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ペイントレード

作者: 舌本温泉

「痛って」

 苦痛に顔を歪ませる男。それでいて男には、どこかまんざらでもない様子があった。

「はいこれ、今日の分」そう言って初老の男が宙に浮かんだ数字を見る。小さく息を吐きながら、痛みに耐えていた男も横目で数字を確認する。「ちょっと、少なくないか……?」肩で息をしながら、男は宙に浮いた3桁の羅列に文句を垂れる。こんなもんだろ、明日は多いといいな、初老の男は気のない返事をして、もう男のことなど見えていないかのように、足早にその場から去っていった。それはそれで困る、残された男は息を整えながら思う。少ししてようやく男は腰掛けていた噴水から立ち上がった。昇っている日は、天辺にはまだ遠かった。


 灼けるようなアスファルトを避けるように、男は建物の日陰沿いを選んで進んだ。大小さまざまなビルが並ぶオフィス街で、少々悪目立ちする色のハンバーガー店に男は入る。

 あー、ハンバーガーとポテト1つ。ああ、Mで。いや、うんセットはいらない。セカセカと動くツヤのあるシルバーの顔を男は見つめている。ものの数秒でロボットは商品をよこしてきたので、男はやや焦りながら受け取った。すると視界に、先ほどの3桁の数字よりも値の小さい数字が表示される。男が目をつぶると、今度はスロットのルーレットのように回転している5つの数字が、暗闇の中でゆっくりと順に止まっていく。7、2、9、2、4。¥72,924。ハンバーガーとポテトの代金が差し引かれた男の所持金が、鮮明に映し出されていた。


「お買い上げ、ありがとうございました〜」

 流暢な挨拶に気づき目を開く。お辞儀をすることなく真っ直ぐにーーおそらくーーこちらを見つめてくる視線に、男はなぜだか無性に腹が立った。


 外の道路を見下ろせる、2階の窓辺のカウンター席に男は座った。ハンバーガーが完全栄養食と呼ばれるようになったのはいつからだろう。男はそんなことを考えながら、通りを走る赤い車の数だけをただぼんやりと数えていた。

 ピン、と通知がきた。男がハンバーガーを半分ほど口にしたころだった。はい。男は特に何をするでもなく、ハンバーガーを手に持ったまま返事をした。仕事です。若い女の声だった。わかった。一言だけ返すと、通信は途切れた。男は残りを置いたまま店を出た。また別のロボットがやってきて男の残飯を処理する。手をつけられていないポテトは、くたくたの靴下のようになっていた。


 先刻とは打って変わって、すでに太陽は人を刺す力を失っていた。男は埠頭からほど近いさびれた工場跡にいた。場所はいつも同じだった。指定先が変わることはほとんどない。男のほかにもう一人、先着がいた。知らない顔だった。といっても、知っている顔だったことのほうが珍しい、と男は思い返す。はじめまして、後藤です。後藤と名乗る男は軽い調子で挨拶してきた。男はただじっと見つめ、視線をそらす。おいおい無視かよ、先輩。後藤は一人でぶつぶつ文句を言っていたが、男は静かに”それ”が来るのを待っていた。

 「待たせた」工場入り口の大きな扉から差し込む一筋の光のなかに、黒い人影が立っていた。人影は足早に二人のもとへと近づいてくる。スーツ姿の女だ。緒方、それから三上だったな。女は二人の顔を見ることなく確認をする。は〜い、後藤と名乗った三上が返事をする。緒方は黙ってじっと女の方を見ていた。女は手に持っていた手のひらサイズの手帳の一枚を強引にビリとちぎると、緒方に渡してきた。続けざまに同じように三上にも手渡す。以上だ。女はそう言うと来た方向に向かってすでに歩き始めていた。「ちょっと待って、質問!」女が歩みを止めて振り返る。「なんだ?」「 あのー、新人だからわかんなくて」三上が甘えたような声を出す。だからなんだと言っている。女の声は平坦なままだ。「ほんとに死なない? 俺も、そこの緒方っておっさんも」はぁ。女は聞こえるか聞こえないかぎりぎりのため息をついた。

「リスクを承知で臨んだのでなければ、その紙切れを破り捨てて今すぐどこへでも去れ。それだけだ」再び女は去ろうとする。待てって、慌てて三上が呼び止める。

「これってそんなにやばいことなのか? みんなやってることじゃないのかよ」

「お前何も知らずによくここまで来れたな」あきれる緒方がやっと口を開いた。

「一、『痛量限度法』に抵触する可能性が極めて高い。

 二、だからお前たちのようなごく一部の人間<テイカー>だけが行っている」

 女はそう言ってから、代わりはいくらでもいるがな、と付け足した。

 三上は理解できたのかいないのか、ふーん、とだけいうと不機嫌そうに手元の紙を眺め始めた。

 三上が知らないのも無理はない。通量限度法は昨年施行されたばかりの若い法律だった。痛みの授受を可能とする「ペイントレード」技術の普及に後追いするかたちで成立されたのだが、致死する可能性がある痛量を一般人が取引するはずもないため、その存在を知るものは少なかった。用法容量を超えたペイントレード技術の悪用。それによる大金の獲得。同じ穴の狢だった。


 月がはっきりと姿を表した頃、緒方はホテル高層階のバーにいた。そこが紙切れに記載された待ち合わせ場所だったからだ。耳障りのいい音楽、しゃれた内装、気の利いたバーテン、そのすべてが緒方が傾けるグラスの中身をただの水に変えた。

「うまいか?」

 緒方はやや遅れて声のほうを見る。

 ストライプの見るからに高そうなスーツに身を包んだ小太りの男が、バーテンにジンをくれと頼んでいた。かすかに白髪をはらんだ頭髪は艶のある整髪料で丁寧になでつけられている。緒方からひと席空けて座った男は自らを蒲生と名乗った。

「要件はわかっていると思うが、なにか聞いておきたいことはあるかね?」蒲生は淡々と話す。

「おっさんはないのか?」

「蒲生だ。仮の名だがね」蒲生はニヤっと笑う。話が早くて助かる、金額はこれでどうだ? 蒲生はピースサインを作る。

「2千万か」

「馬鹿言え。2 億だ」緒方が頷くのを見て蒲生は続ける。22時きっかりに”こと”を行う、心の準備でもしておくんだな。わかった、と緒方が応じる。

 緒方と蒲生は目を閉じ、互いの体に埋め込まれたマイクロチップを接続させる。何も難しいことはない。黙って目をつぶっていれば終わるただの退屈な時間だ。互いの意思が疎通すると認証は完了する。2とたくさんの0が並びが緒方の瞼の裏側に浮かんでくる。ペイントレードの準備はわずか数秒のうちに済んだ。緒方はグラスを空にするとそそくさとバーをあとにした。蒲生はバーテンとなにやら話をしているようだった。


 ホテルの一室で緒方は筋トレをしていた。暖房を30度にして、下着姿1枚でびっしょりと汗をかきながら黙々と取り組む。プッシュアップ、スクワット、バックエクステンション、ヒップリフト、バックキック。筋力をつけることが目的ではなかった。来る痛みに備えて体全体に負荷を与える。そのことに、本当に意味があるとは緒方も思っていない。これは一種の儀式みたいなものだった。人が死んだら手を合わせる。ご飯に箸を突き立てる。お線香をあげる。そういった類のものだ。あるいは、プールに入る前に心臓に水を浴びせる行為にも近い。そこに意味はあるようで実際のところ、大差はない。限界まで追い込んだころ、ベット横の時計を見る。時刻は21時半になろうとしていた。緒方は汗をかいたままベッドへと体を投げる。大の字になって天井に描かれた奇妙な模様を眺める。模様から模様からへ、隅から隅へと視線を遊ばせる。蒲生は22時と言ったが完全に信用しているわけではなかった。ただその時を待つだけの、どうしようもない時間。殺処分される動物たちは自らの運命を悟っているのだろうか。緒方は死へのカウントダウンが存在するなら、このような感じだと思う。この思索も無為であると知っているからこそ。


※※※※


 屋上からは目に映るすべてがぼやけて見えた。夜に溶け込むコンクリート群を、無理やり光が炙り出すからだろう。地面と空中のすれすれの位置に立ちながら蒲生は思う。腕時計は21時58分を指していた。時間に律儀ではない。それが自身の成功を生んだと思う。いや、蒲生はかぶりを振る。本当に成功している人間は、30階を越すビルの先端で今にも飛び降りようとはするまい。今まで何度こうしていただろう。最後の一歩を踏み出す勇気がなかったが、今日は違う。もう自分を止めるものはない。まるで喉に刺さった魚の骨がきれいに抜け落ちたときのようだ。サイドブレーキをかけずに止めた車が、めりめりとアスファルトを踏みしめる音を出しながらゆっくりと斜面を進むように、蒲生は暗い空へと消えていった。


※※※※


 いつだって、その時は突然訪れる。電気ショックを受けたように激しく体を跳ねさせた緒方は、そのまま気を失った。


 ぼやけた景色。視界は薄明かりに包まれ今が何時なのか、どれくらい時が過ぎたのか、判別がつかない。意識が伴うのと同時に、今までに味わったことのない激痛が緒方の全身を襲った。うまく呼吸ができず、ベッドの上で何度ももんどり打つ。ベッドに触れる部分が、ベッドに触れない部分が、身体のすべてがミンチになるまでバットで叩き潰されたような痛みを訴え続ける。真っ二つになったスイカのように頭は悲鳴をあげ、正しくついているはずの関節もあべこべに取り付けられたプラモデルのように無茶苦茶に神経を攻撃した。緒方はまた果てるように気を失った。

 荒い呼吸をしているのが自分でわかる。あれから何度か目を覚ましては、痛みとともに記憶が飛んでいったようだ。激痛が常にそこにあることも変わっていない。しかし、気を失うほどの、体が無意識に神経接続を遮断するほどの痛みではなかった。緒方はゆっくりと体を起こす。老人のように、ひとつひとつの所作を分解して、確かめるように動かしていく。ベッド脇のテーブルに置かれたリモコンをつける。男性キャスターがニュースを読み上げていた。ベッドから這い出るように床に着地する。姿見に映った自分を確認する。痛みこそあれ、見た目は何一つ変わっていなかった。げっそりと死にそうな顔はしていたが。

 ゆっくりと洗面所へ向かおうとしたとき、緒方の体はびくりと止まる。本日未明、都内の駅構内で三上純さん(30)とみられる遺体が発見されました。三上さんの死因については現段階ではわかっておらず調査中とのことですが、外傷などはなく突発的なショックによるものではないかと推測されています。続いてのニュースです、などとキャスターが続ける。その先の音は入ってこなかった。緒方はしばらくその場に突っ立っていた。やがて、小さな鼻息が漏れた。ふふ、それは少しづつ、ふふふ、だが時間をかけて確実に大きくなっていった、ははは、あはははは、気がつけば、緒方は大きな声で笑っていた。うわっはっはっは、はーはー、ひぃーうわはははははは。


「ふふ、早死にだったな。ごとうくん」


 この瞬間緒方は生まれてはじめて、生きている、ということを実感した。

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