚れたリディアナの絶叫が、喧騒を切り裂き儀式の間に響き渡った。




