2話 アン・シャーリー、マシューと会う
「ぼくのことはマシューと呼んでください」と、おれを迎えに来た爺さんは言った。21世紀のただしい老人語の一人称「ぼく」だった。
一頭のウマにひかれた馬車は、関東ローム層に似た赤茶けた未舗装の道を、沈みゆく夕陽に照らされてごとごとと進んだ。グリーン・ゲイブルズまでは小一時間といったところだろうか。ちなみにごとごと度は、おれが今までに経験したことのないほどのごとごと度だった。
「イシュメイル?」と、おれ、すなわちアン・シャーリー(俗名赤毛のアン)は聞いた。
「ここんとこでそういうボケはいらないから」と、マシューは言った。
爺さんのそのセリフは、メルヴィル『白鯨』で使われ、21世紀の日本人でもっとも有名な老人作家である村上春樹も「かえるくん、東京を救う」で使ったものだった。
「いくつか聞きたいことがあるんだ」と、おれは言った。
「そんなことより、どうだ、このサクランボの木のトンネルの見事なこと。路肩の野草もきみを歓迎してるよ」
「確かにうす桃色できれいだね、サクラの花、そう思わない?」
「サクラじゃなくてサクランボの花、だ」と、マシューは訂正した。
「どこがちがうのかわかんないけど、マシュウ」
「マシュウじゃなくてマシューだってんだろ」と、マシューはウマに鞭を当てた。どうやら気にさわることのようである。ウマはすこし足を早めた。
「そ、そうなんだ、ごめんなさい、おじさま」
「いいね、おじさま、って!」
「聞きたいことのひとつは、おじさま……、ってのはそっちには気持ちいいかもしれないけど、自分ではちょっと恥ずかしいのでやめるよ、聞きたいことのひとつは、あんた、日本語ぺらぺらなんだな。カナダ人という設定じゃないのか」
「そりゃ、ぼくがしゃべってるのは日本語に聞こえるだろうさ。日本語の本だったら」と、マシューは言った。
「英米、イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン。エストニア、ラトビア、リトアニア語でも大丈夫なんだ」
「えー、あのバルト三国ってロシア語しゃべってんじゃないの」
「エストニアとほかのふたつの国の言語とは、フィンランド語とロシア語ぐらいに違うぞ」
「そうなんだ、すごいね、じいさん」
「そこは、すごいわ、おじさま、って言ってくれないかな。ガールズバーに入ったIT企業の中年社長の知ったかを称えるガールズみたいな感じで」
思ってたより面倒くさいじいさんだな。マシューの若いときのやんちゃぶり、って原作には書いてあったっけ。
「じゃ、『どうもありがとうございます』って、エストニア語で言ってみて」
「えーと、アイタハ、かな」
「戦争になったときのために、『わたしは民間人です』は?」
「えーと、えーと、えーと、マ・エイ・テア……」
それは「わかりません」だ、と、おれは心の中で思った。
話がぜんぜん進まないけど、原作も似たようなものなので我慢してほしい。
風が肌に気持ちよく、木々や路端の草はさわやかに匂い、ウマとじいさんは臭くない。
五感で感じられるもののうち、不快なものは取り除いてあるんだろうか。おれは自分の、どう見ても何日かは着続けたようにしか見えない灰色の服の袖と、自分の脇の下に鼻をつけてみた。確かに臭わないな。これだったらうまいもんを食べてもトイレに行ったりしなくてもいいんだろう。さすがバーチャル・ツアーである。