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「ーーーーノア!!」
セレスティア様の叫び声に目を覚ます。
……え?何事でしょうか?
まだ覚醒しない頭できょろきょろと辺りを見回す。
ーーーーまずい!いつの間にか、うとうとしていたようだ。
慌てて二人の眠るベッドへと目を向ける。
そこには、
「ごめんなさい。ごめんなさい」
と泣きながら謝り続けるセレスティア様の姿と
「だいじょぶ、だいじょぶ」
と声を掛けるノア様の姿が映った。
「お嬢様!ノア様!」
慌てて声を掛けながら近づいたが、そこには普段の毅然としたセレスティア様の姿はなく、肩を震わせ、噦りを上げていた。
「セレスティア様……大丈夫……大丈夫ですよ」
まずは、セレスティア様を落ち着かせる為にぎゅっと抱き締め、ぽんぽんと優しく背中を叩く。セレスティア様はゆっくりと呼吸を整え、ぽつりぽつりと話し出した。
「ノアが……落ちそうで……それで…引っ張って……」
セレスティア様の言葉を聞き、ノア様をじっと見つめた。
ノア様は何ともないかのように、気の抜けた笑みを見せたが、その右腕はだらりと力なく、ベッドへ垂れ下がっていた。
まったく、一歳を迎えたばかりの子どもが、どうしてこんなにも遠慮がちで、周りの目を気にするのだろうか。
それは、セレスティア様にも言えることで、姉弟揃ってもっと我儘を通すべきだと思う。
私は心の中で大きく溜め息をつき、次のように言い放った。
「……ノア様は腕を痛めたようです。すぐに侍医に連絡致します」
侍医を待つ間にもセレスティア様は、泣き出してしまった。疲れてしまったであろう少女に、自室でお休み頂くよう伝えたが、
「いいえ、私も側にいるわ」
と瞳に力を入れて見つめてくる。こういう所は頑なだ。
暫くして侍医のアレクセイ・ラザルス様が訪れた。まずノア様をじっと眺め、
「……大変落ち着いていらっしゃる」
と驚いていた。
「腕が、上がらないようですな……」
言いながらノア様の腕を触り始めた時、ノア様の目が見開かれた。
慌ててラザルス様を制止する。
「あの…、ラザルス様……差し出がましいようですが、ノア様が大変痛がっていらっしゃるようです」
「……痛がる?」
ラザルス様は手を止めてノア様のお顔をじっとご覧になり、小首を傾げた。……確かに、ノア様の表情は非常に分かりづらい。しかし、ノア様の乳母を務め、セレスティア様ほど、というわけにはいかないが、私にも分かるようになってきたのだ。
「それは、大変失礼致しました。……しかし、意思疎通の難しい幼子は触れなければ診断が出来ないのです」
「あの、触れずとも、会話で診断出来るならば、ノア様は十分可能かと思われます」
「ふむ、しかし……公子様のご年齢には…いえ、乳母殿が仰るならば、直接お伺い致しましょう」
ラザルス様は、ノア様に向き直り、問診をはじめた。
「公子様、腕は上がりますかな?」
「……痛い」
ノア様は力無げに首を左右に振った。
「でも、指は動く」
ノア様は、指先を開いたり、閉じたりして見せた。
「……なるほど、何もせずとも痛みますか?」
「いや、なんともない」
「……これは、肘内障ですな」
ラザルス様がこちらを見て、言葉を掛けた。
「肘内障……でございますか?」
「亜脱臼…つまり関節が外れかけています」
その言葉を聞いて、セレスティア様がぎゅっと私の裾を掴んだ。微かに震えているようだ。
私はそっと、セレスティア様の小さな手に手を添えた。
「いや、なに、大したことではありません。公子様ほどの年齢であればよくある事で、元気な証拠とも言えましょう」
「すぐに…良くなるかしら」
セレスティア様がラザルス様に問いかける。
「はい、徒手整復術で今すぐにも治せますよ。それより、頭を打たなかった事が幸いです。セレスティア様のお手柄です」
ラザルス様のお言葉でセレスティア様はホッと一息、安堵したようだった。
ラザルス様が軽くノア様の腕を捻ったかと思うと、コキッと小さく音がした。一瞬ノア様の眉間に皺が寄ったが、その後は目に見て分かるほど嬉しそうな表情を見せる。
肩を上げ、腕を振り回すような仕草をみせたノア様をラザルス様とともに窘め、ノア様を一人部屋に残し、隣の部屋へと移動する。
セレスティア様とともに、三人で部屋を移動したが、詳しく説明するとおっしゃったラザルス様は中々口を開かずにいた。
「あの……ご説明というのは……?」
ラザルス様は、重たい口を開くかのようにゆっくりと話し出した。
「……公子様のご様子は、普段からあのような感じなのでしょうか?」
「……普段のご様子……」
どのご様子の事をおっしゃっているのか、逡巡を巡らす。
大人とのやり取りも遜色なくこなすことを指しているのだろうか?
「あの、ノア様との会話のことでしょうか?」
「いえ、確かにそれにも大変驚かされました。……が、一番は泣かないこと、表情が読みにくいことです。いつ頃からですか?」
いつ頃…私はノア様が一ヶ月を過ぎる頃から乳母としてお傍に控えているが、その頃には既に今のようにあまり泣く赤子ではなかった。
「子どもにとって、泣く、という行為は自身の身を守るためでもあるのです。様々な要求を伝えるのも然り、自身の異変を伝える手段でもあります。
先程、整復術を行った際にも、公子様は声一つ上げなかった。実際は、子どもが泣けば成功……ともいわれる術なのです」
確かに、あの時ノア様は眉間に皺を寄せていた。多少なりとも痛みが生じていたはずだ。
「原因は発達や知能の遅れ、障害というのも考えられますが、公子様は質問以上の情報も伝えることができ、それはないでしょう。
……と、なれば、何かショックのような、心に大きな穴が出来てしまっているかもしれません」
「心に……で、ございますか……」
「幼少の頃の心の傷は、得てして生涯の鎖となりましょう。このことは、公爵夫人にも報告させていただきます」
「それは……私から…」
グロリア様へのご報告は当然ではあるが、その事を知った奥様からどのような仕打ちを受けるか……私はもうノア様にもセレスティア様にも会うことは叶わないかもしれない。
「いえ、情報というものは言伝であるほど正確さを失います。医師である私から申し伝えましょう」
侍医であるラザルス様がそう仰るならば、これ以上私が食い下がることは見苦しいだろう。
「……かしこまりました」
ラザルス様に一礼し、出口へとご案内する。ラザルス様はノア様に一言挨拶を述べて帰っていった。
「ダリア……私からも話があるわ」
それまで口を噤んでやり取りを聞いていたセレスティア様が口を開いた。
「ダリア……貴方はノアが怪我する場には居合わせなかった。すべて…私が一人の時に起きた出来ごとよ」
お嬢様のお言葉を聞き、目を見開く。
「……いけません!お嬢様……」
「……でも、このままでは貴方は乳母をクビになり、二度とこの屋敷に足を踏み入れることは無いでしょう」
「それでは、お嬢様が……ノア様と二度と会うことが出来なくなるかもしれないのですよ?」
それまで毅然とした態度で言葉を発していたセレスティア様の瞳に憂いが帯びる。
「……曲がりなりにも、グリーンフィル家の娘である私が追い出されることは無いでしょう。……同じ屋敷内に居れば、顔を見ることもあるわ」
「けれど……!」
それは同じ敷地内にいるというだけで、今までのように頻繁に会うことは出来ないかもしれない。
「……お願い、ダリア。私の我儘を聞いて、ノアにはまだ、貴方が必要なの……」
姉であるセレスティア様こそ、ノア様に必要なのではないか?そう頭に浮かんだが、口を衝いて出ることはなかった。
セレスティア様の深紅の瞳が、確固たる意思を持って私を見据えていたからだ。
初めてのお嬢様からの我儘がこんな事とは、あんまりでは無いか。じんわりと目頭が熱くなる。
「……ノアをお願いね」
「かしこまりました。この身にかえましても……ノア様をお守り致します」
「ふふっ、ダリアったら騎士様みたいね」
セレスティア様はいたずらっ子のように笑って見せた。