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あまりいい思い出とは言えない。それでも……。

「うん、これにしよう」

私は赤いドレスに揃いの赤い靴を履いた。

髪を自分一人で整えるのだって、もう手慣れたものだ。



姿見の前でくるりと回ってみる。

「うん、完璧ね」

目指すは弟の部屋よ!

自室の豪奢で重々しい扉を開けた。




私は、目星をつけていた三階の廊下に辿り着いた。少し離れた位置の廊下から部屋を見やるとカチャリと扉が開き、使用人が…おそらく乳母が部屋から出てきた。

弟は寝ているのだろうか?何にせよこれはチャンスね。

慌てず普段通りの歩調で部屋に近づくと、大きく深呼吸をしてからゆっくりと扉を開いた。



「あーー、うー」

部屋に足を踏み入れると、赤ちゃん独特の幼い声が聴こえてくる。きょろきょろと見回す必要もなく、それはすぐに目に付いた。


私の身長より少し高い、木の柵に覆われたベビーベッド。背伸びをすれば見えるけれど、見ずらいし、足が疲れるわ。

ふと、小さな踏み台が近くにあったので、少しズラしてベッドのすぐ横に置いた。


踏み台を登り、ベビーベッドの柵を掴む。うん、これなら上からばっちり見えるわね。

視線を下げると、ベッドの持ち主と目が合った。金色のくりくりとした瞳がこちらを見ている。

「うわー、かわ……」

いい、と続けそうになる言葉を思わず飲み込む。


「んん、全っ然、可愛くない!!」

流石はグロリア様の子どもね。顔だけはいいわ。顔だけは…。

ふにふにと丸っこく白い小さな手がこちらに向かって伸ばされる。……柔らかそうね。


赤ちゃんって軽いのよね?こんなにちっちゃいし、私でも持てそう…。それに、私お姉ちゃんだし?別に弟を抱っこするくらいいいわよね。

『お姉ちゃん』心の中で発したその甘美な響きに気分が高揚する。


お姉ちゃんだもん。大丈夫よ!柵の上から腕を伸ばし、弟の身体の下に手を入れる。そのまま自分の方へ引き寄せようとするが……え、想像よりも重い。

ずっしりとした重みが腕に乗る。気合いを入れて腕を振り上げると、弟は人形のように大人しく収まってはくれず、バタバタと暴れ始めた。


「えっ、と、ちょっと……やだ」

私はバランスを取ろうとしたが、不安定な踏み台の上でぐらぐらと揺れる。もう耐えられないと思い、小さな身体を胸に抱き、ぎゅっと強く抱き締めた。

とにかく潰してしまわないようにと重心を後ろに預ける。背中から地面に叩きつけられ、衝撃で一瞬息も詰まった。



「お嬢様!!」

騒ぎを聞きつけて、バタバタと使用人達が部屋に入ってきた。

「ーーー何事ですか!」

その中でも、一際存在感を放つ人物の登場に息を呑み、無意識に身体が震え出す。


「セレスティア様はこちらの部屋に入室されぬよう、言付けを寄越したはず、ですが?」

金色の瞳が冷たく見据えてきた。しかし、そんな話は聞いていない。

大方、忠告などせずとも部屋に近づかないとでも思ったのか…。面倒に思ってか、私に声を掛けたくなかったのか、ともかく使用人が役目を果たさなかっただけに過ぎない。


だが、そんな事実は私にもグロリア様にも大きな問題ではなかった。

「……納得いきません」

ぽつりと小さな反抗をしてみせるも、

「お引取りを」

グロリア様の一喝に、逃げるようにして部屋を出た。




その翌日、新しい侍女がやってきて、言付けとやらを今度はしっかりと伝えてきた。

「お嬢様は今暫く、坊っちゃまのお部屋に近づかぬようにされてください」

「そう、分かったわ」

大人しく聞き入れる私に侍女は少しばかり驚いたようだったが、満足したように頷いた。




ーーーーーなんて。

今更大人しく言うことを聞くわけないでしょ。


私はあれから一週間もしないうちに弟の部屋に訪れていた。確か名前は…ノア。グロリア様がそう呼んでいた。


初めのうちはノアの乳母によって追い返されていた。

乳母は私の顔を見るなり盛大な溜息を吐きながら言う。

「お嬢様、またいらしたんですか?ダメですよ。さあお帰りください」

「いつから会えるのかしら?」

「とにかくまだダメです。奥様のお許しがありません」

「はーーい」


間延びした返事で返して、部屋へと帰る。この繰り返しだ。

むー、中々隙を見せないわね。

ノアから片時も離れない乳母の目を掻い潜れる日はくるのだろうか?

そもそもグロリア様からの許しが出るとは思っていない。



それからまた、数日としないうちに弟の部屋をノックする。

「はい」

…チッ。今日も乳母が部屋に居るわね。

と、心の中で舌打ちを鳴らしてはたと考える。


これまでの乳母と感じが違うわ。もっと若々しく穏やかな声色。ゆっくりと扉が開き、お日様のように暖かな橙色の髪が覗いた。

「どなたでしょうか?」


予想だにしていなかった見慣れぬ人物の登場に一瞬戸惑うが、気を取り直して名乗ることにした。

「あっ…私はセレスティア・グリーンフィル。ノア・グリーンフィルの姉ですわ」

「ああ、お嬢様。聞いております。どうされたのですか?」



『聞いている』とは何を聞いているのだろうか?

セレスティアをノアに近づけるな。というような事だろうか?

「私、弟に会いに来ましたの」

彼女はうーんと少し唸り、考えるように視線を上げたのちに、どうぞと道を開けて部屋に招き入れてくれた。


弟の部屋に足を踏み入れるのはあの日以来である。

少しばかり不安に思い、彼女をチラリと見れば薄い笑みを浮かべながら迎え入れてくれる。


ベビーベッドの位置は以前と変わらない。近づいて行くが引き止められる様子もない。背伸びをしてベッドを覗くと弟はすやすやと寝ていた。

そうと指を伸ばして白い頬っぺたに触れてみた。


や、柔らかーい。

ノアの肌はすべすべと滑らかで柔らかかった。癖になりそうだわ。

指先で(つつ)くように何度か触っているとノアが眉間に皺を寄せ、小さく声をあげたので慌てて手を離した。



その間も彼女は私達の様子を見ているだけで止めに入るわけでも、(たしな)めるでもなかった。

「ねえ、貴女は誰?ノアの乳母(ナニー)はどこかしら?」

「前任の者は屋敷を後にしました。私がノア様の新しい乳母でございます」

ノアの乳母であれば、グロリア様から何か聞いていると思うのだけれど……。



「……怒らないの?」

「はい?」

彼女は小首を傾げて不思議そうな顔をする。

「ああ、大丈夫ですよ。怪我をするような事ではございませんから」


「あの、聞いてないの?グロリア様から私の事……」

「ええ、セレスティアお嬢様をノア様に近付けてはならないと伺っております」

その言葉に私を目を見開いた。

「え、じゃあ、なぜ!」


「ご姉弟が会ってはならぬ特別な理由とはなんでしょうか?ご様子を伺っておりましたが、お嬢様がノア様を傷付ける様子はありませんでした」

「それは…」

「私はお嬢様がまだ幼く、加減が分からずにノア様がお怪我をするから近付けないようにと聞いております。けれど、私の目で見てそのようなことは無いと判断致しました」



乳母(ナニー)は淡々と語り、穏やかに佇んでいた。

「……また来てもいいかしら」

「はい、ノア様とお待ちしております」

乳母の言葉にじんわりと心に温かいものが広がるのを感じた。

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