第7話 最悪の寝覚めだ
「うわああああああああああああ!!!」
俺はベッドからバネのようにビンと飛び上がり馬鹿みたいにドアの前まで走り出し、鼻をぶつけた。
勢いよくぶつけたため、鼻からは多量の血がボタボタと垂れるように流れ出た。
俺はその場で芋虫の如く身体をうずくまって悶えた。
声にならない声で痛みを受け流すため声を出す。
この痛みが俺の朦朧とした意識を現実に戻した。
鼻を抑えながら辺りを見渡す。
俺の部屋だ。
汚れの無い白い天井に木製の床、そこそこ寝心地のいいウォーターベッド、その横にある5時22時を知らせるデジタル時計、白い学習机、その他諸々の設備が俺の家の俺の部屋だということを示していた。
非現実的な一夜、気が付けば俺の部屋、不自然な胸の動悸、息切れ、これが意味するものは一つ。シンプルなたった一つの答えだ。
「ふふふ、はっはっはっ。んっふふふふ!」
俺は笑った。
滑稽過ぎて、あまりにもバカバカし過ぎて、平日の朝なのに笑いが止まらない。
皆もこういう時があるだろう?あまりにも突拍子のないあり得ない夢を見て笑わずにはいられない瞬間が。少なくとも俺にはあった。
上半身を包む気色悪い汗を流すべく、俺はまだ寝ている家族を起こさないように忍び足で浴室へと向かった。
シャワーを終え、心身ともにリフレッシュした俺は再び部屋に戻った。
日課の日記とボイスメモを記録するためだ。
俺は不眠症、夢遊病になって以来この日課を続けている。
ちゃんと寝室にいるか、家の中、もしくは外で徘徊していないか、監視カメラを自分の部屋に仕掛けて自分自身の行動を観察していた。
俺はさっそく壁にかけていたビデオカメラを手に取り、昨日の映像を確認する。
おそらく昨日は何も問題はないはずだ。
俺は朝まで寝ていたはずだ、と逸る気持ちと共に録画データを見る。
そこには俺が寝ている映像が流れていた。
当たり前だ。
寝に入った瞬間起き上がって路上徘徊なんて想像したくもない。
気持ちが悪いからな。案の定、画面には俺がすやすやと寝ている映像だけだった。
姿勢よく寝ている。
それに睡眠生活改善のために俺は少し前にウォーターベッドに変えたばかりだった。
これはすごい、水の上に浮いているような感覚で身体が沈み、夏は冷たくひんやりしていて、冬はあったかく身体を包んでくれる。
やはりカメラの向こうの俺は安堵した表情で寝ている。
寝覚めが悪い時が多いが、寝ている時は極楽なのだ。
とにかく、昨日の俺は問題なしというわけだ。
なんだか安心して肩の荷が下りた。
よし、次は日記を書こう。
俺は日記帳を机の引き出しから取り出した。
黒を基調とした分厚いそれはナンバー7と記されていた。
俺は結構筆が乗ると多めに描いてしまうので、日記帳がかさばってしまっていた。
引き出しの中は完結済みの日記帳と新品のとでパンパンだ。
俺は昨日見た夢のことをありのまま書いた。
気が付けばヤクザの事務所にいたこと。
頭の中に誰かいたこと。
途中で身体をソイツに乗っ取られてヤクザ数十人(正確な人数は覚えていない)を斬殺して捕食したこと。
逃げる時に高層ビルの窓を突き破って脱出し、生きていたこと。
そしてトラックに轢かれるところで目が覚めたこと。
それらすべてを思い出せる限り正確に書き記した。
濃い内容だったので書き終えるまでに30分以上を要した。
書き終えた時には感嘆のため息を漏らし、大作を書いた気分に浸った。
まるで小説家になった気分だ。
もしこんなものを誰かに読ませてもバカ話で済むだけだろうけど。
そして今度はボイスメモだ。
俺はまたもや机の引き出しからボイスレコーダーを取り出し、口元に近づけた。
「5月12日木曜日午前6時16分。寝覚めが悪かったが意識ははっきりとしている。徘徊もしなかったが、結局何事もなかった。昨日は寝る前に薬を飲んだにもかかわらず、また悪夢を見た。いや、悪夢っていうよりかはもう少し楽しい夢だったかも。まぁとにかく薬が効かなかったのは確かだ。今度文句言おう」
俺はレコーダーを机に置き、ため息を一つ吐いた。
最近はため息ばかりだ。
ちょっといいことが起きると悪いことが頻繁に起きる気がする。
秤にかけたら間違いなく一瞬で傾くだろう。
「おはよう……」
気だるげな声で葵は彼女の寝室から出てきた。
まだ眠いのかにらみつけるような鋭い眼光を放っていた。
「眠いのは分かるがその目つきは止めなさい。怖いから」
「妹の可愛い目に対してそんなこと言うなんてヒドイ兄だね」
「鏡を見なさい。俺の言っている意味が分かるから」
俺は葵に洗面台に行くことを進めた。
まだ半覚醒状態なのか直に行き、「ぎゃあ」と年頃の女の子が発するとは思えない声を聴きながら俺はリビングに向かった。
リビングにあるソファに座ると俺は早速テレビを点けた。
俺は朝必ず見る番組がある。
『今日のドッゴ』という犬が出る番組で、いろんな家庭のいろんな犬が出ているのだが、その中でも俺はビーグル犬が出てくる回が好きだ。
犬の中でも一番好きで、小さい時から飼いたいと思っていたほどだ。
だが母は決まってこう言う。
「家族にするなら簡単に言っちゃだめよ」ってね。
まぁ確かに正論だ。
ペットという立場だし、生物学的に違っても家族は家族。
おいそれと手軽に飼うべきではない。それに飼いたいと言っているのは俺だ。
俺が世話をするというのが道理にかなっている。
だが今の俺の、健康状態や精神状態で自分と犬の世話を出来るかと聞かれると、おそらくできない。そんな無責任な事はさらにできない。
だから俺は『今日のドッゴ』で俺の犬を飼いたい意欲を満たしていた。
『今日のワンちゃんはスタン君!6歳でワンパクボーイなスタン君は今日も飼い主の服を無断で持ち出し、バラバラに破いちゃいました!あぁ!ご主人様の青ざめた表情!でも可愛くて大きく出て怒れない!スタン君?飼い主の顔色を窺ってやっていいこととダメな事を学んでいこうね!』
テレビの向こうではせっかく乾かして清潔だった服が無残にも破られ、涎まみれになっていた。
飼い主はお気に入りの服だったのかショックで言葉も出ていなかった。
だがそれと反対に犬のスタンは楽しそうに、嬉しそうにしながら服を破いていた。
「はああ、いいなぁ、飼いたいなぁ」
「今飼いたい要素あった?」
台所で朝食の準備をしながら葵は引きつった顔でテレビを見ていた。
「純真無垢なあの姿がいいんだろうが。なんだ、お前さては猫が好きなのか」
「いや別に。あんな毛むくじゃらですばしっこくてつぶらな瞳で鳴いて来る動物なんて好きじゃない」
「好きってことでいいのかお前のソレは」
人と人は簡単には分かり合えないものだ。犬と猫、どちらが好きかでこんなにも対立の溝を深めてしまうとは。
人類は知恵をつけてここまで文明を築いてきたが些細な事で争いを生むとは、あぁ、なんと人類は愚かなのか。
俺はしみじみと感慨深く頷きながら心の中でそう感じる。
「もしかしてまたアホな事考えてない?」
「いや別に」
俺達が話している間にもう『今日のドッゴ』はもう終わってしまい、ニュース番組へと変わっていた。
俺は時計を見た。
もう6時半だ。
そろそろ朝食を食べなければ。
今日は葵が作ると言っていた。
母さんはまだ起きてこない。
そういえば昨日はお気に入りのドラマを夜遅くまで見ると宣言していた。
だから起きてこないのだろうか。
「聡美さん。もう朝だよ。早く起きて」
二回の寝室から少し大きな声で母さんを起こそうとする声がした。
義父さんだ。
ちゃんと帰ってこれたんだな。
上から階段を下る音が聞こえた。
眠そうにしてる母さんと既に身支度を済ませ、ほとんどスーツ姿の義父さんが一緒に降りてきた。
「もう朝なんて、信じられないわ。まだ夜なんじゃないの?」
「聡美さん、瞼を閉じないで。どれだけ閉じても太陽は眠らないよ」
母さんは未だに寝ぼけながら、階段から降りてきた。
よっぽど夜更かししたのか、目に隈が出来ていた。
俺ほどではないが、ほんの少し目元が黒かった。
「母さん、目に隈が出来てるぞ。夜更かしは良くないからやめたほうがいい」
「大道に言われたくないわよ。あなたこそいつも目に隈が……ん?」
「え、どうしたの」
「あれ、大道の目に隈がない……」
「うそ!?」
「んん、本当だ。大道くんの目元が健康状態そのものじゃないか」
家族全員に俺の顔をマジマジと見られた。
葵は俺に手鏡をくれ、俺は自分の顔を見た。
確かに、俺の目の周りの隈は消えていた。
まったく跡形もない。
昨日まであった病人のような表情は消え、健康的な人間の顔のソレになっていた。
原因が分からないままであった不眠症や頭痛、吐き気、目の隈もすべて消えた気がしていた。
あの夢の時のように体調がものすごくいい。ここまで身体が快活なのは小学生の時以来だ。
「やっぱり愛は偉大ってことか」
「ん?何言ってるんだ?」
義父さんは意味が分からず聞き返した。
とりあえず手短に話すことにした。
「そうか、大道君にも春到来か。実にめでたいじゃないか」
葵が用意した朝食を食べながら義父さんは嬉しそうに言った。
俺もそれにつられて頬が緩んだ。
まだ好きな女の子とお話出来ているだけでそのうち飽きられて見向きもされなくなる、なんてこともあるかもしれない。けど俺は今日という日を希望を持つことができる。
『……次のニュースです。今日深夜2時頃、東雲ビルで死者数十名の斬殺事件が起きました。現場には夥しい程の血と、真っ二つに分かれたトラックが横転しており……』
俺は卵焼きをウィンナーと共に口の中に入れて頬張っていた時、緩やかな空気で包まれていた家の中はピンと空気が張り詰めた。
ニュースでは詳細な出来事が説明されていた。
被害者達は日本刀で斬られていたこと、中には身元を特定するのが難しいくらいに遺体が損傷していたということなど、聞くだけでも気が滅入るような事件だった。
俺以外は。
「ざんさつ……?ってことはさ、刃物で切られちゃったってこと?そうだよね?」
「なんてことを……」
「……これはひどいな」
俺以外の全員が絶句していた。俺は、俺だけは違う感情を抱いていた。
ちがう、俺じゃない。犯人は俺じゃない。
刀で腕や足を斬り落とし、臓物を掻っ捌いて喰らう男じゃない。
俺じゃない。これは俺じゃない。
「どうしたの?お兄ちゃん?すっごい汗、しかも顔が凄い真っ白……」
「なんだ、まさかあの中に大道君の知り合いがいたのか?」
俺はいつの間にか家族全員に見られていた。言わないと。何も関係ない。そう言わないと。
「そんなまさか!なんたってこのビルはヤクザが所有しているビルなんだぞ?その中で俺に知り合いなんているわけない」
「ん?このビル、暴力団の物だったのか?」
「あっ、いや、さっきネットニュースで見てさ」
俺はうっかりニュースに出ていない情報を口から零してしまった。取り繕うべく俺は適当にごまかした。
「ネットニュースは情報の回りが早いのね」
母さんは感心するように言う。
それと同時に義父さんもスマホを使って調べようとしたが画面内に表示される時刻を見て「あっ」と言ってテーブルから立ち上がり、スーツのジャケットを羽織った。
「会社に遅れる。ごめん、もう行くね」
義父さんは皿の中にあった白米と卵焼きとウィンナー、そしてサラダを一気に口の中に詰め込んでさっさと出て行ってしまった。
「ちょっと、皿くらい片付けて行ってよ!」
葵は怒鳴るように、父さんに言ったが肝心の義父さんは既に車に乗り込んで家を後にしていた。
「いつも忙しそう。私も頑張らないと」
母さんは自分自身に活を入れるようにいうと、台所に言った。
「葵、皿洗いは私がやっておくから貴方は学校へ行く準備しなさい」
「あんな物騒な事件が起きたのに学校はやってるの?」
両親と妹は惨劇のニュースを見た後でも、いつも通りの行動を再開した。
誰かが死んでも自分の回りでは時間は進む。
その流れを乱さないために、どれだけ酷い話を聞いても受け流さなければならない。
少し冷たい話だが、俺にとっては好都合だった。
それにヤクザが死んでも誰も悲しまない。
葵はこのような事件が起こっても登校させることを辞めない中学校に対してがっかりするように言うと、年頃の女子には欠かせないメイクとヘアセットを始めた。
かくいう俺は男だから何もする必要はない。このまま行く。
「それじゃあ行ってきます」
俺が玄関に手を掛けた時葵が俺の右肩を掴んだ。力強く俺を掴んで離さない。
「?葵、どうした」
「まさかそのままの状態で行くつもり?」
「そうだけど」
「恥ずかしいからやめて。私が直すから」
「いいよ別に。誰も見ないだろ」
「気になってる同級生の女の子に、こんな無様を晒すつもり?」
そう言われた瞬間、俺は何も言えず、黙って妹の言う通りに従った。
確かに軽率だった。
男と言えど、多少の手入れはすべきかもしれないと俺はそう感じながら、妹に自分の髪の命運を預けた。