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それからの講義は少しずつ時間を延ばしながら公子様の様子を伺うことにした。
驚くことに大人と変わらぬ…いや大人よりも早い進みで知識を吸収していく。
公爵夫人には月に一度、講義中の公子様の様子や進捗具合を報告している。
「そう、もう読み書きも発音も問題ないのね」
「はい、驚くべき早さです」
「では女家庭教師の契約期間を早めるわ」
「え…」
突然のことに、声を飲み込むことも出来なかった。
公爵夫人は構わず続ける。
「大丈夫よ。契約満了と変わらぬ報酬は準備するわ」
いや、そういうことではなく……。まだセレスティア様にもお会いできてないのに…。
なにより、公子様の成長をこの目で見ていたい…。何時しか、女家庭教師としての矜持を持って、この任に就いていた。
今後の報告は公子様のペースを落として報告していこうかしら…。いえ、そんな不正まがいなことは人を導く立場としてすべきではないわ。
「グリーンフィル公爵夫人、契約満了までの期間は私にお任せください」
「けれど、ノアの覚えは早いのでしょう?ならば女家庭教師の期間を早めて、名家の家庭教師に引き継いだ方がいいわ」
女家庭教師の役割は、読み書き計算、教養、礼儀作法を教えること。通常男児は、ある一定のそれらを身に付けると家庭教師によって、より高度な学問を学ぶことになる。
どの家門の家庭教師の元で教育を受けたかによっても、貴族達には箔が付く。
とは言っても、我がメティス家は聡慧の一族。学問に於いて、メティス家よりも格上に上がる家門はない。その師が女性であってもだ。
辺境伯として国境を任され、皇室の呼び出しに応じずとも咎められることはなく、閉鎖的な一族として知られるメティス家の者は、顔を知られる機会も少ない。
公爵夫人は高級娼婦の出だと聞いている。
彼女たちの情報源は主に男性だ。いくら裏社交界の華と呼ばれる彼女たちであっても、侯爵家に嫁いだ私の出身は知らないようだ。
かと言って…わざわざ家門をひけらかす必要もないでしょう。
元々平民出身である公爵夫人は、貴族の男児の教育がどこまで進められるのか、明瞭には把握していないはずよ。
「夫人…以前一つずつ確実に進めましょうとお伝えした様に、今はその一つが終了したに過ぎません。公子様の成長は確かに目覚しいものがありますが、次の段階に進みましょう。契約のお話はそれらが終了した後でも遅くはないかと…」
「……そうね。次は何に移るのかしら?」
「読み書きをマスターしたならば、その根幹たる言語学を学ぶべきかと」
「そう、任せるわ」
それからの公子様の算術の内容も、既に女家庭教師が教える範囲を遥かに越えていたが、公爵夫人を上手く丸め込み…もとい、説得して私が講義を続けている。
「先生、この数式は前回の応用ですよね?自分で答えまで導きたいので、今日のところは設問のみ置いていってくれませんか?」
公子様の女家庭教師を務めて一年、いつも驚かされてばかりだが、今日は一段と驚嘆すべき発言を耳にした。
「ええ、けれど正しい数式の流れをお教えしなければ……」
「いえ、自分で考えたいのです。その代わり、時間をいただけませんか?」
基本の公式を知っているとは言え、そこから新たな公式を自分で導くというのかしら?大人であろうとも難題である。
「……そうですね」
三歳児にそんな事が可能なの?
いえ、公子様を年齢通りに測ってはいけないと、この一年間で痛感してきたわ。
「分かりました。幾つか出題しておきましょう。答えは来週の算術の時間までお待ちします。今日の授業は以上とします」
ひとまず、乳母に終了したことを報せましょう。
教材類を片付けて立ち去ろうとした私を公子様が呼び止めた。
「先生……少し、集中して考えたいので、本来の授業の終了時刻まで一人にしてもらえませんか?」
金色の瞳が懇願するかのようにまっすぐ見つめてくる。
まだ乳母も呼ばないでくれということだろうか?
「……分かりました。何かあれば呼び鈴を鳴らすようにお願いします」
「有難うございます。先生」
公子様は安堵したかのように、にこりと笑った。
その後も公子様は度々、何かと理由をつけては一人で考えたいと言う。流石に、何か別の意図があるのではないかと勘ぐってしまう。
まさか、公子様に限って授業を受けたくないからというようなことは無いと思うけれど…。そろそろお一人で何をされているのか様子を確認してみようかしら?
そう思い立ってからすぐにその機会は巡ってきた。
「先生、予定よりも早く進んでいますよね。講義要項に沿って内容を見直したいので、一人の時間を頂けませんか?」
「かしこまりました。時間は十分に余裕がありますので、構いません」
講義要項に沿っての見直し……本来であれば教師である私の役目だが…。今問題にすべきはそこでは無い。重要なのは公子様のこの後の行動だ。
「それでは、本日は失礼します」
私は来た時となんら変わらぬ手荷物と姿で部屋を出て扉を閉めた。
全く…来てそうそう追い返すならば、私もわざわざ屋敷に訪れないのだから前日にでも報せてくれればいいのに……。
まあ、公子様はそういう訳にはいかないのだろうけれど。恐らく私が一度部屋に訪れて、公子様が一人で勉学を進める許可をしたという前提が必要なのだろう。
前もって私が来ないことが分かれば、他の予定を組まれるだろうし、侍女達も付くことになる。
ほんと、私ってば良い隠れ蓑になっているわね。
私は長い廊下の角に身を隠し、今しがた自分が出てきた部屋の扉を見つめる。数分後、扉は遠慮がちにゆっくりと開いた。
紺色の髪が扉から覗き、きょろきょろと辺りを見回しているようだ。見つかるのは不味いと思い、壁に身を潜める。
暫くして、サッと角から顔を出して見ると、小さな背中が廊下を走り去るのを見た。足取り軽く去っていく後姿は、既に目的地が明確にあるかのように思える。
やはり、一度や二度の事ではなく、これまでの言い訳も何処かに向かう為の口実に過ぎなかったのだろう。
やはり……と、予想していたことではあるが、その落胆は隠せずにいた。
私は重い足取りで公子様の部屋に向かい、コンコンと扉をノックした。当然の事ながらシンとして、返事はない。
「公子様、女家庭教師のオリーブでございます」
形式ばかりの挨拶を述べて部屋に踏み入り、公子様の帰りを待つことにした。
そして、講義終了間際の時刻になり、ようやくその扉は開いた。
「おかえりなさいませ。公子様」
にこりと笑顔を向けて迎え入れると、公子様は悪戯のバレてしまった子供のように決まりが悪そうな表情を浮かべた。
その後、事実を語るまで問いただそうかとも思ったが、公子様はあっさりと自白した。本来は、嘘のつけない方なのだろう。
講義の時間を使って抜け出していたのは、姉であるセレスティア様に会うためだったという。セレスティア様は普段、来客用に使用している別邸にいるそうだ。
どうりで、こちらの屋敷で全く姿を見ないわけだ。
重ねて驚くべきことに、公子様が指差した別邸とは、私が月に一度公爵夫人に報告する際に通されている屋敷だった。
いつもお嬢様とお会いするのはその中庭だという…。
それだけの情報を得られれば十分だわ。ようやく彼女の娘に会えるのね。私は知らぬ間に彼女の本をぎゅっと握りしめていた。