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没落寸前貧乏男爵令嬢に転生したのでコスプレスキルを使って脱貧乏を目指していたら、犬並み嗅覚の年上侯爵様に溺愛されました。  作者: しろまり


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30.泥酔した父の暴力

トラヴィス様に屋敷まで送ってもらい、買っていただいた物をゼノンとトーマが素早く運び入れる。


あぁ、そうそう。宝石類の盗難が怖いと言ったら、トラヴィス様が預かることになったわ。侯爵家なら安心よね。


安心ではないのはね、トラヴィス様が低音イケボで「使う時は私の屋敷に来るように。そうすれば君と会えるだろう? 何なら、用がなくても訪ねてくるいい。君に会えるのを楽しみにしているよ」と耳元で囁いたことよ!


お陰で耳が痺れて真っ赤になってしまったではないの!

頭から湯気が出るかと思ったわ。


まったく、何の冗談なのかしら。トラヴィス様は想い人がいるのでしょう? そんな勘違いさせることを言うなんて……ハッ、もしかして揶揄われているの? そうよね、私とトラヴィス様は年が離れているもの。大人の色気に翻弄される姿を見て楽しんでいるのね!


あ、『楽しみにしている』って、きっとそういう事だわ!


ゼノンが最後の一箱を取りに行って、トーマは馬車へと戻る。私は「お茶でも」とトラヴィス様を応接室に案内しようとした時、奥から声がした。


「ぅお~い、酒はどこだ~」


父だ。私は咄嗟にトラヴィス様に振り返ると頭を下げる。トラヴィス様に父を見せたくなかった。


「申し訳ありません、少々都合が悪くなってしまいましたわ。お帰りいただいても」


よろしいでしょうか?と、お願いしようとした時、父は私達に気付いてしまった。


「おい、アネット! 何をしている! そいつは誰だ」


父の怒号にビクッと私の肩は震える。私はトラヴィス様に近づいて欲しくなくて、父を止めようと駆け寄った。


背後にはオロオロとしながら父を抑えようとしているマーサの姿があるが、年老いた彼女には止めることが出来ない。


「お父様。お部屋に、お戻りください」

「なに~? わしに指図するのか! あれは誰だ! お前もアイツのように、わしを捨てるのか! この親知らずが!」


父は怒鳴り散らしながら手を上げた。その手には酒瓶が握られている。

殴られると思った。避けなければ怪我をする。


そう分かっているのに、金縛りにあったかのように身体が動かない。

それでも辛うじて、目を瞑ることだけは出来た。


ゴンッ


鈍い音がする。

けれど、痛みを覚悟していたのに、いつまで経っても衝撃は訪れなかった。


それどころか、酒瓶の硬い感触ではなく、何か温かく柔らかいものが私に触れている。不思議に思って恐る恐る瞼を開くと、眼前にあったのはトラヴィス様の厚い胸板だった。


「えっ」


よく見ると、トラヴィス様の右手は私の腰を引き、左腕は酒瓶を受け止めている。


何てこと!

トラヴィス様が!


大丈夫かと私が声を上げるより先に、トラヴィス様が口を開いた。


「手を上げるとは、いただけないな」


それは、いつもの心地よい低音ボイスよりもワントーンどころか1オクターブ低くて、底冷えする声だった。


「実の子であり、か弱い女性でもあるアネット嬢に暴力を振るうとは。酔っているとは言え、許されないことだ」


見上げてみると、トラヴィス様の顔は見たこともないくらい冷たくて、向けられてもいないのに私の方が震え出しそうだった。


だが酔っている父は気づかないのか、尚も怒鳴り続ける。


「うるさいぞ! さては貴様がアネットを誑かしたんだな! 許さん、許さんぞ! アネットは渡さん。さっさと出てけ! 出てけ!」


トラヴィス様の威圧に怯むどころか、父は顔を真っ赤にして再び酒瓶を振り上げる。


“トラヴィス様が危ない!”

そう思ったが、当のトラヴィス様に身体を固定されていて私は動けない。


“トラヴィス様が怪我をしてしまう”

と背筋に冷たいものが走ったと同時に、父の手が振り下ろされる。


しかし握られていた酒瓶は、その手から消えていた。代わりに「うぐっ」と呻き声がする。よく見れば、背後に回ったゼノンが父を取り押さえていた。


「さぁ旦那様、部屋に戻りますよ」


私達に向かって一礼したゼノンは、父の腕を固めたまま引き摺るように連行して行った。


「アネット嬢、大丈夫かい?」


呆然としていた、私はトラヴィス様に声を掛けられてハッとする。


「トラヴィス様、大丈夫でしたか? 腕は無事ですか? いえ、大丈夫ではないですわよね」


マーサもハッとした様子で「冷やす物と手当を」と言いながら、慌てて必要な物を取りに行った。


「どうしましょう。トラヴィス様、腕が、腕が」

「落ち着いて、アネット嬢。私は大丈夫だから」


トラヴィス様は落ち着かせるように、狼狽える私の背中を撫でた。


「顔色が悪いな。アネット嬢、深く息を吸って、ゆっくり吐いて」


言われるがまま深呼吸を繰り返せば、徐々に強張っていた身体が解れていく。それを見て、トラヴィス様は安心したように表情を緩めた。その顔に先程の冷たさは、もうどこにもない。


「うん、それでいい。ところでアネット嬢。いつも父君は、あのような暴力を振るっているのかい?」

「えっ? いえ、今まで暴力を振るったことはありませんでしたわ」

「そうか、それは幸いなことだが……それなら尚更、先程の父君の行動はショックだっただろう」


トラヴィス様は労わるように私の頬に触れる。


『ショックだっただろう』


その言葉に、私の中で何かが崩壊した。

あの時、ゼノンが言った『限界そうだったから』と同じように。


今まで堪えていてものが溢れていく。

次から次へと涙が零れ出した。


そうよ、ショックだったのよ。

初めて父に手を上げられて怖かったわ。


「こ、怖かった」

「あぁ、もう大丈夫だ。私がいる」


私の不安を取り払うように、優しく抱きしめてくれるトラヴィス様。

その温かさに、溢れ出すものも、零れ出すものも止められなかった。


これまで父が暴力を振るうことはなかったわ。

それが唯一、父の許せる部分でもあったのよ。


お酒に溺れて私達子どもを放置しても、それでも物理的に攻撃してこない。

それだけが私の中で父を認められる部分だったの。


全てを投げ出して放置しても、辛うじて一線を踏み止まっていた父。

だから、同じ屋敷にいても怖いと脅威を感じたことはなかったのに。


でも、もう今は違うわ。


父は手を上げた。

しかも酒瓶という武器を手にして。


トラヴィス様が庇ってくれなかったら、私は酷い怪我をしていたでしょう。

打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれないわ。


それは今後、弟妹達にも及ぶ可能性があるということよ。


たった一度の暴力と思われるかもしれないわ。けれど、その一度が全てを壊すの。

前例を作ってしまった父を、もう信じることは出来ないのよ。


私の中で、父が完全に排除すべき存在となった瞬間だった。

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