10 悲劇の婚約者
暗く、音もない世界。誰かを呼ぶ声も出せず、眩しさも、温かさも、冷たさも感じない。ただただ、孤独だけが存在する空間。
『すまない、エウリラ。ごめん。ごめん』
『エウリラ、君の好きなスズランを摘んできたよ』
時々どこからか聞こえてくる、あの人の声。
『知っているかい? あれが、僕の初恋だったんだ』
『永遠に、生まれ変わったとしても、エウリラだけを愛します』
私にとってたったひとつの希望の声。
ある時を境に聞こえなくなってしまった声。
『おはよう』も『おやすみ』も、もう聞こえない。
もう一度、貴方の声が聞きたい。
――暗い、孤独だけが存在する世界に、懐かしい声が響いた。
「……リラ」
*
ステンドグラスの様々な色に照らされて輝くダイヤモンド像。かつて、王子に偽りの愛を誓われダイヤモンドとなり、いつしか名前をなくした『悲劇の婚約者』。
手のひらを上に向け空へと伸ばされた腕、頬を伝う涙。純白だったであろう透明なウエディングドレスには、健気にスズランが咲いている。
元々は初代王妃の呪いの伝説だった。しかし、国宝として祀られていた王妃の涙は、時が過ぎる中で失われてしまった。やがて王妃の伝説は忘れ去られ、この『悲劇の婚約者』が新たな伝説として語り継がれる。
『婚姻の儀で王子が偽りの愛を誓うと、婚約者は宝石になる』と。
アメトリン王国王子ティトスには、幼い頃から繰り返し見る夢がある。知っているようで、見知らぬ庭園の片隅にある生け垣。その根元を掻きわけ現れた、ふわふわな栗色の髪、蜂蜜色の瞳をした弾ける笑顔の少女。
こちらを見て、何かを言っている少女の声はいつも聞こえない。
一度でいい、君の声が聞きたい。
五歳になったばかりのある日、母に連れられて訪れた儀式の間。
初めて『悲劇の婚約者』と対面した瞬間、本能的にあの夢の少女だと感じた。胸が早鐘を打つみたいに高鳴り何かを叫びだしそうになる衝動。
無意識にあどけない唇が動き、「……リラ」と名を呼んだ。胸を締め付ける苦しさはなんなのか、まだ幼いティトスには知る由もなかった。
成長した今ならばわかる。あれは初恋なのだと。
動くことも言葉を返すこともない、透明なダイヤモンドの彼女に恋をしていた。時間があれば儀式の間を訪れ、静寂の中、二人だけの時を過ごす。
「庭園のプラタナスが鮮やかな黄色に色づいていたよ。君にも見せてあげたいな」
乾いた質感を持つ手のひらほどの大きさの黄色い葉をリラの足元に置いた。
「いつか、あの黄色いプラタナスの下を君と歩けたら……」
春には小さな鈴が連なるスズランを、夏には香り高い深紅のバラを、冬には赤い実を付けた柊の枝を。季節が移り変わるごとにリラへと捧げた。
夜会で令嬢たちに話しかけられた時。ダンスに誘われ踊る時。ここにいるのがリラだったならと、いつも思ってしまう。
悲劇の婚約者はいつしかティトスにとってかけがえのない存在になっていた。
*
まもなく成人を迎え王太子となるティトスは、両親である国王夫妻に「婚約者を決めよ」と命じられる。
一段高い位置に座する父母の表情は、いつになく真剣なものだった。
「……従えません」
国王夫妻の子はティトスひとり。早々に婚約者を決めねばならないことはわかっていたが、それでもティトスは首を縦に振れない。
「私が愛しているのは、『悲劇の婚約者』です。婚約者は迎えられません」
まっすぐに国王ダリウスを見据える。父から受け継ぐ蒼玉の瞳には、強い決意が滲んでいる。その髪色は、ダリウスの隣に座る王妃メリッサと同じ艶やかな黒色だ。
「いい加減にしないか、ティトス」
溜め息と共に玉座に沈み込むと、ダリウスの金色の髪が揺れた。
「おまえには王家の自覚がないのか? いくら呪いの伝説があると言っても、ダイヤモンドと夫婦になれるわけがなかろう」
国王の声が諭すように響いた。
「呪いの伝説があるからこそ、私は、愛を偽れないのです。悲劇は防がねば」
どこまでも平行線のやり取りが続く。
半ば睨み合う夫と息子を静かに見守っていたメリッサが口を挟んだ。
「……無理矢理結婚しろ、とは言いません。まずは会って、お互いを知るところから始めてみなさい。そして、本当に貴方が愛するのは『悲劇の婚約者』なのか、貴方自身の心に問うのです」
「承知しました。会うだけは、会ってみます」
納得はしていない表情のまま、それでもメリッサの提案を受け入れる。
*
私室に戻ったダリウスは、ソファに腰を下ろし髪をくしゃりと掻き乱した。
「あいつの頑固さは誰に似たんだろうな」
「ふふふ、誰でしょうね?」
向き合って座るメリッサの視線が「あなたでしょう?」と物語っている。
「それにしたって、ティトスのダイヤモンド像への執着は尋常ではない」
「あの子は忘れてしまったみたいだけど、初めて『悲劇の婚約者』の伝説を教え、対面した時、しばらく呆然となってから大泣きして何度もごめんと謝っていたのです」
「何故そんな……」
「……まるで、自分のせいで彼女がダイヤモンドになってしまったとでも言うように」
メリッサは遠い昔の記憶を思い出しなら呟いた。おもむろに黒檀の机に置かれた葡萄酒をグラスに注ぎ夫の前へと滑らせる。
ダリウスはグラスを手にすると、紫がかった赤い液体が揺れるのをただ見つめていた。
第2章ティトス編スタートしました。
火木土日投稿の予定です。




