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この世界での俺の姉、という人と、母、という人と、衝撃的な邂逅を果たした訳だが、その後二人が再びかち合うことなく平穏に過ごしている。
セレスティアはこの部屋に来るなと言われているようだったが、度々グロリアの目を盗み、俺の元へと訪れていた。
しかし、初日のように何をする訳でもなく、いつものように踏み台によじ登り、柵の上から俺をじっと見つめるだけだった。ふと思いついたように俺の頬をつんつんと指先でつつく事もあるが、それ以上何もしない。
弟という生き物に興味津々なのだろう。
しかし、いまだに現実味のない話だが、俺は転生というやつをしたのだろうか?
全く見覚えのない部屋で見覚えのない人たちに囲まれて生きている。『ノア』という別人の名で呼ばれている為、俺は『新城晃』ではないのだろう。
ならば、新城晃の生はどうした?
やはり、あの時の事故で俺は死んだのか?
最期に見たのはぐちゃぐちゃに泣き腫らした前世の姉の顔だ。申し訳ないことをした。
姉は俺にアイスを買ってきてと頼んだ事を悔やんでいた。一生、俺の死は自分のせいだと後悔して生きていくのかもしれない。
死んでしまうのならば、せめて「姉ちゃんのせいじゃない」と一言声を掛けてやればよかった。
最期の力を振り絞って伝えたのが、乙ゲーのプレゼントだなんて、思い出したら何だか恥ずかしくなってきた。
しかし、俺は死ぬ気なんて毛頭なかったし……。
あの時の俺の行動で、姉の好きな乙ゲーがトラウマにならずに、いつか楽しくプレイしてくれたらいいのだが……。
それにしても……、この娘はいつまで俺の頬をつつく気だ?
身体を満足に動かすこともできない俺は、日がな一日思考を巡らせるか、眠るかしかできない訳だが、そんなことお構いなしに俺の思考や睡眠の邪魔をしてくる。
ええい、いい加減鬱陶しいな。
うぅ、と小さく呻き声をあげる。
セレスティアはハッと慌てて手を離し、必死に指を立て、自身の唇に当てている。
シーって、この異世界でもそういうジェスチャーは同じ何だなとどうでもいいことをぼんやりと考える。
そう、この世界は恐らく異世界なのだ。
俺が最初に見たセレスティアのぶりぶりのドレスは、どうやら親の趣味とか、本人の趣味とかいうわけでは無さそうだ。
度々見かける数人の女性やグロリアとかいう俺の母の服装も中世ヨーロッパ風の煌びやかな雰囲気を醸し出している。
そういう民族衣装……という訳でもないだろう。
何よりもその髪色と瞳の色だ。
俺が最初にカラコンか?と心配したセレスティアの瞳はいつでも赤く煌めいていた。
人形のように不自然で表情の見えないカラコンとは違い、彼女の瞳はくるくると表情を変えてみせた。
初めて見たセレスティアの髪色が黒だった為、あまり意識していなかったが、グロリアの髪は濃い青色で、横に控えている侍女達も橙や緑、赤と様々だ。
流石に全員染めてます!という事は無いだろう。
そういえば、セレスティアはグロリアに『魔女の娘』と呼ばれていたが、この世界に魔法という概念があるのだろうか?
ならば是非ともぶっ放したい!
思考がすぐに全面に出てしまう赤ん坊だ。
俺はきゃっきゃっと嬉しそうに笑っていた。
その姿を見たセレスティアはふわりと微笑んだ。
やはり、自分の姉ながら美少女だ。
ーーーーやばい。きた。
何がやばいって便意である。いや、便意というのは少しおかしい。なぜなら催すと感じる前に出てしまっているのだ。
自分で処理することもままならないこの身体が恨めしい。
そして、この時が一番恥ずかしいのだ。
しかし、黙っていても気づいては貰えない。
あぅ、ああ、うっ
言葉にならない声を控えめにあげる。
俺の控えめな主張を聞いてセレスティアがハッとする。
「ねぇ、ダリア、ダリアきて」
後ろに控えていた侍女に顔を向けて呼ぶ。
流石に子どもたちだけにはしていない。
「はい、お嬢様」
橙の髪にモスグリーンの瞳の侍女が傍にきた。
「ノアの様子がおかしいわ。トイレかもしれない」
「はぁ、普段とあまりお変わりないように見受けられますが……」
そんなことは無い。これでも恥ずかしさを噛み締めながら精一杯主張しているつもりだ。
頼むからセレスティアの言うことを聞いてくれ。
そんな俺をセレスティアはジッと見つめて再び口にする。
「そんなことないわ。いつもと様子が違うの。確かめて」
「……かしこまりました」
侍女は俺をふわりと持ち上げて別の台に移した。
慣れた手つきでオムツを替えるダリアがハッと目を見開いてセレスティアを見た。
「セレスティア様、ノア様はうんちです!」
やめろ!そんな恥ずかしいことを嬉々として話すな!
「よかった」
とセレスティアも安心したように微笑んでいた。
清潔なオムツに替えられた後、俺はベビーベッドに戻された。
先程まで少し離れた所に控えていたダリアがセレスティアと共にベビーベッドの俺を覗き込みながら口を開く。
「実は、ノア様は声を上げて泣かないのです。そのため、以前ノア様についていた乳母はオムツに気づかず、ノア様のお尻が被れてしまいました」
そういえば、そんなこともあった。
おもらしをした当初、恥ずかしさが勝り、声をあげられずにいた。
赤ちゃんの仕事は泣くことだ。と何かで耳にしたが、なるほど、その通りだと思う。
あの時は確かに、暫くケツがヒリヒリして痛かったのを覚えている。
その後、あの乳母の姿を目にしていない。
「その乳母はグロリア様から鞭打ちにあい、クビになりました」
ーーーー!?
なんて恐ろしい母だ。これがモンスターペアレントというやつか!まさしく怪物の所業だな。
今度からはもう少し強めに主張しよう。
「お嬢様のおかげです。ありがとうございます、セレスティアお嬢様」
セレスティアはお礼を述べられたのがそんなに驚いたのか、暫く目を見開いてダリアを見つめていた。
その後も頻繁にセレスティアは俺の元を訪れ、俺の主張に気がつく度にダリアに声を掛けた。
ダリアも段々と俺の意図が組めるようになったようで、セレスティアに声をかけられる前に動くようになった。
「お嬢様は本当に、ノア様をよく見てらっしゃいますね」
「ダリアも、ノアのことを理解してるじゃない」
「お嬢様のおかげです」
ふふふっ、と笑い合う彼女たちは柔らかな雰囲気に包まれている。
そんな俺はそろそろ一歳になる。もうベビーベッドにばかりいるわけではない。今も四つん這いになりカーペットを縦横無尽に駆け回る。
まだ二本足で地に足をつけ歩き回ることは出来ないが、自分で動けるということに感動すら覚える。
今なら言葉も発することが出来る気がする!
手始めに何を話そうか。やはりオムツ、か?
いやいや、実用的だが、それは、ナイ!
俺は歩き回るのをやめ、セレスティアの横にぴたりと止まった。
「セレスティア、セレスティア」
そう姉の名を呼んだつもりだが、上手く発音できるわけもなく。
「しぇう、しぇる」
と口について出た。
途端にセレスティアは目を輝かせた。
「ダリア!聞いた!?シェルって……きっと私の名前よ!」
「はい、お嬢様!しかと、この耳に!」
失敗に終わったかと思えた俺の言葉は無事に姉に届いていた。
「ノア……。もう一度よ。もう一度呼んでみて」
「しぇう、しぇう」
「……ふふふっ、ノアは賢いのね。私の言葉を理解してるみたい」
「はい、お嬢様。ノア様はとても立派な公子様になられる事でしょう」