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「それは、本当ですか!?」
伯爵家主催のお茶会の席でのこと。
元々は辺境伯家の者として、あまり社交界の場に姿を現す必要もなく過ごしてきた。しかし、クレバリー侯爵家に嫁いでからは度々こうした集まりにも参加している。
夫人や令嬢達の集まりは煩わしくもあるが、こうした情報の飛び交う場でもある。
「えぇ、あのグリーンフィル公爵夫人が優秀な女家庭教師を探しているようですわ」
「そういえば、クレバリー侯爵夫人はメティス家の出ですわよね」
「では皇太子様の女家庭教師を務めたのも侯爵夫人が?」
「はい、今は家庭教師に引き継いでおります」
我がメティス家の者は、聡慧の一族として知られる。皇太子の女家庭教師の任は、五歳から昨年の八歳までの三年間を受け持った。
グリーンフィル家は令嬢と子息がそれぞれお一人ずつ。公子様はまだ生まれて間も無いから公女様の女家庭教師を探しているはずだ。
彼女の娘に会える!
確か名前はセレスティア。今年で八歳になるはずだ。
家庭教師を付けるには遅いくらいだが、前任の家庭教師が何か諸事情で辞めるのだろう。
「この度より、公女様の女家庭教師の任を仰せつかりました。オリーブ・クレバリーと申します」
「貴女が皇太子様の女家庭教師を務めたという侯爵夫人ね」
「左様でございます」
今日は公爵夫人との初対面の日である。
深海のように深い紺色の緩やかな髪に、鋭く光る金色の瞳。美しい眉根を僅かに上げて、値踏みするかのようにジロジロと不躾に眺め回してくる。
「……なにか?」
「いいえ、問題はありませんわ。…それと、貴女が教育するのは公女ではなく、公子です」
ーーーーーは?
思わずあげそうになった声を呑む。
「公子様はまだ幼くていらっしゃると聞き及んでおりますが……」
「幼いだなんて……もう二歳になりますのよ?」
ーーーーーはぁ?
という素っ頓狂な言葉を辛うじて飲み込む。
二歳なんてまだ赤ん坊の類いじゃない。
「……家庭教師をつけるには些か早計ではありませんか?」
「いいえ、ノアは大人とも十分にやり取りが出来ますし、忍耐力もありますのよ」
「まだ子供の本分は遊びにあるかと思いますが……それより公女様の女家庭教師は…」
その後の言葉は続かなかった。
なぜなら公女と口にした途端、公爵夫人がぎろりと睨みつけてきたからである。
しかし、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「学を身に付けるのに年齢は関係ありません。寧ろ早いに越したことはありませんわ。……とにかく、話は以上よ。お願いするわね」
「……かしこまりました。授業の内容ですが…」
「そうね、とりあえず読み書きは最低限必要ね。あの発音の悪さ…聞くに耐えないから直して頂戴。後は算術かしら、貴族の子息として数字には強くないと」
発音の悪さ……それは年齢によるものじゃないの?
お貴族様の親バカが最大限に発揮されているってところかしら?
「それから、政治、歴史、経営、統計論、帝王学……」
「ちょっとお待ちください!」
その後もつらつらと続けそうな公爵夫人を制する。
「何かしら…?」
言葉を止めて一瞥をくれる。
「公子様の年齢を鑑みても、急に詰め込むのは得策では無いと思われます。一つずつ確実に進めていきましょう」
「そうね……。いずれは家庭教師に引き継ぐ事だし、貴女には読み書きと算術をお願いするわ」
「…かしこまりました」
そして、公子様との初の講義の日を迎えた。
「お初にお目にかかります。この度、公子様の女家庭教師の任を仰せつかりました。オリーブ・クレバリーと申します」
そう挨拶を述べた私を、公子様は騒ぐでもなく静かに注視していた。仄明るい夜空色の髪に、甘く照らす月明かりのような金色の瞳…子供ながらに整った顔立ちである。
しかし、本当に幼い。今までにも何人かの女家庭教師を務めてきたが、ここまで幼い生徒は初めてである。
「失礼ですが……公子様は御幾になられますか?」
「……二つだ」
にこにこと子供らしい笑顔を見せるでもなく、ゆっくりと確かめるかのように答える。
「……左様でございますか。私は、公子様の読み書き、算術を担当致します。最初の授業は、机に十分間集中して座っていただくものです。よいですね?」
公子様はこくりと頷いた。
確かに、受け応えに関しては問題無さそうだか…九十分もの間、集中力が持つわけもないだろう。
前日にどんなカリキュラムを組もうかしらと悩んで数分。
二歳児でしょ?授業の進みなんてこんなものよね。
と、ものの数分で組み立てたカリキュラムはすぐさま瓦解した。
授業の合間は時折『英語圏に近いな』『口語と文語では認識が別か…』など、此方に質問を投げかけるでもなく独りブツブツと呟いていた。
しかし、特段大きな問題もなく授業は順調に進んでいく。
「公子様…本日の授業は以上です」
授業開始後、僅か十分程で私はそう口にするより他なかった。
先の授業内容を準備していなかったのだ。私がそのように述べると公子様はきょとんとした顔をした。
本日初めて、子供に似つかわしくない冷静な表情を崩した瞬間だ。
しかし、気の抜けた表情はすぐさま引き締まり子供らしくない深沈たる瞳を湛える。
「…そうか」
ぽつりと、静かに口を開いた公子様には、講義の準備の爪が甘かった事はバレてしまったかもしれない。
「申し訳ありません。公子様のレベルにあったカリキュラムを組み直して参りますわ」
私は公子様の部屋を出て、扉を閉めた後、ふうーと長い息を吐いた。
まさか、ただの一度も愚図ることなく終わるとは思わなかった……。
あの理知的な瞳を湛えた人が、まだほんの二歳児ですって?
少年と呼ぶのも憚られるほど幼い子供である。
始めはセレスティア様に会う事ができるかも…と思い受けた仕事だが、中々面白いことになりそうだと思わず笑みが溢れた。