傘
ここから新作です。
間もなく梅雨明けが発表される頃だからと、高を括って傘を持たずに出かけたら、思いがけず雨に降られてしまった。今日はもう降らないっていう天気予報だったんだけど。
まずいなあ、この辺りにコンビニはない。
雨が止むまで閉店した肉屋の軒下で待つしかないか…。
「あれ?」
肉屋の隣の隣、少し広めの八百屋の軒下に、露店がでてるぞ。
売ってるものは…傘だ!多少高いかもしれないけど、いいや、買っちゃおう。
「いらっしゃい。」
「これ、もらっていこうかな、いくら?」
露店のおばさんは、僕を見てにっこり笑って、
「大切にしてくれるなら1000円でいいよ。」
「大切にします。」
僕は少しばかり派手な浅葱色の傘を手に入れた。
家に帰って、ぬれた傘を傘立てに突き刺すと。
「こりゃ!ぬれたまま捨て置くでない!!」
傘から垂れる水滴の中から、怒りに満ちた少女が飛び出してきた。
「これは失敬、ええと、なんだい、君は。」
「まず傘を拭いてからじゃ!!!」
僕は風呂場から乾いたタオルを持ってきて、傘を拭くはめになってしまった。
「傘は使ったら水分を拭いて、陰干しするのじゃ!」
そんなこと、今まで使ってきた傘にしたことないぞ…。
「拭き終わったら、明日の朝まで開いて乾かしておくのじゃ!」
「置いとく場所がないよ…。」
僕の部屋はワンルーム、傘を開いておく場所が無いんだ。
「窓際のカーテンレールに引っ掛けるのじゃ!ここなら外もよう見えるでな!!」
言われたとおり、カーテンレールに傘をひっかけると、少女はにっこり笑って消えてしまった。
ちょ!!何者か、聞いてないんだけど!!!
次の日の朝、乾いた傘をたたむと、
「今日はおいてゆけ。」
傘から声だけがした。
なんだい、天気予報までしてくれるのか。
それから毎日、傘に天気予報を聞くようになった。
百発百中、これはすごい。
「今日は、持っていけ。」
めちゃくちゃ晴れてるけどな、こいつには実績がある。
僕は迷わず傘を持って会社に行った。
終業時刻になる頃、いきなり雨が降り出した。
雨足は少々強い。
傘を持たない社員たちが、会社の出口で雨宿りをしている。
ここから駅まで歩いて五分、しかし雨はやみそうにない。
男性社員たちは、頭に鞄をのせて走り出してゆく。
タクシーを呼んでいる社員もいる。乗合で行くようだが。
女性社員が一人、途方に暮れている。
鞄もなく、タクシーにも乗れなかったようだ。
…声をかけるか。
「傘、一緒に入っていきませんか?」
「いいんですか。」
女性社員と話をしながら、駅まで同行する。僕のアパートはこの駅の向こうにあるので、帰り道だったんだ。ついでにコンビニに寄っていくか。
「ありがとうございました、助かりました!」
「いえいえ。」
僕は女性社員と別れて、コンビニで夕飯を買った後帰宅した。
「きい!!傘は使ったらすぐ拭けと言うておろうがーっ!!!」
なんだ、今日はやけに機嫌が悪いな、どうした。
「わしの下で女子と並んで歩くとは何事じゃ!!」
「焼きもちを焼いているのかい。」
「餅など焼いておらぬわ!!」
なんだ、プンプンするのもかわいいじゃないか。
それからずいぶん経って、傘もずいぶん汚れてきてしまった。
僕はタオルで傘の水分を拭きながら少女と話をする。
「ずいぶんくたびれてきたね、もう隠居したらどうだい、家の中に飾っておいてあげるよ。」
「傘は使ってなんぼじゃ!使ってくれねば困る!!」
少女が怒ってしまった。…ずいぶんかわいいな、うん。
今日は台風だ。風が強い。
仕事も、急遽切り上げとなった。電車が止まると帰れなくなる人がいるからね。
僕は暴風雨の中、傘を差して家に向かっていたのだけれど。
ごぉおおおうぅっ!!!
バキッ!!!
傘!!傘が!!
傘が突風にあおられて、ひっくり返って!!
僕は豪雨の中、傘をたたんで、走って家に帰った。
「傘としては失格じゃのう…主を、こんなにびしょにしょに…。」
「そんなのいいよ!君、大丈夫なのかい。」
傘の骨が、二本折れてしまった。
ぽっきりいっている、これは直せるのか?…ちょっと待て、布も破れているぞ、これはまずい。
落ち着け、まずは傘の水分をいつも通りタオルで拭いて…。
僕はびしょ濡れのまま、一生懸命、傘の水分を拭う。
「たわけ!!はよ風呂に入ってこんか!!」
「いやでも…。」
僕の髪から、雫が垂れる。
「主が出てくるまではおるから!!風邪をひかせては、傘の沽券にかかわるでな!!!」
風呂から出ると、折れた傘の前で少女が正座をしていた。
…泣いているのか?
「もう、ここにはおられまいて…。」
「いたらいいじゃないか。」
僕はぬれた傘を、いつも通り、タオルで拭き始めた。
「わしは役目を果たせなんだ…。」
「僕はこの傘を手放す気はないよ、ここにいたらいいのさ。」
僕は傘を、いつものカーテンレールに引っ掛ける。
「何もせんと置いてもらうのは、ちと心苦しいのう。」
「…なんだそんなこと。」
「なんだとはなんじゃ!わしは、わしの存在する意味がなくなると…ううっ…。」
いつもの勝気な少女が、嘘みたいだ。
「じゃあ、僕と恋をしてくれないかな。」
「いいのかい。」
いつもの勝気な少女が、ふわりと笑った。
「うん、でもその前に、明日から使う傘が無いから、新しい傘を買いに行きたいんだ。」
「じゃあ、わしの分も買ってくれ。」
少女は、ぐんぐん大きくなって、女性になった。
女性は僕と恋をして。
ずいぶん、ずいぶんケンカもしたけれど。
ずいぶん、ずいぶん、仲直りもして。
ずいぶん、ずいぶん、長い間一緒にいて。
「ずいぶん、大切にしてもらったのう…。」
「そりゃね、僕の大切な人だからね。」
力なく微笑む、愛する妻の手を、そっと握りしめて。
「あの傘は、置いていくでな。」
「大切にするよ。」
「しっておる。」
愛する妻は、眠るように僕のもとから旅立っていってしまった。
一人で過ごす毎日は、壊れた傘とともにあったからか、それほど悲しみには包まれなかった。
ずいぶん、傘とともに、散歩に出かけた。
ずいぶん、傘とともに、一人で食事をした。
ずいぶん、傘とともに、病院に行った。
梅雨の晴れ間、僕は散歩に出かけた。
最近雨続きで、出歩いていなかったからね。
久しぶりの散歩に、少々疲れてしまったよ。
ベンチで休む、僕の上に。
ぽつ、ぽつ…
雨が降ってきた。
さっきまであんなに晴れていたのに。
…愛する妻の百発百中の予報がないからな、こういう事も、あるさ。
久しぶりに、骨の折れた傘を開く。
開いたときに、折れた傘の骨が、ぱらりと、落ちた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ…
「大切に使うと言うておったのに。」
「大切に、毎日、持ち歩いて、いたよ。」
傘の端から垂れる雫とともに、少女が出てきた。
「折れた傘に、雨を受けさせるとは、酷いもんじゃ。」
「それは悪かった。」
サ――――――・・・
「雨は、どんどん強くなるでな。」
「君の予報は、当たるからなあ…家には、帰れないかな?」
ザ――――――・・・
「わしと一緒に行かないかい。」
「どうしようかな。」
ザザ――――――・・・
降りしきる、雨の中。
壊れた傘を差して、ベンチに座る僕は。
ザザザ――――――・・・
「本当は、迎えを待っとったくせに!」
「はは、よくわかっている、じゃ、ないか・・・」
ザザザ――――――・・・
壊れた傘と、命を終えた体をベンチに残して。
少女とともに、天高く、昇っていった。