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恋をしてみないかい  作者: たかさば


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17/21

パンチングバッグ

 ……今日も、いじめられた。

 同じクラスのガキ大将、修平にだ。


 あいつ、ボクシング、習い始めたんだってさ。

 あいつ、動く標的が欲しくてたまらないんだってさ。

 あいつ、俺の事ターゲットに決めたんだってさ。


 四月、俺は引っ越して早々に、桜の木の下で…初めてガキ大将にパンチをくらった。

 顔を思いっきり殴られたため青あざになってしまい、大問題になった。


 ―――ごめんなさい!僕のパンチが、飛び出して来たこうたろう君の頬にあたってしまいました!もうしません、許してください!

 ―――このバカ息子がああああ!!!

 ―――土下座までしてるんだ、許してやりなさい。

 ―――誰にでもミスはあるの、許せる心の広さを持ちなさい。


 ガキ大将は、親にめちゃめちゃ怒られたようだった。

 ガキ大将は、そのストレスを解消するために、また俺を殴るようになってしまった。


 外から見えないところに、パンチを食らわせるようになったのだ。


 ―――お前さあ、俺に土下座までさせてさあ。逃げられると思うなよ?

 ―――お前みたいなやつに頭下げた俺にさあ、悪いと思わねえの?

 ―――お前、誰にも言うなよ?黙っとけよ?言ったらマジ殺すかんな。


 逃げ出せずに、我慢する毎日が続いた。


 夏休みに入り、ガキ大将と毎日顔を合わせなくてもよくなった俺は、宿題をやりながらこれからの事を考えた。


 今、六年生、四月からは中学校に入学する。

 中学校に入れば、部活も始まるしクラスもわかれるだろう。


 ……だけど。


 クラスが違ったところで、俺とガキ大将の家は歩いて五分。

 通学途中で捕まって、殴られる。

 部活に入ったところで、俺とガキ大将の家は歩いて五分。

 帰宅途中で待ち伏せされて、殴られる。


 ガキ大将と、三年間離れることができない。

 ガキ大将に、三年間殴られ続けるなんていやだ。

 ガキ大将が、三年間好き放題されないようにしたい。


 ただ、殴られっぱなしで終わるのか。

 それとも、やり返して黙らせるのか。


 一生懸命、考えた。


 ……俺もボクシングを習えばいいのでは?


「母さん、俺ボクシングやりたい。」

「そんな金ないよ!!ただでさえ塾代がかかるのに!塾辞めるならいいけど!」


 ボクシングジムに通うには、月に一万かかるんだってさ。


 塾通いをやめて通う事もできるけど、それでは成績が落ちてしまう。

 ガキ大将は勉強が苦手なタイプだ、差をつけておかないと同じ高校に通う羽目になる。


 ……ダメだ、塾は通っておきたい。


 中学の三年間を乗り越えさえすれば、違う高校に通う事ができる。

 ガキ大将はおそらく、進学校へは行かない、行けないはずだ。

 だとすれば、ここから自転車で1時間の場所にある高校に行くはずだ。

 俺は歩いて10分の場所にある、進学校へなんとしても入学したい。

 通学と帰宅の時間がかぶることはなくなり、顔を合わせることも減るはずだ。


 ……ボクシングが習えないなら、どうすればいい?


 ガキ大将は、成長の遅い俺よりもかなりでかい。

 俺が140センチしかないのに、あいつは162センチもある。

 体重だって、俺は35キロしかないのに、あいつは60キロもある。


 ……完全に負けている。


 逃げ出すためには、逃げ出すための体力が必要だ。

 殴られてよろけない、頑丈な体が必要だ。

 パンチを受け止めてもなんて事の無い、大きな体が必要だ。


「父さん、俺でっかくなりたいんだけど、どうしたらいい?」

「地道に体を鍛えていっぱい食べることだな!」


 筋トレをして、筋肉を育てるしかない。

 好き嫌いせずたくさん食べて、体を成長させるしかない。


 朝イチでウォーキング、筋トレをこなし、腹一杯食べてから学校に行くようになった。


 土日は遠くの山まで行って、トレッキングに励むようになった。

 行き帰りの道で、シャドーボクシングのようなものをするようになった。


 だが、いつまでたっても俺はチビのままだった。


 背は二ミリしか伸びず、体重もほとんど変わらなかった。

 多少ボディーブローを喰らうのがうまくなっただけで、ガキ大将に反撃することもできなかった。



 中学校に入学した。

 ガキ大将に対抗するために、俺は柔道部に入部した。


「なに、俺と戦うつもりなの?ウケる!」

「よっわ!柔道部のお荷物くん!」

「一回戦負けおつ、団体戦の確定黒星おつ!」


 ことあるごとにバカにされ、俺は唇を噛んだ。


 いくら受け身がうまくなっても、右フックは腹に食い込んだ。

 いくら打ち込みに精を出しても、左ストレートは身をよろけさせた。

 いくら乱取りを重ねようとも、左右のアッパーは尻を土まみれにした。


 結局、パンチにはパンチでしか太刀打ちできないのだ。


 俺は、パンチを会得したいと願うようになった。

 正月、お年玉をもらった俺は、パンチングマシンを買うことを決めた。

 近所の寂れたスポーツ店に行き、くたびれたおっさんに声をかけた。


「兄ちゃん初心者だろう。いきなりパンチングマシンなんざ手首を壊すから、まずはこれから始めなさい。」


 手渡されたのは、箱入りの、…パンチングバック?

 空気を入れて膨らませ、底の部分に水を入れて…叩くと起き上がりこぼし的に跳ね返るモノらしい。


「売れ残りだから安くしとくよ。」

「買います。」


 喜んで家に帰り、水を入れて空気を入れた。

 俺の身長と変わらぬ高さの、赤いビニール製のパンチングバッグが、部屋のど真ん中に立っている。


 憎きあいつの顔を思い浮かべ、思いっきりパンチを食らわせてやった!


 ぶぼへっ!


 4リットルの水の入っているパンチングバッグは、いとも簡単にぶっ飛び…


「なんちゅう無礼なやつじゃ!あほんだらがあアアアア!いきなり全力で殴るやつがおるかい!割れちまうがな!!!」


 俺の学習机の前でゆらゆら揺れる丸くて赤いてっぺんに……少女の姿!?よく見ると…頭にたんこぶが!


「な、なんだお前!」

「いてて……わしは、わしは、パンチングバッグの神じゃ!よくも神を蔑ろにしてくれたな!!こうしてくれよう!!!」


 ぽか!!!ぽかぽかぽかぽか!!!


 俺の肩の上にぴょんと乗り移り、ほっぺたのあたりをぽかぽかやっている!!

 全然痛くないけど相当うっとおしいぞ!!!


「ご、ごめん!!シップ貼ってやるから!!ちょ、落ち着けって!!」


 肩の上で暴れるちびっ子を机の上に下ろし、引き出しを開けた。

 殴られ慣れている俺の学習机の中には、シップが常備してあるんだ。

 ……小さくカットして、頭のてっぺんのもちみたいに膨らんだこぶにのせてやる……。


「ひゃわああああ!!つべたい!!なんぞこれ?!」

「シップだよ。もうちょっとしたら痛みも引いてくるから。…悪かったな。」


 知らぬこととはいえ、何の理由もない人…いや、神か、とにかく殴ってしまったことに申し訳なさを感じる。

 ……これじゃ、俺は、ガキ大将と変わらないじゃないか。


 思わず、殴りつけてしまった右手を握り、じっと見つめながら…唇を、噛む。


「なんや、おぬしパンチングバッグは初めてか!!ええわ、わしが使い方を教えてやるで!!」


 机の上で、腕組みをしながら俺を睨み付けるちびっ子が!!

 目力強いなあ、眉毛も凛々しいし、ちょっと怖い……。

 めちゃめちゃ偉そうだ、でもなんというか、すごく嘘くさいぞ……。


「教えるも何も…こんなの、たたくだけなんじゃ。」

「たわけ!!!殴打の何たるかを知らぬ若造が何を偉そうに!!ほんじゃまずわしが見といてやるで一発打ってみい!!!」 


 ぴょこんと俺の肩に飛び乗り、檄を飛ばすチビッ子。

 ……嗅ぎ慣れたシップの匂いがふわりと鼻に届いた。


 俺は、いつも。

 この、シップの匂いを。

 ガキ大将の、せいで。


 憎しみを込めて、パンチを思いっきり、目の前の空気で膨れているビニールに叩きつける!!


 ぶべほっ!!!


「うーん、あかんな、なっとらん!!まんず基本からやってかなかんな。そもそもおぬしは怒りに任せて拳を当てにいっとるでいかんのだわ!!」


 チビッ子は、俺にレクチャーを始めた。


「ええか、拳を繰り出すためには、拳を送り出すための準備が必要なのじゃ!!」


 半信半疑で、パンチを始めた。


「おぬしの肩は、拳をつき出せる環境がない!まずは拳を前に出せる姿勢と肩の関節、腕の筋肉をほぐす事から始めよまい。」


 毎日姿勢を正して、パンチを100回。


「あせらんでええ!!できることを確実に増やしていくのじゃ!!」


 毎日確実に的を狙って、パンチを100回。


「下を向くな!拳が前に出んくなるでな!!壁の公式を見ながら突くのじゃ!」


 毎日まっすぐ前を向いて、パンチを100回。


「最強の一発を出そうとするな!確実に当てる一発を追え!!…終わったら化学式覚えるでな!!」


 毎日無心に、パンチを100回。


「憎む心、嫌う心、叩きのめしたいと思う心は、拳を鈍くする…己の信念だけを拳にのせて、送り出すのじゃ!!おい、受験票はちゃんとかばんに入れたか?!」


 毎日毎日、強くなると誓いながら、パンチを100回。


「ずいぶん体ができて来たのう……立派になって、ほれぼれするわい。」


 毎日真面目にパンチを繰り出していた俺は、パンチングバッグを見下ろすほどに背が伸びていた。

 体重も増え、今ではガキ大将を見下ろすようになった。

 ……もう、俺をイジメようとするやつは…どこにもいない。


 むしろ、俺に戦いを挑んでは、畳の上に沈み込むやつが何人も、いる。

 いつしか、俺の周りには屈強な柔道有段者が溢れるようになったのだ。

 進学校一の、キン肉マンと恐れられるようになったのだ。

 大学内で一二を争う、ゴリマッチョとして目立つようになっていたのだ。


「…98,99,100っと。君のおかげだよ、俺の武器である奥襟を取る速さは、まさしくこのパンチの成果だね。」


 ずいぶん低くなった声で、チビッ子にお礼を言う。


 チビッ子がいたから、俺はここまで大きくなれた。


 ガキ大将に怯えて背を丸くしていた俺が、胸を張れるようになった。

 ガキ大将の視線を避けるように地面ばかり見ていた俺が、顔を上げることができるようになった。

 ガキ大将の怒鳴り声に耳を塞ぎ唇を噛んでいた俺が、口を開いて己の言葉を吐けるようになった。


「そ、そうかえ?すべてはお主の努力の賜物じゃ……。」

「いやいや…君がいたから、僕は変われたんだ、それは間違いないよ。」


 周りを見る事ができるくらい心が楽になった。

 言いたいことが言えるくらい心に余裕ができた。


 怒りを恨みに変えることなく、消化することができるようになったのは、紛れもなく、このチビッ子の。


「はは……、そうかえ。それは、重畳……。」


 ……このところ、やけにテンションの低い、チビッ子。

 いつも大口を開けて笑っていたのに、…への字口になっている。

 チャーミングな口元のほくろが…ずいぶん、悲しげだ……。


「……ちいと、思い切り、こいつを殴ってみては、もらえんか。」

「…なんで。そんなことしたら壊れちゃうじゃないか。大切なパンチングバッグなんだから、……出来ないよ。」


 三年間毎日俺のパンチを受け続けてきたパンチングバッグは…ずいぶん、ヘタレてしまったのだ。


 空気を入れてもどんどんしぼんでゆく。

 あちらこちらに、ビニールテープで補修した跡がある。

 何度水漏れを起こして畳を濡らした事か。


「……もう、ひと思いにやってもらえはせんか。おぬしに、無様な姿を見せるのは…つらいのじゃ……。」

「このパンチングバッグの満身創痍は…俺のこの体を作った証じゃないか。堂々と誇ればいいんだよ。」


 泣きながら100回。

 唇を噛みながら100回。

 拳をきつく握りしめながら100回。


「今だって、そっと撫でるように使って…使えているだろ?まだまだ現役さ。」


 励まされながら100回。

 慰められながら100回。

 認められながら100回。

 誉められながら100回。


「これは……使えているとは、言わんのじゃて。」


 100回の寸止め殴打を浴びて、その身を凹ませてしまったパンチングバッグを…そっと部屋の隅に寄せる。

 荒っぽく移動すると空気入れの部分が外れてしまうので…丁寧に、丁寧に。

 明日、またパンチをやる前に…やさしく空気を入れなければならない。


 いつだって、100回のパンチが終わった後は、チビッ子と談笑をしてきた。


 たわいもない話で悲しみを吹き飛ばし。

 驚くような話で憎しみを吹き飛ばし。

 突っ込まざるを得ないような話で怒りを吹き飛ばし。


「もう、おぬしは初心者卒業じゃ。わしももう、神様…卒業なのじゃて。」


 いつしか、チビッ子の笑顔を見るために言葉を選ぶようになり。

 いつしか、チビッ子の喜ぶ何かをプレゼントするようになり。

 いつしか、チビッ子と過ごす時間がかけがえのないものとなり。


「……なんで。神様卒業して、ここにずっといれば、いいじゃん。…いてくれよ。」


 俺は、ずっと、チビッ子と、このまま。


 小さな出来事で、一緒に笑って。

 大きな出来事で、一緒に喜んで。


 なんてことない出来事で、一緒に悩んで。

 なんてことない出来事で、一緒に泣いて。


 なんてことない毎日を、一緒に、ずっと。


 今度の全国大会は、強豪ぞろいで。

 俺は、チビッ子の応援がなければ、到底全力を、出しきることが。

 来月は、教員採用試験もあって。

 俺は、チビッ子の励ましがなければ、到底、全力を、出しきることが。

 来年からは、一人暮らしをするのが決まっていて。

 俺は、チビッ子がいなければ、到底、寂しさを、乗り越えることが。


「……最後に、抱きしめては、もらえんか。」


 パンチングバッグの上でゆらゆらと揺れているちびっ子が……透けている。


 その、目元には、涙が。

 ……駄々をこねる、時じゃ、ない。


「……今まで、ありがとう。俺、お前の事、すごく、すごく…好きだった。」


 俺は、パンチングバッグを、そっと抱きしめた。

 かつて、俺と同じ高さだった、ガムテープだらけの赤いビニールは…今、ちょうど俺の胸のあたりに、てっぺんが来ている。

 俺は、消えゆくチビッ子の頭に、そっと…キスを落とした。


 ぷ、ぷしゅぅ……。


 パンチングバッグから、空気の抜ける、音がする。


 へこみ行くパンチングバックのてっぺんで、チビッ子が…真っ赤な顔をして俺を見上げている。


「…わた……もし…また……。」

「え?何?聞こえないよ。」


 ぷ、ぷしゅ、プッシュぅウウウウぅ……。


 パンチングバッグから、勢いよく空気の抜ける、音がする。


 ―――今度は、……恋を……。


 唇に、ほのかな温かさを感じた時には、もう。


「……うわ!!た、タオル、タオル……!!!」


 足元が、バンチングバッグからあふれ出した水で……びしょびしょになっていた。




 俺は工業高校の体育教師となり……柔道部の顧問をするようになった。


 若さの漲る男子高校生をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……、日々格闘を繰り広げている。


 今では、180センチ越え、100キロ越えの巨漢を相手ににらみを効かせる、雷教師として君臨していたりするのだ。

 かつて俺が怯えていたガキ大将なんか…おしめの取れてない赤ん坊だったんじゃないかってね。


「先生!今日搬入でしたっけ!」

「手伝うっす!」

「うっす!」


 俺の指導にしっかりついてきてくれる部員は、皆順調に力をつけてきている。

 今年の夏は全国大会に出て、優勝こそ逃がしたものの団体戦で三位に食い込むことができた。


 だが、もう少し、もう少しで、優勝は手にすることができたと、俺は思った。


「いや、パンチングバッグが六つだし、お前らは外周三周してこい!」

「「「「うっす!」」」」


 巨漢選手の多い我が部には、少々俊敏性が足りないという事で…俺は部費を使って、秘策に出ることにしたのだ。

 かつて俺が、毎日100回パンチを繰り出し、この鋼の体を手に入れたように。

 きっと俺の生徒たちも、何かを得てくれるはずであるってね。


「スミマセーン、納品に来た、蒲池スポーツですが―!!よう、たろちゃん、久しぶり!」

「ああ、お待ちしておりました!!もう、たろちゃんはやめてよ!」


 パンチングバッグを頼んだのは、俺のなじみのスポーツ店だ。

 ……あの、特売のパンチングバッグを売ってくれた、おやじさんのお店でさ。

 もう…15年の付き合いに、なるか。時のたつのは、早いもんだ。


「悪いねえ、俺敬老会のグラウンドゴルフ設置に行かないといけなくてさ、ふくらますのは…娘が手伝うんで!おうい!!ほのかぁ!!」

「はーい!!」


 野球焼けしたオヤジさんの顔が、ニヤニヤしている。…なんかよからぬことを企んでやしないか。

 少々疑いの目を向けつつ…あいさつ、を。


「…どうも、初め、まして?」


 軽自動車から降りて、駆け寄ってくる女性に声をかける。親父さんに娘さんがいたなんて…初めて知ったぞ。

 腹の出たおっさんに、グイと手を引っ張られて、俺の前に躍り出た…年頃の、女性。


「こいつさあ、たろちゃんが選手権出た時からずーっとファンだったの!!仲良くしてやって!!じゃあね!もう行くわ!!」


 ……親父さんに似ず、はっきりした目鼻立ちの、やけに凛々しい眉毛の…口元のほくろが、かわい、ら、しい……。


「なんや、ずいぶんでっかく育ち切ったのう……立派になって、ほれぼれするわい!!」

「は、はい?!ちょ、お、おまっ、はは、はい?!」



 納品されたパンチングバッグに空気を入れつつ、話を聞くと。


 チビッ子は、神としての使命を全うして、無事神様を退職したんだってさ。

 退職祝いに、人間にしてもらったんだってさ。

 粋な計らいがあって、俺の近くに生まれることができたんだってさ。

 神の世界には時間がないから、微妙におかしなことになっちゃったんだってさ。

 最近一気に、生まれる前の事を思い出したんだってさ。


 なんだそれって突っ込もうにもさ、俺なんかがツッコんだらぽきっといっちゃいそうでさ、何も言えなかったんだよ。


 色々追及してる時間がもったいないくらい、話したいことがたくさんあったんだよ。


 生徒たちにからかわれて、いちいち蹴散らしてるのが面倒になっちゃったんだよ。


 思いっきり生徒どもの真ん前で、自慢の彼女をお姫様抱っこして見せびらかしたんだよ。


 結婚式会場にゴリマッチョが溢れて、床がたわんだって伝説になっちゃったんだよ。


 いつでもどこでも、ごつい俺の横には小っちゃくて華奢な嫁がいるようになったんだよ。


 どこに行っても、俺は嫁に頭が上がらなくて、でかい体を小さく丸めては、叱られていたんだよ。


「何や…下ばっかむいとらんと、わしに顔を、よく見せておくれ?」

「……うん。」


 小さくて、華奢な嫁は、さらに小さくなってしまった。

 俺は、とても、その姿を…直視することが。


「必ず…迎えに来るでな。ちゃんと前を向いて、背を伸ばすんじゃぞ……。」


 嫁を送って、一年、二年。


 俺は毎日、弟子たちに指導をしている。


 嫁を送って、三年、四年。


 俺は毎日、弟子たちの鍛錬を見守っている。


 嫁を送って、もう何年たっただろうか。


 俺は最近、弟子たちを見ることがなくなってしまった。


 俺のもとを訪ねる、懐かしい…かつての教え子たち。

 申し訳ないけれども…名前が、人物像が、思い出せない。


 120キロあった体重も…もう、60キロまで、落ちてしまった。

 ……もう、ダンベルの1つも、持つことができない。


「あれは…パンチングバッグじゃ、ないか。」


 俺は、よろめくようになってしまった体で、リハビリコーナーに並んでいるパンチングバッグの前に行こうと。


「あ、内村さん、パンチングやります?昨日ね、入ってきたんですよ。」

「…おお、やるわ。」


 ヘルパーさんに腰を支えられながら、パンチを、繰り出す。


 ……べほん!!


「ああ、上手ですねえ、姿勢がいいからばっちりヒットするんですね!あ、椅子持ってきましょうね、すわりながらやると安定するんで……。」


 ヘルパーさんが移動した隙に、思いっきり、力を込めて、パンチを前に。


 ……べばほんっ!!


「怒りを込めて拳を突き出してはいかんと、あれほど!!!」

「……怒ってないよ。残された、力を…試したいと。」


 チビッ子が、パンチングバッグの上で、揺れている。


「この体には、もう、力が残っていないみたいやで?」

「……そうか。残念だな……。」


 嫁が、気力を使い果たした、俺の体を……支えようと。


「……ね、お姫様抱っこ、してよ!」


 嫁の体をすり抜け、俺の体が…パンチングバッグに抱きつくように倒れていく。


「いいぞ! 」


 強張っていた体を脱ぎ捨てた俺は、愛する嫁のおねだりに…にっこりと微笑んで。


「ほーら、お姫様抱っこだー!!!はは、ハハハ……!!!」

「ふふ!いい景色―!!ね、あっち、一緒に…行こ!!」


 嫁を胸に抱えたまま、グルングルンと回りながら……空へと、上って行った。


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[良い点] 17/17 ・まずいですな。主人公、手持ちの画像の女の子でイメージしていました。 [気になる点] 彼女もマッチョ? [一言] まあ、まあまあ、とりあえず、発想に拍手
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