(番外9)アン・シャーリー(の中の人)、学習地獄室でキザメガネ男に出会う
大きめの教室ほどある学習室では、法律の勉強をしている人たちが黙々と学習、というか作業をしていた。生活音とか、キーボードの音とか、BGMとしての地獄音はあるけど、全体に静かな環境である。
その中のひとり、教室の壁際のすみで勉強している男子を指さして、ミノワは、あいつがギルバートね、と教えてくれた。
念のため、拳をしゅっしゅっと、シャドーボクシングをしていたけれど、リアルのギルバート、じゃないな、リアルのスクールネームはなんて言うの、って聞いたら、シンキバ、ってミノワが教えてくれた。
シンキバは、ものごっつい、スキンヘッドの大男、ということはまったくなくて、中肉中背の、どちらかというとやせた体格で、メガネをかけており、若いときの岸田信雄元総理は多分こんな感じだったんだろうな、と思えるような容姿で、耳にイヤホン、じゃなくて耳栓をつけて、手元に付箋がはさまった、ほどほどの厚さの参考書と、書き込みができるタブレットを広げていて、飲み物とサンドイッチを左手に置いていた。
そして、頭には脳手術を終えた患者もしくはハゲ隠しの爺さんがしていそうなニット帽をかぶっている。
ここでは飲食って自由なんか、と、ミノワに聞いたら、フタが閉まる飲み物と、片手で食べられる食べ物だったら問題ないよ、と教えてくれた。
そっと足を忍ばせて、熱心に調べたり書いたりシているシンキバに近づいたミノワは、とんとん、と肩を叩いたので、シンキバは、はっ、というか、びくっ、というような反応をして耳栓をはずし、おれたちのほうを見た。
こいつがギルバートで、こっちがアン・シャーリーね、とミノワはお互いを紹介した。
「なんか信じられないな。おれの知ってるギルバートは……あっそうだ、帽子を取ってもらえる?」
おれが言うと、なんだよあんたは、とぶつぶつ言いながら見せたシンキバの頭は、ブロンド色の短めの髪の間に、縦に傷跡、というかコブのようなものがあり、線状にぷっくらと盛り上がっていた。
「あー、本当にギルバートだ」
アン・シャーリーのおれが、石板じゃなくてタブレットの側面で叩いたあとがついてる。
「疑り深い奴だな。だったらあんたがアン・シャーリーだっていう証拠とか、あるのかよ」
え、え、えー?
『赤毛のアン』からの引用なんて、いくらしてみても、ただの読者、せいぜい研究者ぐらいにしか思われるだけだ。愕然。
おれは自分の、あまりたいしたものは入ってなさそうな肩掛けバッグをあさってみた。
「じゃあ、これなんかどうかな。演芸会でアン・シャーリーが落として、ギルバートが拾って大切に持っていることになっている薔薇の飾り」
「なんであんたがそんなの持ってんの。ぼくがあげたほうのメイフラワーは持ってないのかよ」
「それは、おそろしくて名前を口に出せない、口にするとすぐリポストする、ライトノベル作家みたいな人にもらったんじゃないかな」
Xのアカウントを持っていて、そういうことをするライトノベル作家は、実は複数いる。
「ギルバート……」
「アン……」
などという、下手なBLの二次創作みたいに、名前を呼ぶだけの場面は省略して。
感覚的には、ミノワとシンキバの関係のほうがアンとギルバートの関係に近くないか。
*
1階にあるクラシカルなロビーに行って、おれたちは会話を続けた。
「なんか、昔から毎日10時間ぐらいは勉強していないと体調が悪くってさ」と、ギルバート(仮)はジェフ・ベックがギター練習しているみたいな感じで言う。
司法試験とか受かるためには、2万時間ぐらいの勉強が必要だから、そのくらいになるんだろうな。
このキザメガネであるシンキバにギルバート的要素は皆無だけど、ちゃんと何かになる目標があって勉強してるみたいだから、とりあえず、いいか、ぐらいに思う。
地下の学習地獄室に行ったのは、おれとミノワだけで、堕天使のルーシーと、伯爵令嬢のシナノは、人の少ないロビーでお絵かきをして遊んでいた。なんか、いろんな菌の擬人化とかしてたみたいである。ルーシーは美少女に、シナノさんはイケメンに、麹菌とか納豆菌とかを描いていて、こういうのネットで公開しろよ、とおれは提案してみた。
夏休みがはじまる前の、各学年が一番学業で忙しい時期だから仕方ないんだろうけど、学生数に比べて学生同士の交流とか、直接のコミュニケーション少なすぎ、というのは毎度のことである。
おれだってネットの知り合いは、専門分野も含めてそれなりに、ふたケタぐらいはいるんだけど、リアルになるとそんなに多くない。
将来は政治家とか官僚みたいな、日本を動かすでっかい歯車になるような、仮想世界のギルバート、現実世界のシンキバとは違うのである。あちらの世界のギルバートも、そのくらいの野望を持てばいいのに。イギリスにアンと二人で留学して、プリンスエドワード島の自治・独立を目指す、とかね。
しかし作者であるモンゴメリは、基本的に自分が体験したこととあまりにも逸脱したことは、物語の中では書けないんだろうな。そこらへん、この物語の作者さんはどうなの、って聞いてみたけど、ここは未来の大学だから気にしなくても書ける、のだそうである。あまりくわしいことを聞いたり書かせたりするのも問題だから、この話は置いておくとして。
「入学当初は20時間ぐらいやってたんだけど、中学受験からの知り合いだったミノワが21時間やることになって、結局お互い無理があると思ってやめたんだ」
漫画家の手塚治虫とそのマネージャーかよ。
ルーシーは、ふんふん、と、いかにも興味深く二人の話を聞いていた。堕天使で人の生を超越しているルーシーは、本当なら2万年ぐらい前からいたわけだから、もっといろいろなことを知っているはずなんだけど、この状況では聞き上手を演じることにしたらしい。うなずいたり、へえ、とか、すごーい、とか、ガールズバーのお姉さんみたいなことを言っている。ちなみに、シナノさんは無反応である。やる気のないネコのような感じで、窓の外の雲を眺めたり、おれたちの似顔絵を描いている。ポーズはともかくとして、おれとシンキバの絵は、ネットに発表できないレベルでうまかった。




