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それからのオリーブの授業の進みは早かった。
初めのうちは俺の様子を見ながら少しずつ進めていたが、既に読み書きはマスターし、今は算術、加えて言語学を学んでいる。
授業の間はオリーブがいるため、ダリアは席を外すことも多い、この時間を利用してシェルの様子を見に行けないだろうか?
「先生、この数式は前回の応用ですよね?自分で答えまで導きたいので、今日のところは設問のみ置いていってくれませんか?」
「ええ、けれど正しい数式の流れをお教えしなければ……」
「いえ、自分で考えたいのです。その代わり、時間をいただけませんか?」
「……そうですね」
オリーブが思案の表情を浮かべる。
オリーブが家庭教師に就いておよそ一年、いい加減、それくらいの信頼は勝ち得ているのではないか?俺は期待を込めてオリーブを見つめる。
「分かりました。幾つか出題しておきましょう。答えは来週の算術の時間までお待ちします。今日の授業は以上とします」
授業を早めに切り上げることはできたが、すぐにダリアを呼ばれては困る。
「先生……少し、集中して考えたいので、本来の授業の終了時刻まで一人にしてもらえませんか?」
「……分かりました。何かあれば呼び鈴を鳴らすようにお願いします」
「有難うございます。先生」
俺はにこりと笑った。
よしよしよし!時間は確保した。
しかし、俺の短い足で何処まで探索出来るか、そもそも屋敷に入ることはできるだろうか?
ーーーーそんな俺の心配は杞憂に終わる。
隣の屋敷と言っても、同じ敷地内だ。固く閉ざされた荘厳な門……などある訳でもなく、普通に侵入できた。
あとは、運良くシェルに会えればいいが……。
来客用の別館と言えどもだだっ広く、部屋数も幾つあると知れない。これをしらみ潰しに回るのか?
それこそ日が暮れそうだ……。
取り敢えず、屋敷の周りから調べてみるか……。
俺は中に侵入することを諦め……もとい、まずは下調べの為に中庭を散策することにした。
中庭は本邸よりも植物が多く、高く大きな木もある。
本邸の中庭は石畳が敷かれ、植木も木の高さも揃えられているように感じたが、こちらは自然に近いが、手入れされていると思える趣だ。
こんなに木に近づくのは久しぶりな気がする。いつもはベビーカーに揺られながら石畳の上を進むだけだからな。
俺は一際大きく、立派な木の幹の下に腰を下ろした。
この世界は空気も綺麗だな。俺は澄んだ空気を取り込もうと息を吸い込み、木を見上げる。
ーーーーーと、そこには木の枝に乗った派手なドレスとそのフリルの中から伸びる小さな脚が映った。
え??
「ーーーーあの」
どうしようか、パンツ見えますよ、と親切に教えてあげるべきか……。危ないですよ、と声を掛けてあげるべきか……。
予想外のものが目に映り、その後の言葉が続かない。
てか、そのフリフリのドレスでこの木をよじ登ったのか。凄いな……。
靴は流石にヒールのように踵のあるものではなく、その服に似合わないぺったんこで薄い布でできたようなものを履いていた。
声を掛けたまま固まってしまった俺に、木の上の人物が気づいた。
「……誰??」
大きな音も立てず、軽い身のこなしで木の上からするすると降りてくる。
降りてきた彼女は黒髪に赤い瞳、聞き覚えのある声……。まさしく俺が探していた人物だった。
「……シェル?」
「あら、ノア、久しぶりね。どうして貴方がここに居るのかしら?」
彼女に会いたくて探していた俺だが、素直に喜ぶ気持ちになれない。なぜなら、二年ぶりに再開した姉は本当にシェル本人なのかと疑ってしまうからだ。
見た目は確かにシェルだ……。しかし、柔らかな眼差しを向けていたその目はつり上がり、いつも微笑みを湛えていた口元はキツく結ばれ、優しかった声色は傲慢な口調になっている。
「……シェル、会いに来たんだ」
「……ここは貴方の来る場所じゃないはずよ。乳母の元へ帰りなさい」
「シェル……今までどうしてたの?俺は……」
続く言葉を飲み込んだ。
先程よりも鋭い視線でシェルが睨みつけてきたからだ。
「貴方は女家庭教師も付けられて、随分ご立派に成長してるそうじゃない。卑しい身分の分際で!もう二度と来ないで!!」
急に癇癪を起こして怒りだす彼女を見て、既視感を抱く。初めて見る姉の姿であるはずなのにどうも見覚えがある。
なんだろう、この、理不尽に怒りだす……。
ーーーーーー悪役令嬢
ふと、前世の姉との会話を思い出した。
「さっきの黒髪の女の子が主人公なの?」
「違うよー。その子は悪役令嬢」
「なにそれ」
「まあ、主人公のライバル?みたいな。でもすっごく性格悪いの。だから悪役令嬢。晃も顔が可愛いからって性格悪い子に引っかかっちゃダメだよー」
「はいはい」
目の前の今の姉の顔を見つめる。
「な、なによ」
黙ってじっと見ていたため、不気味に思えたのだろう。シェルがたじろぐ。
見れば見るほどスマホのPVでみた少女にそっくりだ。
黒髪や赤い瞳、つり上がった目、年齢は大分幼いが……。
ーーーーーー嘘だろ!!
俺は思わずその場にしゃがみ込んで頭を抱える。
ここってあれか?ゲームの世界なのか?
俺の転生先は異世界どころかゲームの中なのか?
「今度はなんなのよ…」
奇天烈な動きをする俺に、あたふたしながら見守っているシェルが視線の端に映るがそれどころではない。
死ぬ直前にゲームソフトを持ってたからなのか?
そんな馬鹿な。寝る時に枕の下に見たい夢の本を敷いて寝ると見れるよ、並のもんじゃねーか。
しかも、このゲームのジャンル何だった?『乙ゲー』
待て待て、乙ゲーってあれだろ?
『乙女ゲーム。イケメンがいっぱい出てくるんだから!』
きらきらと目を輝かせていた前世の姉の顔が浮かぶ。
ーーーーーーはあああぁ〜?
男が乙女ゲームの世界に転生とか誰得だよ。
間違いなく、俺得ではない。
ハーレムならぬ、逆ハーレム。つまりは女主人公が顔の良い男共を侍らせる。そんな世界冗談じゃない。
こんなところで沈んでても仕方がない。
しゃがみ込んでいた俺は勢い良く立ち上がった。
「じゃ、シェル、また来るから」
俺は適当に手を上げてシェルに声を掛け、走り去る。
「来なくていいからーー」
声を張り上げるシェルを背に本邸へと帰る。振り返るとシェルは頬を膨らまし、ムッとしていた。
機嫌が悪くなるとほっぺたを膨らませる癖は変わってないらしい。やはりあの少女は俺の今世での姉で間違いないとしみじみと思った。