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「うん。俺がシェルに文字を教えるよ」

そう告げた幼い弟の顔を私はまじまじと見た。

ノアはヘラヘラと気の抜ける笑みを向けている。

「ーーーーー本当?」

少しの疑念と隠し切れない期待を滲ませて、念を押すかのように確認する私にノアは表情を引き締めた。



「うん、上手く教えられる自信はないけど、シェルが自分の力でお母さんの日記を読める手伝いをさせて欲しい」

憐れみを持って高慢に教えを施そうというのではない。

純粋に力になりたいのだと、透き通った琥珀色の瞳でまっすぐに見つめ返してくる。



いつも感情のままに(たかぶ)り悪態をつく私を、穏やかな笑みを浮かべ、時には戸惑いながらも(なだ)めていた幼い弟。

三歳児とは思えぬその(たたず)まいに畏怖の念を抱きながらも甘え、怒り、憎み、彼の優しさを試すかのように感情をぶつけた。


歩み寄りたいと…また仲睦まじい姉弟のように笑い合いたいと願いながらも、私の本質を知れば優しい笑みを(たた)えるノアの瞳も恐怖に染まり逃げ出してしまうのではないかと絶えず怯えていた。



だからノアがお母様の日記を『読んであげようか?』と告げた時、喜びよりも恐怖が(まさ)った。魔女であったお母様のどんな言葉が綴られているのか…想像もつかなかったからである。

魔女がどんなに恐ろしく、(おぞ)ましい存在であるのか。はたまた、私の存在に対する憤りか。


そんな恐れを内に宿しながらも、私はお母様の日記を捨てられずにいた。

『これは、貴方のお母様の…ファレノプシス様の日記です』

そう言ってこの日記を差し出した女性は、慈しむかのように柔和な微笑みを浮かべていた。私の黒髪を見て、魔女と分からぬ帝国の人間はいない。

しかし、彼女の瞳には一欠片も侮蔑の念は感じられなかった。


この本は呪いの日記などでは無い。母の温もりを感じることのできる温かな言葉が載せられたものだと信じてもよいのだろうか?

そして、それを知る術を与えてくれるのだとノアは言う。



「ノアありがとう」

私はノアを強く抱き締めた。もうこの手を二度と振り払わないと誓う。例え、幼い弟がいずれ真実を知り、私を拒絶するようになったとしても…それでも私は何者からもノアを守ろう。


いまこの時…いいえ、今までの全て…彼が私に向けてくれた愛情は本物だと信じているから。私はそれに報いたい。

まだまだ頼りなく、か細い弟の肩を抱きながら、私はこれまで向けられてきた嫌悪と畏れに駆られた人々の眼を思い返していた。




物心ついた時から奇異の眼に晒されてきた。

使用人達は私をちらりと尻目に見やるとひそひそと囁きあった。何を話しているのか、私には分からなかったけれどそれが喜ばしい事ではないのだけは感じ取られた。


あの眼で見られる度に私は俯き、人々の眼に触れないようにと身を縮め、息を殺して、大人達の顔色を伺いながら暮らした。

お父様は同じ屋敷に住んでいたが、仕事で家を空けることも多く、顔を見合わせたところで親子の会話があるわけでもない。私が挨拶を述べると「ああ」と短く返事が返ってくるだけだった。


そんな屋敷の中で、私に穏やかな笑みを向けてくれるのは唯一乳母のソフィだけだった。

ふくよかで丸みを帯びた女性らしい体躯。朗らかな性格で、抱き着くとお日様の香りがした。


彼女は私が危ない事をすれば、心配し、叱り、抱き締めては安堵の声を漏らした。

私が笑い掛ければ、「お嬢様は可愛らしいです」「良い子です」と言いながら頭を撫でてくれた。



ソフィは時折、私に母の話を聞かせてくれた。

「ファレノ様は愛らしく、心根も美しい方でした。平民出身の私にすら、学ぶ機会を与えてくださったのです」

母は私を産むと同時に生命(いのち)を落としたのだそうだ。母の肖像画も残されておらず、顔も知らない。ファレノプシスという母の名はソフィから教えてもらった。


女家庭教師(ガヴァネス)も未だに付けられていなかった私は、基本のマナーや自分の名前、挨拶といった簡単な読み書きをソフィから教わった。

平民出身である彼女が普通習うようなものでは無いが、私の母は異国の人で、一緒に授業を受けたのだという。




しかし、そのささやかな日々は奪い去られた。

お腹を大きくしたグロリア様がグリーンフィル家の屋敷にやってきた時からである。

突然ソフィが屋敷を出ると言い出した。


「どうして?なんで?いやよ!」

私は嫌だ嫌だと駄々をこねる事しか出来なかった。

「お願い。いい子にするから。お勉強も頑張るし、木登りだって、危ない事はもう止める…ちゃんとソフィの言うことを聞くから」

「お嬢様…」

ソフィは困ったように眉根を下げる。


「セレスティア様、我儘を言ってはなりませんよ」

そう言って私を制したのはグロリア様だった。金色の瞳は硬質な硝子(ガラス)玉のように冷たく、形の良い真っ赤な唇は薄い扇の向こうで笑みを(こぼ)しているかのように見えた。


「乳母は貴女の母ではありません。実の娘が病に()せっているのです。うちに帰してしてあげましょう」

「申し訳ありません。お嬢様、申し訳ありません」

彼女は謝罪を口にしながら項垂(うなだ)れた。




ソフィには私と同い年の一人娘がいた。

「いつか、お嬢様とお会い出来れば嬉しいです」

陽射しの中でそよぐ花弁のように眩しい笑顔を私に向ける。


彼女の娘は遅くに生まれた子のようで、生まれつき身体が弱く、外を駆け回る事も出来なかった。そのため、内気な性格で、特別仲の良い友人というものもいないのだそうだ。

かくゆう私にも友人と呼べる者はいないのだけれど…。


「友達になれるかしら…?」

と自信なさげにボソリと呟けば、

「ええ、きっと」

と確信を持った笑顔を浮かべる。




そんな彼女の娘の体調が急変したのだという。

もちろんそんな娘の元に(ソフィ)を返してやりたいとは思う。しかし……

「ソフィ、またこの屋敷に戻ってくるわよね?また会えるわよね?」

と尋ねる私に、ソフィは力無く(かぶり)を振った。


「申し訳ありません、お嬢様。私がこの屋敷を離れれば、公爵令嬢であるお嬢様と再び言葉を交わすことすら出来ないでしょう……。けれど、お嬢様の幸せを私は願っております」

そう言って、涙を浮かべながら私を抱き締める乳母をそれ以上引き留める事は出来なかった。

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