声
幼い頃、私はとても、おしゃべりだった。
―――これはなあに?
―――みて、すごくかわいい!
―――おかあさん、だいすき!
幼稚園に入った頃は、まだ、おしゃべりだったような、気がする。
―――まおちゃん、あそぼ!
―――せんせい、ぎゅうにゅうこぼした―!
―――なぞなぞ、しよー!
幼稚園を、卒園する頃には、もう。
―――……。
―――…うん。
私は、言葉が、出なくなっていた。
何がきっかけなのかは、よく、わからない。
気が付いた時には、もう、私は。
誰かとお話をすることが、できなくなっていたのだ。
言葉を、口に出そうとすると、のどの奥が、ぎゅっと…締め付けられる。
言葉を、口に出したいと、願えば願うほど、声が、出ない。
言いたい事、伝えたい事、伝えなければいけないこと……、気持ちが溢れれば溢れるほどに、何も言えなくなってゆく。
ただ、口をパクパクと開けたまま…、地面を見つめる事しか、できない。
同級生たちの、先生たちの、私の言葉を待つ、目が…怖くて、たまらなかった。
頑張って、頑張って…、絞り出すように、ようやく、出た、私の声は、いつだって。
「……はぃ。」
―――何こいつ、しゃべれないの?
―――ヤダー、なんかキモい!
―――はいってなんだよ!こたえになってねーし!
―――こんな子同じ班に入れたくない!
何も話さない私を、同級生たちは拒否した。
―――くみちゃんのこといじめないで!
―――大丈夫だよ、ちゃんとわかってるからね?
―――あんな子、こっちからお断りよ!!
―――くみちゃんの文字、すごくきれいで、おしゃべりだね!
何も話さない私を、同級生たちは守ってくれた。
「何で家では普通にしゃべってるのに、学校で話さないんだ?ふざけるのもいいかげんにしろ!」
「わがままな子だよ!だから私はあんな娘ダメだって言ったんだ!嫁の血だね、出来損ないが!」
学校で話せないことを知った父親と祖母による、激しい問い詰めが始まったのは…中学に上がる頃だった。
「いつかきっと話せるようになるから、大丈夫だよ。……お母さんと、田舎に引っ越そうか。」
「……うん。」
母親とともに、のんびりとした田舎に、引っ越した。
環境が変わって、事態の好転を期待して、いたのだけれど。
「岡野さんはしゃべれません。皆さん気を使ってあげてくださいね!」
「「「「「「はーい。」」」」」」」
担任の言葉に、息を、飲んだ。
「岡野さん、はい、これやってあげたよ!」
「岡野さん、私たちのグループに入れてあげるからね!」
「岡野さん、あの子腹立つでしょう、私注意しておいてあげたからね!」
同級生たちの、気遣いに、ますます声が出せなくなった。
「お母さんね、疲れちゃった……。」
「うん、……お疲れ、様……。」
働く母親は、次第に口数を減らすようになった。
家にいても、言葉を話す機会がなくなっていった。
休み時間に、図書館に通うように、なった。
言葉の飛び交う事の少ない、この場所に…、自分と同じものを、感じたのだ。
本の世界に夢中になれば、世界にあふれている声が気にならなくなった。
本の世界に夢中になっている間は、世界にあふれている声を出せない自分を忘れることができた。
声を出せない私は、部活には所属しなかった。
学校のすぐ近くに図書館があったので、閉館まで毎日通うようになった。
学校のない日は、お弁当を自分で作って出かけた。
家にいると、疲れたお母さんが…、私に気を使ってしまうから。
テスト前には、教科書をもって図書館に通った。
少し騒めきのある、それでいて静寂に包まれた空間は、私にとって絶好の勉強部屋となったのだ。
ある時、私は古い純文学作品を読もうと、奥の方にある、ひっそりとしたコーナーへと足を運んだ。
端の方にある、背の高い棚が並ぶ、一角。
目当ての本は、棚の最上段に、あった。
手を伸ばすが…、届かない。
どこかに踏み台はなかったかな、そう思ってあたりを見渡すけれど、どこにも、ない。
図書館司書の人に、お願いしてみようか。
けれど、私は、声をかける、事が。
……思い切り、背を伸ばせば、指先が届くかもしれない。
私は、つま先立ちになって、指先を、伸ばした。
「……これ?」
一生懸命背伸びをしていて、私の後ろに男性がいることに、気が付かなかった。
背の高い男性が、私に、声をかけて、くれた。
そして、一冊の本を、手渡して、くれたのだけれど。
私が欲しかったのは、その、隣の、隣の本……。
口を、パクパクしながら、……下を、向く。
ああ、私は、やっぱり、声が。
……唇を、噛む。
……せっかく取ってくれたのだから、お礼を言って、受け取らなければ、いけないのに。
「…あ、そっか、えっと……。」
男性が、遠慮がちに私の肩に、触れた。
思わず、顔をあげると……、男性は、小指でちょんちょんと顎に触れた後、私に手の平を上に向けた。
ああ、これは…手話だ。
多分、これでよかったか、聞いている。
私は、耳と唇に人差し指を当てて、スッと、下に、引いた。
そのあと、唇に人差し指を置いてから、頬を、抓って、みる…。
―――私は、聞こえているけれど、声を出すことが、できないんです。
……多分、伝わる、はず?
私は、あまり、手話の知識が、ない。
勉強したいと思いつつ、積極的になれず、今まで、来てしまった。
家では、少しだけ…話すことが、声を出すことが、できたから。
「・・・これでよかった?隣の本かな?」
口を、パクパクしたまま、人差し指を、二回、右へ動かす。
「はい、これでいい?」
「……っ、……。」
本を受け取り、お辞儀をして…ああ、やっぱり、声が、出ない。
「……また、困ったら、言ってね?」
背の高い男性は、右手を上げると…にっこり笑って、観葉植物の向こう側へと、消えた。
それから、男性とは、よく顔を合わせるようになった。
時に、本棚のところで。
時に、大きなベンチのところで。
時に、屋上のスカイフォーラムで。
時に、貸出窓口で。
時に、自転車置き場で。
いつしか、私はこの男性と…、小さな紙片のやり取りを、するようになった。
私は、いつでも筆談ができるように、小さなメモ帳を持ち歩いていたのだ。
―――純文学が好きなの?
―――はい、情景の美しい描写が、とても好きです。
―――名前、聞いてもいい?
―――教えてくれるなら、良いですよ!
―――僕高校生なんだ、くみちゃんはどの高校を受験するの?
―――K高校に行きたいけど、私は声が、出せないから。
友達と遊ぶこともなく、本を読みながら勉強ばかりしていた私は…進学を希望していたのだけれど。
どれだけ、いい成績を残したところで…面接では、一言も、しゃべれない。
―――僕の通ってる学校だよ!一度先生に聞いてみるから、諦めないで。
―――ありがとう、でも私は、通信制の学校に行こうかなって思っているの。
「僕はくみちゃんと一緒に、同じ高校に通いたいなあ……。」
筆談をしながら、背の高い男性…瀬尾くんは、たまに声で私に話しかけてくれた。
あまり声をかけてもらえない私は、瀬尾くんの声を聞ける瞬間が…いつしか、とても、好きになっていた。
「……っ、……ん。」
言葉を返したい気持ちと、声が出てこないもどかしさが交差する。
「うん、頑張りすぎなくても大丈夫だよ。…いつか、いっぱい、お話しようね。」
ポンと私の頭に大きな手を乗せる瞬間が、とても…とても、好きに、なっていた。
受験シーズン、私はK高校を受験できることに、なった。
学校推薦をいただけることになったのだ。
瀬尾くんが学校にいろいろと進言してくれたおかげだと思う。
私は無事受験に合格し、四月からK高校に通えることになった。
受験が終わり、図書館に通う日々。
瀬尾くんには、受験番号を知らせてあるから…、恐らく私の合格を、知っているはず。
いちばんに合格を知らせたかったけれど、なかなか顔を合わせることがないまま、三月になってしまった。
桜の開花が発表された、三月末日。
しばらく顔を合わせていなかった瀬尾くんが、スカイフォーラムに現れた。
瀬尾くんに会ったら、絶対にお礼を言うんだと、決めていた。
家で、何度もありがとうを言う練習をした。
一人で、何度も、伝えたいことを口に出してリハーサルを重ねた、はずなのに。
「……っ、……ぅ。」
ありがとうと、伝えたいのに。
感謝の気持ちを、伝えなければいけないのに。
私の口は、パクパクするばかりで、声に、ならない。
気持ちが溢れて、声が追い付かない。
気持ちがはち切れて、声になれない。
気持ちがあちらこちらに漏れ出して、言葉として出てこない。
出てくるのは。
もどかしさにまみれた、私の悲しみ。
くやしさが染み込んだ、私の涙。
ぼろぼろと涙をこぼす、みっともない私の顔を見た瀬尾くんは、少し悲しそうな顔をした後、いつものように、にっこりと、笑った。
大きな背を丸めて、私をのぞき込み…ああ、目が、合った。
瀬尾くんは、涙でぐちゃぐちゃになっている頬を指で拭うと、そっと、私に…キスをした。
「……合格おめでとう。しばらく会えなくて…ごめん、気持ちが、暴走してしまったみたいだ。……怒ってる?」
驚きのあまり、涙が止まって、顔が、熱くなって、伝えたい事と、恥ずかしい気持ちと、うれしさと、ぜんぶが、ごちゃごちゃになって。
……思わず、胸に、飛び込んで、しまった。
ああ、私、この人が……、とても、好き。
「あのね……、今日は、くみちゃんに、言わなきゃいけない、事があって。……信じられないかも、知れないけれど、このまま、聞いていて。」
ポンポンと、私の頭と優しくなでながら、声をかける、…私の、大好きな、人。
「僕は…、ずいぶん前に、しては、いけないことを、して、しまったんだ。……とても、許される、事じゃ、ない。」
そっと、大きな手が、私の背を、なでる。
「僕は……、人が、とても、好きで。……ずっと、人を、見つめて、来たんだ。長い、長い……間。」
私の背をなでていた手が、ふいに、止まる。
「……見ているだけで、幸せだった。けれど……、人が、愛を囁き合っているのを見て、聞いて、どうしても。」
大きな、暖かい、手の平が。
「僕も、…声が、欲しくなってしまって。」
少し……震えているのは、どうして……?
「本当は、少しだけ、借りるつもりだったんだ。少しだけ借りて、返したんだ。…でも、返しても……君は。」
私を優しく抱きしめる、大切な人の声が震えているのは……、なぜ?
「くみちゃんの、……声を、盗んで、しまった。長い間、苦しませてしまったのは、苦しみが続いてしまうのは……僕の、せい。」
強く抱きしめる、大好きな人の涙が…、私の頬に、落ちる。
「…ずっと、謝りたかった。」
手を伸ばし、愛おしい人の頬を伝う涙を、そっと指で、拭いた。
……指先で触れている、瀬尾くんの頬が、少しづつ薄くなってゆく。
「……ごめん。今まで、本当に、ごめんね?何とかして、君に声を返そうとしたけど、できなかった……。僕は…、神、失格だ……。」
大切な人が、消えてゆく。
「僕が、消えても…、くみちゃんは…、しあ、わせ……に……。」
大切な、人が、消えてゆくのを。
「なっ……て、……。」
―――……また、困ったら、言ってね?
―――あはは、こんな所で…奇遇だね?
―――なんか、顔色悪くない?心配だよ…。
―――僕はくみちゃんと一緒に、同じ高校に通いたいなあ……。
―――頑張らなくても、僕は良いと思うよ。
―――はい、これ、おにぎりのお礼!…半分こ、しようね?
―――僕は、くみちゃんの事、大好きだよ!
……瀬尾くんがいなくなるなんて、いやだ!!!!!!!
「…ぃや、き、きえないで!!!!!!!!!!!」
「私と、ずっと!!!一緒に、いて!!!お願い!!!!!!!」
ああ…、私、こんな、大きな、声、出せるんだ。
私の、叫び声が。
天井のない、広い空間に、響き渡る。
……ビリビリと、私の頬がしびれているのは…なぜ?
……ぎゅっと、私の体が、抱きしめられているのは…なぜ?
……消えていったはずの、大好きな人が。
「うん、ずっと……、一緒に、いる!!!」
私の、目の前に、いるのは……、奇跡?
「……あー、コホン。君たちね、ここは……、一応、図書館なので、ね?」
顔なじみの、図書館司書のおじさんが、真っ赤な顔をして、私たちの近くにやってきた日の事を、思い出す。
入学式の日に、大好きな人に花をつけてもらった日の事を、思い出す。
背の高い彼氏に誘われて演劇部に入った日の事を、思い出す。
文化祭で、舞台の上でキスを披露してしまった日の事を、思い出す。
ドラマ撮影でラブシーンがあることを知った彼氏に怒られた日の事を、思い出す。
結婚式で二人で泣いてしまってスピーチができなくなってしまった日の事を、思い出す。
主人が娘の結婚式で泣いてしまってスピーチができなかった日の事を、思い出す。
孫を抱いた主人がぎっくり腰になってしまって叫んだ日の事を、思い出す。
……主人が昔、神様だったことを、思い出す。
「……必ず、迎えに来るよ。無理をしないで……、ゆっくり、待っててね。」
「うん……、わかった。」
私の、大切な人は、ごく普通の、人間になってしまったから。
人間としての、寿命を全うして、空に帰ってしまった。
……一人ぼっちで、色々と、思い出す。
初めて、自分の言いたいことを言えた日の事。
初めて、大好きな人とケンカをした日の事。
初めて、歌を歌った日の事。
初めて、舞台に立った日の事。
初めて、映画に出た日の事。
初めて、表彰された日の事。
初めて、声を荒げて常識のない人たちを追い払った日の事。
久しぶりに、一人で、眠るようになった日の、事。
「……おじいちゃんはねえ、本当に、背が高くてねえ。いつも、高い所の本を取ってくれたり、したんだよ?試写会に来てもねえ、一人だけ、頭が、とび出ていてねえ……。」
「ふふ!そうなんだ……ふぁ~……。」
「もう、おねむの時間だね。……また明日、聞きにおいで。……おやすみ。」
じゃあね、またあした、おはなし、きかせてね!おやすみ、おばあちゃん!」
ひ孫を見送り、私は…ベッドの上で、目を閉じる。
もう、ずいぶん……思い出せない記憶が、増えた。
確か、私は……、とても、好きな人がいて。
大切な人に、約束を、してもらった、はず……。
何を、約束、したんだったかなあ……。
「くみちゃん。……お待たせ。」
「瀬尾くん!……大丈夫、待ってるのも、楽しかったよ!」
ああ、この、背の高い…、私が、大好きな、笑顔。
私は、重たい体を……、ふわりと、振り解いて。
……大好きな人に、飛びついた。




