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鉛筆

 僕は、とても不器用な子供だった。


 どういうわけだか、指先を動かすことが人よりも劣っていた。


 幼稚園の頃。

 泥団子を作れたためしがない。

 クレヨンはいつもボキボキ。

 はさみがうまく使えない。

 箸がうまく持てない。

 鉄棒をやれば落下する。


 小学生の頃。

 鉛筆がすぐに折れる。

 消しゴムがすぐに割れる。

 粘土で形が作れない。

 彫刻刀で指を突き刺す。

 書道の筆がすぐぼさぼさになる。


 文字を書くのが苦手だった。

 布を縫うのが苦手だった。

 物を作るのが苦手だった。

 物を使うのが苦手だった。


 だが。


 絵を描くことは、好きだった。


 線はぶれるけど、引くのが好きだった。

 色は混じるけど、塗るのが好きだった。

 見たものをそっくりには描けないけど、見たことのないものを描くのが好きだった。

 自分にしか描けない絵を、描くのが好きだった。


 自由帳を何冊も買って、自由気ままに線を引き、繋げた。

 ひ弱な線を何度も何度も重ねて引いて、自分の世界を飽きることなく描き続けた。


 そのうち、すぐに折れる鉛筆ではなくて、ボールペンを使うようになった。

 力の強弱をつけるのが難しかった僕にとって、一定の太さの引けるボールペンは救世主のようなものだった。


 だが、相変わらず線はゆがむことが多かったし、思ったとおりの線を書くことは難しかった。

 言いようのない、もどかしさがいつも自分の中にあった。


 中学に入学するころ、漠然と絵を描いて食べていきたいと思うようになった。

 毎日絵を描き続けたい、そう願うようになった。


「何だ、今井は美術科に行きたいのか。じゃあ、デッサンが必須だな。ちょっと描いてみろ。」


 美術部の先生に相談したところ、デッサンの必要性を教えてもらった。

 美術科に入学するためには、デッサンの試験があるのだそうだ。


「ちょっと待て…、基本事項として、デッサンは鉛筆を使うことになってる。ボールペンでは…聞いた事がないな。」


 毎週二本は使い切っている、愛用のボールペンでのデッサンは認められていないようだった。

 仕方がないので、鉛筆を使って線を引いてみたが、ぼきぼきと芯が折れるばかりで、思うようにモチーフを紙に写す事ができない。


「今井は、鉛筆デッサンを学ぶ必要があるな。まずは、鉛筆の使い方からはじめよう。」


 毎日の美術部の活動で、鉛筆デッサンをするようになった。

 イーゼルに紙を置き、鉛筆を使ってモチーフを描く毎日。


 だが、どうしても、うまく描けない。


 折れる芯を見るたびに心がすさんだ。

 ゆがむ線を見るたびに苛立ちが湧いた。


 鉛筆の芯と共に、僕の芯も折れてしまいそうだった。


 夏休み、美術科受験コースのデッサン教室に通うことにした。

 美術科を志す、同級生達との邂逅。


「なにそれ、デッサンの基本がなってない!」

「お前才能ないよ。」

「へたくそだなあ、こんなんで受かるわけねえじゃん!」


 受講生の誰もが、エッジの利いた輝くようなデッサンをしていた。

 受講生の誰もが、写真と見間違うような洗練されたデッサンを完成させていた。


 明らかな、場違い感。


「美術科は絵を描くのが好きなだけでは受からないんですよ。まだ一年ですからね、今から入塾して三年間かけて受かるテクニックを身に着けましょう。」


 講師も、明らかに諦めの様相だった。

 講師は、明らかに金づるとして僕を迎えていた。


 デッサン教室に通うだけで、吐き気がした。


 毎回、美しいデッサンを見せ付けられるのがいやだった。

 毎回、美しいデッサンの横に並べられるのがいやだった。

 毎回、美しくないデッサンに駄目出しされるのがいやだった。

 毎回、美しくないデッサンと決め付けられるのがいやだった。


 デッサン教室は二週間。

 二週間も通ったら、僕は絵を描くことが嫌いになってしまうかもしれない。


 苦悶の二時間を黙って耐えたあと、自宅で鬱憤を晴らすように絵を描いた。

 一日にボールペンを二本使い切るスピードで、絵を描いた。


 自分の絵が酷評された事実を描き消すように。

 自分に才能がないといわれた事実を描き潰すように。

 自分を見下す人々の冷たい目を描き壊すように。


 自分の魂を描き込んだボードが六枚になった日のことだ。


 僕は、デッサン教室に行く足を、路地裏に向けた。


 目の端に、大きなイーゼルが見えたので、ふと足を向ける気になったのだ。

 美術科に合格する、美しい、同じようなデッサンを一時間も眺めなければいけないのであれば、自由に描かれた絵を見たいと思ったのだ。


「いらっしゃい。」


 だが…、イーゼルの上に置かれていたキャンバスには、何も描かれていなかった。


「すみません、僕、絵があるのかなって思って。のぞきに来ただけで……。」


 声のした方を見ると、お婆さんがガラクタに囲まれてニコニコとこちらを見上げていた。

 小さなトランク、よく分からない民族工芸、クッションに傘、千羽鶴にボードゲーム、所狭しと、いろんな物が置いてある。


「お兄ちゃんは絵描きさんかい?……良いもの、あるよ。」

「僕は…、ごめんなさい。」


 お金はデッサン教室に通うために交通費を渡されていたから、ある程度は持っていた。

 けれど、無駄遣いをするわけにはいかなかった。

 二週間の受講料は高額で、おかしなものを買ってしまっては、費用を負担してくれた母さんに申し訳ない。


 僕は、その場から立ち去ろうと。


「絶対に折れない鉛筆、・・・10円でいいよ。」


 そんなもの、あるわけない。


 ……だけど、弱気になっていた僕は。

 少しだけ、頼ってみたい、気持ちになったのだ。


「じゃあ、もらい、ます。」

「ありがとさん。」


 絶対に折れない、鉛筆。

 これを使って、デッサンしてみよう。

 それで、最後にしよう。


「ちょ、お前HBの鉛筆でデッサン描くの?ウケる!」

「鉛筆を変えてもかけないもんはかけないんだよ、分かる?」

「いい絵が描けると、いいね。」


「気持ちを切り替えるのも必要ですよ、はい、じゃあ今日は胸像を描きます!」


 もうこれで最後なのだと決めたのが、よかったらしい。

 力を抜いて鉛筆が握れたこともあってか、芯は、折れなかった。

 ……描いたデッサンは、相変わらずおかしな形であったけれど。


 帰宅した僕は、母さんにデッサン教室を辞めたいと伝えた。


「そうねえ、合わないならやめておきなさい。あなた、最近とても思いつめた顔をしているもの。そんなんじゃ、良い絵は描けないと思う。」


 叱られることを予想していたが、すんなりと希望が通った。

 胸の痞えが取れて、心が晴れやかになった僕は、日課である絵を描くために、イーゼルの前に腰を下ろした。


 ……そうだ、あの、折れない鉛筆を使って絵を描いてみよう。


 僕の不器用な右手で握っても折れなかった、頼りがいのある鉛筆。

 この鉛筆で絵を描いたら、どんな絵になるんだろう?


 白いボードに、そっと丸を描いてみる。

 線を足して、丸を彩る。

 彩られた丸は、形となって立体感を・・・・・・。


「…んしょ、よいっしょ!……おう、はじめましてなのじゃ!!」


 鉛筆を持ったまま、ボードを見つめる。

 紙の中から、モノクロな少女が・・・這い出してきた。みるみるうちに色付いて、健康そうな少女になった。


 ……なんだい、これは。


「わしは鉛筆の神じゃ!!おぬしいい絵を描くのう、もっといっぱい描くところを見たいでな、どんどん描いてたも!その鉛筆は減らんで、遠慮せんと使うがええ!!」


 キャンバスから出てきた少女は、僕のデッサンを見守るようになった。


「何や、線は何度引いてもええんやで。」

「描いた線を悔やむでない!おぬしの生み出した線じゃ、自信をもてい!」

「描きたいもんを描かんでどうすんじゃ!描くのに遠慮しておってはいつまでたっても描けんわ!」

「見たものをおぬしの心で捉えよ!そしておぬしの手でおぬしの絵に仕上げるのじゃ!」

「納得がいくまで線を引けばええ!中途半端に納得するくらいなら干からびるまで描き込んでみれ!」

「人の絶賛を得るために絵を描くでないわ!お前の納得する絵を描けい!!」


 ずいぶん乱暴で、しかし確実に僕の背中を押してくれるアドバイスが飛んできた。


「おぬしの描く世界は画面いっぱいに広がって…画面の外にまで飛び出しておるのう。」

「ねえ、わしもここに描いてよ!」

「あ、ここにワンワンがいる、見つけたぞ!」

「ふふ、いつまででも見ていられる、素敵な絵じゃ……。」

「昔の絵も見たいのじゃ!出してたも!!」


 ずいぶんかわいらしい、だけど僕の絵を愛することが丸分かりの言葉が飛んできた。


 来る日も来る日も、少女を肩の上に乗せて絵を描いた。

 来る日も来る日も、少女に励まされて鉛筆を握った。

 来る日も来る日も、少女にねだられて自分の世界を紙に映した。


 いつしか時は流れ、美術科の入学試験の日がやってきた。


「……受かるかな?」

「受からんでもええ!絵は学校で描くもんではない!おぬしは自分の描きたいもんを描いてくる、それだけでええ!!」


 美術科に受かるテクニックを持つ受験生に混じって、愛用の鉛筆一本持って受験に挑んだ。

 実技試験を終え、少女が一番好きだという作品を持参し、面接に挑んだ。


「君、消しゴムは使わないの?どうしてだか、教えてください。」


 ―――なんや!せっかく引いた線を消すなや!!

 ―――引いた線は、消したらもう二度と引けないんやで?!

 ―――消すぐらいなら、重ねておぬしの世界に取り込んでやらんかい!


「自分の線は、自分が引いた瞬間に世界として生まれるので、消しゴムを使って消すことをしたくないからです。」


 おかしな返事を返したものの、僕は無事受験に合格することができた。


 毎日新しい画材に出会い、新しい技法を学び、自分の世界をどんどん大きくしていった。


 毎日イーゼルの前にすわって、鉛筆を握った。

 毎日イーゼルの前にすわって、色を重ねた。

 毎日イーゼルの前にすわって、世界を描いた。

 毎日イーゼルの前にすわって、少女を描いた。


 毎日イーゼルの前にすわって世界を描きながら、少女と笑った。

 毎日イーゼルの前にすわって世界を描きながら、少女と見つめ合った。


 毎日イーゼルの前にすわって、世界を描き続けると思っていた。


 毎日イーゼルの前にすわって、世界を描きながら。


 少女の喜ぶ絵を描き続けるのだと。

 少女の笑う顔を描き続けるのだと。


 少女が時折見せる、切ない表情を。

 少女が時折見せる、優しい眼差しを。


 いつか、自分の手で、描きあげるのだと。



 ・・・・・・!!!


 ・・・!!ょ!!・・・・・・おきて!!!


「はよおきんかい!!!」


 ある日、僕は…、胸のあたりの衝撃と、大きな怒鳴り声と、息苦しさで、目を覚ました。

 うっすらと開けた目の前が、白く曇っている……?


「あほ!!早う避難するのじゃ!!燃えちまうがな!!!


 火事だ!!!


「煙を吸うでないぞ!枕で口を覆って…背を低くして廊下から出れ!」

「わ、わかった……!!!」


 あわてて枕で口元を覆いながらアトリエを出ると、ちょうど両親も寝室から飛び出したところだった。


「母さん!!通帳とかいいから!早く外に出るんだ!!」

「で、でも!!!」


 まだあたりが薄暗い中、パジャマのままで避難した。


 ほどなくして、消防車がやってきて火は消し止められたものの。



「俺は悪くない!俺はこの世に害悪となるものを消滅させたに過ぎない!こんな悪魔の絵が認められる?こんなものが認められる世の中などあってはならない!恐ろしい、恐ろしい、悪魔の絵!人々をおかしくさせる毒、人類の敵、ひゃはアアアアあははははははアアアアあハハハハハハハハ!!!!!」


 火事は、放火だった。

 しかも、犯人は、僕の学校の同級生だった。


 歴史のある絵画コンクールで入賞した僕が、許せなかったらしい。

 ありえない汚いデッサンを描くくせに、絶賛されるのが信じられなかったらしい。

 見ているだけで虫唾が走る絵に魅入られる人が気の毒だから、すべて燃やしてしまおうとしたらしい。


 一番燃えたのは、僕の部屋だった。


 僕の、アトリエが、燃えてしまった。

 僕の世界が、炭になってしまった。


 父親と母親が忙しく手続きをする中、僕は何もする気になれなかった。


 毎日欠かさず描いていた絵を、描かなくなって……、もう、三日。

 手が震えて、鉛筆も、ボールペンも、筆も、木炭も、色鉛筆も、持つことが……やっとだった。

 絵を描きたい気持ちと、震える手が、幼い日のもどかしさを思い出させた。


 ブルーシートのかかった、骨組みしかない家に向かい、呆然とすることしかできない、日々。


 火事以来、家に入ることができなかった。

 家に入って、現実を見たくなかった。


 現実を知り、打ちのめされてしまったら。

 震えがますますひどくなり、二度と絵が描けなくなるんじゃないかと思ったのだ。

 描きたいという気持ちさえ、消えてしまうのではないかと、心配でたまらなかったのだ。


 けれど。


 あの、アトリエには。


 僕の絵を褒めてくれた、少女が。

 僕の絵を喜んでくれた、少女が。

 僕の絵を求めてくれた、少女が。


 僕の進む道を作ってくれた、少女が。

 僕の命を救ってくれた、少女が。


 僕の横で、ずっと寄り添ってくれていた、少女が。


 勇気を振り絞り、ブルーシートで覆われた家に入る。

 一階の、ウッドデッキ横の、自分の部屋。

 何年も絵を描き続けた、自分のアトリエ。


 見渡す限りの、モノクロの世界。

 炎で焙られて、色を失った、僕の世界。


 幼い頃から一途に描いた僕の世界が、全て。


 ……すべて、この世界から。


 長年愛用していたイーゼルが、真っ黒になっている。

 その端に、真っ黒になった鉛筆を、見つけた。


 ……この、鉛筆は。


「無様な姿に、なってしもうたわ……。」


 そっと手に取った時、少女の声が聞こえた。


 少女が起こしてくれなかったら、僕は今頃。

 少女が起こしてくれたから、僕は、今。


「君、なんで…薄くなってるんだい。」


 ほっぺたに煤がついている少女は…向こう側が、透けている。

 少女の向こう側に、いつも絵を並べていた棚が見える……。


「わしは…あの絵が、大好きだったのじゃ。わしとおぬしが、笑いあっているあの絵を、守りたかった、それだけじゃて……。」


 少女が指差した棚の奥に、焦げた額やキャンバスがたくさん並んでいた。

 真っ黒に焦げた僕の世界が、折り重なるようにして、守っていたのは。


 あの、入試の時に持って行った、一枚の、絵。


 奇跡的に残った……?

 この絵を守るために、少女は、もしかして。


「たくさんの絵を、ありがとう。もっと…見たかったが、力を使い果たしてしもうたわ…。わしは、もう、神としてここにいることはできん……。」


 どんどん色味を失ってゆく、少女。


「……ここにあった、おぬしの絵は、燃えた絵は、わしがもらって、ゆくでな?なくなったわけでは、ないぞえ?」


 少女は、燃えてしまった絵を、全て持って、ここから消えるつもりのようだ。


 僕の描いた絵は、この世から消えてしまうのではなく、少女が持って行くのだ。

 僕の描いた世界は、炎で焼かれて失われたのではなく、少女にすべて貰われてゆくのだ。


「わしは、また、おぬしの絵が……見たいのう……。」

「描くよ。たくさん、描く。僕は、こんなことで、筆を折ったり、しない。」


 僕は、僕の世界を。

 また、この世界に。


「……そうかえ。では……いつか……、見せて…た…も……


 少女が、消えてゆく。

 少女が、消えてしまう。


 少女が、消えてしまう前に!


「僕は、君を描く。だから、絶対に、見に来てくれよ!」



 ……きれいに…描けたら……恋を………わ……… た…




 僕は、一人で、何枚も何枚も、絵を描いた。


 いつか、僕の前に、少女が現れた時のために。


 少女が喜びそうな、絵を描いた。

 少女が好きそうな、絵を描いた。

 少女が驚くような、絵を描いた。

 少女が照れるような、絵を描いた。

 少女が感心するような、絵を描いた。


 少女に見せたい、絵を描いた。

 少女に伝えたい、絵を描いた。

 少女に渡したい、絵を描いた。


 僕の絵は、世界中で求められるようになった。


 キャンバスの中に広がる、切ない感情が、人気を呼んだ。

 キャンバスの中を彩る、心に染み入る色が、人気を呼んだ。

 キャンバスの中を賑わせる、魂の書き込まれた線が、人気を呼んだ。


 だが、何度、描いても。


 納得のいく、少女の絵は、描けなかった。


 どれほど世界を生み出しても、少女を生み出すことは、できなかったのだ。


 描きたいのに描けない、描きたい気持ちだけが一人で駆けだして行き、線が乱れる。

 描きたいのに描けない、描けない指先に焦りだけが募り、手が止まるようになった。


 絵が描けなくなった悲劇の画家と呼ばれ始めて、しばらくたったころ。


 昔住んでいた、家のあたりに出かけることにした。

 あの、燃えた家は、今、大きな公園になっている。

 散策路の多い、のどかな公園は…昔ここで火事があったことなど微塵も感じさせない、穏やかな日常があった。


 緑豊かな、小高い丘にあるベンチに、一人、腰を下ろした。


 ぼんやり見渡すと、平和な光景が目に入った。


 小さな子供が砂場で遊び、母親が見守る風景。

 ブランコを取り合う、やんちゃな子供たち。

 ボールを投げ合い、笑う家族。

 ベンチで弁当を広げるカップル。

 散歩を楽しむ犬と飼い主。

 愉快な形で空を占領しようともくろむ、白い雲。

 目には見えないが、いたずら心いっぱいで吹いている風。


 どこか懐かしい風景だ。


 ……ああ、そうか、この、風景は。


 ―――おぬしの描く世界は画面いっぱいに広がって…画面の外にまで飛び出しておるのう。

 ―――ねえ、わしもここに描いてよ!

 ―――あ、ここにワンワンがいる!

 ―――ふふ、いつまででも見ていられる、素敵な絵じゃ……。


 すっかり記憶が遠くなった、少女の愛した、風景、か。


「……ふふ。」


 僕は、かばんの中から、クロッキー帳を、取り出した。

 描くものは…ボールペンで、いいか。


 ゆがむ線を、気にすることなく引いてみる。

 飾らない形を、気ままにつなげてみる。

 自分の中にあるイメージを、溢れるままに紙に写した。


 ボールペンのインクが切れたところで、はっと我に返った。


 ……夕日が、目に染みる。


 クロッキー帳に、オレンジ色の光が差して、モノクロな画面を彩る。


「……あの。絵、完成したなら、見せてもらえませんか。」


 いつの間にか、後ろに、観客がいたようだった。

 夢中になっていたことに、少々気恥ずかしさを感じる。

 いつから見られていたんだろう?

 いい年をして、みっともない事だ……。


「……どうぞ。」


 気恥ずかしさから、少々ぶっきらぼうに、クロッキー帳を差し出した。

 それを両手で受け取って、ニコニコしながら、目を滑らせる…女性……。


「独特の世界が画面いっぱいに広がって…画面の外にまで飛び出してますね。」


 夕日が、女性の顔の高さで輝いていて、少し……眩しい。


「見てください、ここにいるの、私ですよね。」


 僕の顔をのぞき込む、女性の顔が……。


「あ、ここにワンちゃんがいます、見つけちゃった!」


 どこかで、見たことのある……。


「ふふ、いつまでも見ていられる、素敵な絵……。」


 僕が、どうしても、描けなかった、たった一人の。


「……昔の絵も見たい!見せてもらえませんか!!」


 にっこり笑った、この、女性は。


「僕は…どうしても描きたかった絵が、描けなくてね。君がモデルになってくれるのであれば、必ず描けるはずなんだけど。」


「じゃあ……積もる話もあるし、あなたの、アトリエで、ね?」



 少女は、どうしても我慢ができなくて、世界を渡ってきたのだそうだ。

 僕の描く世界を見たいと願って、世界を越えてきたのだそうだ。


 神をやめて、人として生を受け、僕に会いに来たのだそうだ。


「よく世界を渡れたね。」

「あなたと一緒よ?あなたの世界は、あなたの頭の中の世界を飛び出して、この世界に存在しているじゃない。」


 女性を見ながら、少女の絵を描いた。


 女性を見つめながら、女性の絵を描いた。


 妻を見つめながら、最愛の人を絵に描いた。


 最愛の人を見つめながら、納得のいく絵を何枚も描いた。




「あら…ずいぶん、かわいいわ……?」

「僕の目には、君がこう見えるって、知ってるだろう?」


 力なく微笑む妻に、鉛筆で描いたデッサンを見せたら…いつになく、楽しそうな表情を見せてくれた。

 ……よかった、妻がまだ少女だった時の姿を、描いてみたかいがあった。


「あのね、私…あなたの絵を、向こうにたくさん置いてきたでしょう?…そろそろ、見に行こうと思うの。……いい?」

「君は……、僕を一人ぼっちにするつもりなのかい。」


「ごめんね?必ず、…迎えに来るから、……ね?」

「うん…、待っているよ、たくさん、絵を描いて、待っているからね。」


 妻は、一人で…空にかえって、しまった。



 

 僕は、一人ぼっちで、何枚も何枚も、妻の絵を描いた。


 いつか、僕の前に、妻が迎えに来る時のために。


 妻が喜びそうな、絵を描いた。

 妻が好きそうな、絵を描いた。

 妻が驚くような、絵を描いた。

 妻が照れるような、絵を描いた。

 妻が感心するような、絵を描いた。


 妻に見せたい、絵を描いた。

 妻に伝えたい、絵を描いた。

 妻に渡したい、絵を描いた。




「もう、絵を…、描けなくなってしまったな……。」


 力なく横たわる事しかできなくなった僕は…、白い天井を見つめることが、多くなった。


「ああ、絵が、描きたいな……。」


 僕の中には、描きたい世界が、溢れるほどあるというのに。

 僕にはもう、描くための、……力が。


「ああ、絵が、……見たいな。」


 僕の描いた絵すら、ぼんやりとしか見えなくなってしまった。

 僕にはもう、見るための、……力が。


 そっと目を閉じ、自分の中に広がる世界を望む。


 ああ、目で見なくても、こんなにも、世界は広がっている。

 この世界を、妻にも見せて、やりたいな……。


「描きたいけど、描けないなあ……。」


「描きたいもんを描かんでどうすんじゃ!」


 僕の、世界に……少女が、飛び込んできた。


「じゃあ、描いて、みようかな?」

「じゃあ、見せてもらうでな!」


「君は、僕の描く絵が、好きだったね……。」

「ふふ、今も、好きやで?だった、は、おかしいのじゃ!」


 そうか…そうだった、な……。


「見て!おぬしの描いた絵を、いっぱい持ってきたよ!」


 はしゃぐ少女の声を聞いて、僕は目を、開けた。


「ああ・・・ほんとだ、なつかしいなあ・・・・・・。」


 少女の周りに、少女がかつて持って行った、僕の絵が、舞っている。


「ね、一緒に見ようよ!すごく、ステキな絵ばかりだから!」


 僕に伸ばされた手は…なんだ、妻の手じゃないか。


「うん、知ってる。まだまだ増えるからね!」

「やった!あのね、ワンワン、描いて!あとね、私も!とっておきのドレスがね……!」


 僕は、干からびた体を、残して。


 はしゃぐ妻とともに、世界を……、渡った。

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