4話 アン・シャーリー、小説の冒頭に不満を持つ
「ところで、『赤毛のアン』の最初の章、出かけるマシューを見て近所のおばさんがあれこれ考える章って意味あるの」と、おれはマシューに聞いてみた。子供向けの本だとたいていこの場面は省略されてて、おれ(アン・シャーリー)が駅舎でぽつんと、マシューが来るのを待ってるところからはじまっているはずである。
「知ってるくせに、なんでぼくに聞くかなあ。ああいう始まりは、当時の文学的伝統、具体的にはジェイン・オースティンの時代の手法を真似たもんだね」と、マシューは言った。
要するに、19世紀はじめ、イギリス摂政時代までの文学ね。文字を読むことが一般的になる前の一般大衆の娯楽と言えばまず演劇(芝居)で、そういうのは幕が上がったあとも、観客はしばらくガヤガヤとみんな無駄話をしてたり、遅れて入ってきたりする。劇場映画でも予告編を延々とやってたりするね。つまりその間、舞台の上では割とどうでもいいことを端役の連中がだらだらと話して、観客が芝居に集中するまでのつなぎとする。
「どうだ、最近の城中のお噂は」「聞けばまた幽霊が出たの出ないのと、ひとしきりの騒ぎ」って、これはシェイクスピア『ハムレット』の冒頭を適当に作ってみたけどね。状況説明、感情、端役の行動、などいろいろあって、主役級の役者が伴を連れて参上する、というのが、昔の芝居の型なのね。その部分をほぼ独立させたのがオペラの序曲で、そんなの無駄だからやめちゃおう、ってことにしたのがワーグナー。
近所のおばさん、つまりリンド夫人はその後も出てくるから、最初に出す必要はないけど、意味づけはされてるキャラクターではある。
「文学研究として、19世紀以前の英文学って流行らないんだよね」と、おれは正直に言った。流行らないということは、勉強したいという学生が少ないということで、つまり金にならない。もう多分100年ぐらい流行ってるのはジョイスとかフォークナー、ヘミングウェイとその周辺。イギリス文学だとD.H.ロレンスやサマセット・モームは、多少はいるかな。あとナボコフか。
*
「なんでも曖昧に知っているAIのマシューさん。前から疑問だったけど、登場人物の会話、というかセリフからはじまってる小説で有名なのは、なんかあるかなあ」
「うーん、漱石の『吾輩は猫である』みたいなの」と、マシューは聞いた。
「いや、カッコつきの、たとえば、「どうしてこんなになるまで放って置いたんだ」と、マシューは言った、みたいにはじまる奴ね」
「あー、そうか。多分江戸川乱歩「二銭銅貨」が一番有名かもね。
*
「二銭銅貨」の冒頭は、こんな感じである。
『「あの泥坊が羨しい」二人の間にこんな言葉が交かわされる程、其頃は窮迫していた。』
この二人はどこにいて、あの泥坊とは誰なのか、どういう生活をしているのか、さっぱりわからない。作家として一度は挑戦してみたくなる。
*
「音楽だとビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」、映画だとウディ・アレンの『アニー・ホール』が知られてるかもねえ。状況説明なしで、ポール・マッカートニーがいきなり歌う」
「ジョン・レノンのリッケンバッカー、3連符きざみがかっこいいよね」と、マシューは言った。
おれは、そんなわけで『赤毛のアン』の冒頭部分を、こんなふうに書きかえて見た。
*
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ……じゃねーよ。遅ぇんだよ。何やってたんだよ。これ以上待たされたら、あっちのサクラの木の下に行って横になって、翌朝には冷たくなって固くなってるとこだったよ」
おれの名前はアン・シャーリー、駅舎で待っていたおれを迎えに来たのはマシューという爺さんだった。
*
「悪くないね」と、マシューは言った。
「そんなことより、話をさっさと進めてくれよ」と、四辻でずーっと待っていたゴブリンたち、じゃなくって、子どもたちの代表が言った。
「あ、あんたたち、いたんだ」と、おれは言った。
「この道を通りたかったら、伯爵様に通行料を出しな。俺たちは伯爵様の代理人だ」と、その子どもは言った。