7
あれから俺はシェルに会っていない。
初めのうちはダリアに度々、シェルはどこか?いつ来るのか?と質問していたが、いつしか聞くことを止めてしまった。
「その……お嬢様は今、お忙しいようです」
初めは苦笑いとともに誤魔化していたダリアだが、俺が質問をする度に、段々と苦しそうな、泣き出しそうな表情をするようになったからだ。
そんな姿を見ているのは正直辛い。……どうしたものか。
まだ自室を一人で出歩くことを許可される年齢ではない為、一人でうろうろと探し回るわけにもいかない。
やはり母に尋ねてみるしかないのか……。
俺はまだ発音はままならないまでも、ある程度のやり取りならば問題ないと自負している。
しかし、あの母親に話しかけることはなんとはなしに疎んじられて、未だに喃語しか発していない。
そんな俺をみて、
「子どもは何を言っているのか分からないから苦手だわ〜」
と言っていたが、適当にきゃっきゃっと笑ってやった。
しかし、シェルが姿を見せなくなって半年が過ぎた。
なんの情報もなく、いい加減心配だ。
あの、俺の母親とかいう人は苦手だか、背に腹はかえられないだろう。
今日も俺の部屋にやってきた母は、我が子を胸に抱き、愛おしそうに眺める……なんてことは無く。
ただベッドに眠る俺を上から見下ろし、
「いつも寝ているのね……他に娯楽がないのかしら」
相手をするのが面倒だから寝たふりをしてるんだよ……。
「奥様……よく寝ることは良い事なのですよ」
「そう…煩くないから、まあ、いいわ。今日もノアの様子に変わりはない?」
「はい、公子様においてはお変わりなく、健やかに過ごされています」
「今後もノアの体調には気を配って頂戴。公爵家の嫡子なのだから」
「はい、心得ております」
いつも五分と滞在せずに部屋を去ってしまう母だが、今日はそういう訳にはいかない。
「お母しゃま、ごしゅつもんが…」
よく分からんが、身分が高いらしいから丁寧に話してやった方がいいだろう。
俺が初めて話し掛けたことによって母は目を見開いた。
「ノア……!貴方、喋れたの!?」
そんな事はどうでもいい、取り敢えず質問を聞いてくれ。
「乳母、なぜ報告しなかったの!」
なぜか声を張り上げ、ダリアを見やる。
しかし、ダリアに動じる様子はなく、落ち着いて対応する。
「申し訳ありません、奥様。……ご存知なことかと……ご報告申し上げる程のことでは無いと愚考した次第でございます」
おいおい、ダリア、大丈夫か?
俺には挑発しているように聞こえるが……。
ダリアはチラリと母を一瞥し、追い討ちをかけるかのように述べた。
「奥様であれば、"当然"ご子息であるノア様とお話されていらっしゃるかと思っておりましたが……」
そして、ダリアはにっこりと笑いかけた。
「そのようなことはなかったのでしょうか?」
子どもの面倒を見るのを嫌がる母が、ダリアがいない時に俺に会うことなどないのだ。当然、俺が母の前では言葉を発していない事など知っている。
しかし、息子を愛していると豪語する母がそこまで言われて知らなかったなどと言えるわけもない。
「……ッ当然、知ってるわよ。……けれど、これからは細かなことも報告するように……。必要のない情報かどうかは私が判断するわ……いいわね」
「はい、かしこまりました」
母は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、それ以上ダリアを責め立てるようなことはなかった。
「あの、お母しゃま……」
「ああ、そうだったわ……。な〜に、ノア?」
「お姉しゃまは、どこですか?」
機嫌良く俺の質問に答えてくれそうだった母の表情が一変する。
「ああ、セレスティア様の事ね。大丈夫、無事よ。隣の館にいるわ。……そんな事より、こんなにやり取りが出来るならば早くよい先生を付けなければ……」
俺の質問になぞ興味がなかったようで、適当に答えてなにやらぶつぶつと呟いている。
まあ、収穫はあったから良しとしよう。
どうやら我が姉は隣の館とやらにいるらしい。
時折散歩と称してダリアと中庭などを歩くことがある。歩くと言っても、俺はベビーカーの上だが……。
その時に自分たちが暮らす屋敷の隣にも立派な建物があった。
「ダリア……あの建物なに?」
「ああ、別館ですね。主に来客者などをもてなす時に使用しております。私は担当ではないので、足を踏み入れたこともないですが……」
……なるほどな、手っ取り早くダリアとも引き離す為にシェルを隣の館に追いやったとみえる。
俺はダリア以外の使用人とは、まだあまり関わりがないため、シェルの事も知る術がなかったというわけだ。
なんとかして、向こうの屋敷に忍び込む方法はないものだろうか?
……恐らくダリアはシェルに会うことを禁じられている。ダリアを巻き込む訳にはいかないだろう。
どうしたものかと悩み続け、いつの間にか時は過ぎ、俺は二歳の誕生日を迎える事となった。
「お初にお目にかかります。この度、公子様の女家庭教師の任を仰せつかりました。オリーブ・クレバリーと申します」
そう挨拶をした、仄暗い緑の髪に、浅葱色の瞳を携えた女性の瞳は、利発そうな輝きを放っていた。
目を細めて俺を見やる彼女は、訝しげに質問を投げかける。
「失礼ですが……公子様は御幾つになられますか?」
「……二つだ」
「……左様でございますか。私は、公子様の読み書き、算術を担当致します。最初の授業は、机に十分間集中して座っていただくものです。よいですね?」
俺はこくりと頷いた。
俺を二歳として対応しているので、当然だが、とてつもなく簡単だった。
まずは、日本で言う所の五十音の授業だ。
すぐに俺の集中なんぞ切れてしまうだろうと予測して組まれた授業のため、ものの十分で終了してしまった。
恐らく、十分集中して座ることすら難しいと思われていたのだろう。その後にすることが考えておらず、
「申し訳ありません。公子様のレベルにあったカリキュラムを組み直して参りますわ」
と、オリーブは驚いた様子で感嘆し、帰って行った。
「ノア様…申し訳ありません。まだお待ち頂くようにグロリア様にお伝えしたのですが……」
ダリアが心苦しそうに俺に謝罪する。
「ダリア、ありがとう、大丈夫」
確かに家庭教師をつけるにはまだ早い年齢だろうが、この世界の事を理解するのに、早いに越したことはない。たまには俺の母も役に立つじゃないか。俺はニヤリと笑みを浮かべた。