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「ーーーーノア!!」
俺を呼ぶ大きな声に驚き目が覚めた。
なんだ?せっかく人が気持ちよく寝ているところを……。
薄ぼんやりと目を開くと、酷く焦った表情のシェルが映った。
シェル??……なんでそんな遠くに……。
眠りにつく時にはぴったりと俺に寄り添っていたシェルが遠くにいる。
慌てた様子のシェルが必死に手を伸ばしていた。
……なんだ??
ーーーー違う!!
シェルが遠くにいるんじゃない!俺がベッドの隅まで動いていたのだ。
ダリアも言っていた。
「ノア様は寝相がよろしくないですから、真ん中で寝るんですよ」
いくら使用人のベッドとはいえ、俺はまだ一歳を迎えたばかりの小さな子どもだ。
まさか俺がベッドの真ん中から端まで転げていくとは思わなかったのだろう。
ダリア……俺の寝相の悪さを見くびったな……。
……そんなことを考えている場合ではない。
俺は短い手をバタバタと動かし、シェルの手を掴もうとする。
ーーーー間に合わないッ。
頭から落下するかに思えた俺の右腕をシェルがギリギリのところで掴んでいた。
刹那、ぷちっ、という小さな音が俺の腕からした。
ーーーーいッ!!
声をあげそうになるのを反射的に飲み込む。
なんとかシェルに引っ張り上げられ、俺はベッドに座り込んで呆然とした。
「ノア、ノア!大丈夫?……どこも痛くない?」
今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめる。
俺は右の掌をぎゅっと握りしめ、腕を動かそうとする。……が、俺の意思通りに腕は上がらず、激痛が走った。
ーーーーいってえぇぇ!!
「ーーーーノア!どこか痛いのね!……ごめんなさい。ごめんなさい」
途端に瞳に涙を溜めていたシェルの涙腺が決壊する。ボロボロと大粒の涙を流しながら謝罪し続けていた。
声もあげずに泣くシェルに俺の方がおろおろと当惑する。
「シェル、だいじょぶ、だいじょぶ」
満足に舌も回らず、女の子を泣かしたこともない俺に気の利いた言葉が出るわけもなく、大丈夫と言い続けるしかなかった。
「お嬢様!ノア様!」
騒ぎに気づき、ダリアがようやく側に駆け付けた。
「ノアが……ノアが……」
シェルが嗚咽をあげながら説明しようとするが、言葉にならない。
ダリアがシェルを抱き締め、諭すようにゆっくりと声を掛ける。
「セレスティア様……大丈夫……大丈夫ですよ」
優しく背中を叩くダリアの手に合わせて、シェルの呼吸も徐々に落ち着きを取り戻していった。
シェルに大丈夫としか声を掛けられなかった俺だが、同じ言葉でもこんなに安心感が違うとは……。
「セレスティア様……どうされたのですか?」
シェルが落ち着いた頃にダリアが優しく問う。
「ノアが……落ちそうで……それで…引っ張って……どこか痛いのかも」
シェルがぽつりぽつりと話し出す。
その言葉を聞き、ダリアが俺をじっと見つめた。
えーと、俺は何ともないですよー。……ほんと、腕を動かさなければ何とも……。
俺は誤魔化すようにへらっと力の抜けた笑みを向けた。
「……ノア様は腕を痛めたようです。すぐに侍医に連絡致します」
一時騒然とした一連の事件は落ち着いたが、昼寝前までの穏やかな空気は一変し、いまだにシェルのぐずぐずと鼻を啜る音だけが響く。
「セレスティア様……」
ダリアの声掛けにシェルがびくりと震えた。
「セレスティア様はご無事ですか?」
「ーーーーえ?」
止まりかけていたシェルの涙が再び溢れ出す。
「お嬢様!?……まさか、お嬢様までもどこか痛めて」
ダリアも慌て出す。
「いいえ、いいえ……私は大丈夫……大丈夫よ」
再び泣き出してしまったシェルの小さな身体を、ダリアは何も言わず、泣き止むまで抱き締めていた。
数刻してやってきた医者によると、俺は亜脱臼を起こしていたようだ。肘を胸の方に曲げて軽く捻られ、コキッという小さな音と痛みが走った後にすぐに腕は動かせるようになった。
おおー、素晴らしい。
嬉しくなった俺は腕をぐるぐると回そうとし、ダリアと医者に止められ怒られた。どうやら俺は身体のみならず、精神まで幼児化が進んでいるようだと思い落ち込む。
シェルはどうしても一緒に診察の場に居たいと申し出たようで、診察の最中はずっと心配そうに俺を見ていた。
「乳母殿、詳しくご説明致します」
「それでは、此方へ……」
ダリアが隣の部屋へ医者を案内し、シェルも着いていく。
どうやら、説明も一緒に聞くようだ。
暫くして、三人が隣の部屋から出てくる。
「それでは、公子様、お大事に」
医者は俺に一言声を掛けてこの部屋を後にした。
医者の帰った後にシェルとダリアは何やら隣の部屋で話をしていた。隣の部屋と言っても、扉は無いので、微かに声は聞こえてくる。
「……いけません。お嬢様……」
「……でも……」
「……それでは……」
段々とダリアの声に震えが混じる。なんだか不穏な空気が漂っていないか?
その後も会話は暫く続き、話し終えた二人が俺の部屋へとやってくる。
そこには、にこにこと穏やかな空気を放ついつもの姿はなく、二人ともどんよりと重たい空気を纏い、沈んでいるかのように見えた。
シェルは自身のドレスの裾を掴み、その唇はぎゅっと引き結ばれていた。先程まで泣きじゃくっていたシェルの姿はなく、今度はダリアの瞳に涙が滲む。
只事ではない二人の雰囲気に、何も言えずにいた俺の頬にシェルがそっと手を添える。
「ノア、腕を引っ張ってごめんなさい。……もう大丈夫よ」
優しく微笑みながら煌めく、シェルの決意の眼に不安を感じ、恐る恐る声を掛ける。
「……シェル……また来る?」
何故だかもう二度と、この優しい姉の姿を見れないのではないかと思う。
「ええ、当然でしょ。必ずまた会うわ」
にっこりと笑みを浮かべたシェルが俺の部屋を後にする。およそ十歳にも満たないとも思えぬその後ろ姿は、凛として美しかった。
ーーーー俺の不安は的中し、その後シェルが再び俺の部屋を訪れることはなかった。