吸血鬼、海より来たる 二
「おい、うるさいぞ」
五郎の聞き覚えのない声がすぐ近くで聞こえた。いや、近くというより己がしがみつく棺桶の中から。
ごとり、と重い音を立てて棺桶の上蓋がずれていく。それに気付いているのは五郎しかいない。
蓋が開ききるとむくり、と影が立ち上がる。影は形を成し、輪郭が引かれて男になった。
朝焼けより紅い瞳が燻る松明の灯で照らされ、針のように鋭く煌めく銀の髪が揺れる。
ここまで美しく怖い男を五郎は見たことがなかった。
異国の服なのだろう白く袖の長い上衣は海風に靡き、黒く長細い袴は夜の闇に溶けて、側から見れば幽霊と見紛ってもおかしくなかった。
筋骨は均整が取れ、海の男である源吉や五郎とは異なる体つきをしている。男らしい筋張った腕や首が見えるといえどその細身故に柳のような妖艶さがちらついた。
いよいよ五郎が只者でないと確信したのはその男の顔であった。
彫りの深い顔と長いまつ毛、薄い唇に儚さを感じるものの爛々とした赤い眼に毒花のような触れ難さを感じてしまう。
たった数秒の間にこの状況を忘れるほどの思いが五郎の中を駆け巡った。
「なんだ…!?化け物がもう一人…!」
五郎の思案を打ち切ったのは舟に乗っていた別の男の叫ぶ声だった。
そう見紛うのも無理はない、突如舟に降り立ったその姿はこの世ならざる生物、幽鬼にも見える。
「おいお前」
「えっ」
五郎は自分に声がかけられたと思わず呑気な返答をしてしまった。
銀髪の幽鬼は目を細め軽く頷く。舟は大きく揺れ、立たことは困難なのにまるで意に介さず陸地に根を張るような頑強さで棺桶の側に立ち続ける男は口を開く。
「あれを倒して欲しいか」
薄い唇が横に伸び、弧を描く。笑っているとやっと気づいたのは彼がこちらに首を伸ばしていたおかげだ。
面食らって何も言えずにいたが、五郎には全く理解が追いついていなかった。彼の突然の出現及び様相の異様さに気を取られ現実じゃないもののように逃避しかけていたのもある。
倒して欲しいか、と聞いてくるということは倒せるほどの実力を有しているということなのだろうか。あの海坊主を。背丈は我々を優に越し、この舟を掴めるほどの手を持つ化け物を。
側から見れば怪しさしかなく確信に至る証拠もなかった。この男が化け物を倒せるのか、そもそもこの男は五郎たちに協力してくれる理由は何なのか。しかし五郎の藁にも縋る気持ちが優った。今ここでどういうことか問いただしても、海坊主が穏やかに聞いてくれる保証は全くないのだ。
荒波にかき消されないよう喉を振り絞り五郎は答えた。
「どうか、お願い致します…!」
聞こえたかどうかはわからない、しかしにこりと笑みを浮かべたように見えた男の顔は突然闇に溶けた。
否、舟の上空へ高く跳躍していた。
それまで男を凝視していたであろう海坊主は突然姿を消したことに驚いたのか巨大を身震いさせた。その余波で舟はもっと揺れを増し、何人かが叫び声と共に海に投げ出されたようだった。五郎は恐ろしくて後ろを振り返ることができず、目を伏せ体を丸くさせることしかできない。
オォォ……!
海坊主は言葉にできない音を発する。それは痺れを切らした獣のようにも、敵を恐れて威嚇するようにも聞こえる。
「だからうるさいと言っているんだ」
荒れ狂う波の音と海坊主の吠え声で耳が使い物にならなくなると思っていた矢先、五郎の耳に鋭くそしてはっきりと声が聞こえた。
その声に瞼を開けると先ほどの銀髪の男が海坊主の腕らしき部位に斬りかかっていた。
いや、違う。彼の振り下ろした右脚が刃の如く鋭くなっている。黒曜石の小刀のように煌めき触れるもの全て削ぎ落とす予感を裏切らず、ずぱりと腕は切り落とされた。
海坊主は痛みに苦しむような声を上げる。身体を今一度大きく振るわせるが、これ以上の抵抗をしたくないのかじりじりと後退し、海へと消えていった。
姿を消した海坊主と入れ替わるように振り乱した髪のような波はだんだんと落ち着きを取り戻し始めた。
「助かった、のか……」
どれくらい経ったのか分からない。波がやっと水平に戻りつつある頃、源吉が恐る恐る声を出した。
童のように涙と鼻水を垂らした屈強な男どもが顔を続々と上げ周りを見渡し始める。
海に落とされたであろう男達も仲間に手を貸してもらって舟上に引き上げられていた。五郎は周りをゆっくりと見渡した。
何も、いない。
大山のような海坊主も銀と赤の幽鬼もそこにはいない。
海岸の村のあるところは夜も更けてきた筈なのに火を焚いたのか明るさがあった。おそらくこの海の騒ぎと若衆がいないことに悪い予感を覚えたのか、必死に探しているのかもしれない。帰ったら掟を破ったことについて村長にとっぷりと説教を聞かされるのであろう。憂鬱ではあるが、五体満足でここに生きていることに安心感を覚えている今では五郎にとっては些細なことであった。
ぎしり、と五郎の横に重いものが載ったような軋みが伝わる。ゆっくりと目を向けると彼がいた。
銀髪は村の明かりを反射し金にも見える。赤い眼は煌々と輝き、五郎を見下ろしている。
「さて、貴様の願いを聞いた。次は俺の番だ」
謝礼を言いたいのに五郎はその姿に恐怖して何も言えない。
男の口には鋭い牙がちらつき、背筋がざわりと逆立つ。
口を開くよりも先に男の声が滔々と続いた。
「お前の血をよこせ」
風よりも早く、稲妻よりも鋭く、男の姿は消えた。
途端鋭い痛みが五郎を襲い、世界がひっくり返った。