押し入れ
小さい頃の私は好奇心旺盛な子供で、いつもいつもお母さんにおこられていた。
見るもの触るもの、全てが不思議で、確かめたくてたまらなかったのだ。
クレヨンで色が書けるのも不思議だったし、はさみで紙が切れるのも不思議だった。
歌を歌うと楽しくなるのも不思議で、踊るとやめられなくなるのも不思議だった。
あれは、たしか……生まれたばかりの弟の顔にいっぱいできていたニキビに、絆創膏をたくさん貼って怒られた日。
「もう!!すぐイタズラばっかりして!!!ここに入ってなさい!!!」
「あ、アーン!!ごめんなさぃい!出して、出してええええええ!!!」
お母さんはお仕置きする時いつも、私を、押し入れに閉じ込めた。
真っ暗な中で、私は一人ぼっちで、泣いていた。
いつの間にか、泣き疲れて、眠るのが常だった。
目を閉じていたら怖さも減る、そう信じて目を閉じているうちに眠ってしまうのだ。
「うう……コワいよぅ。」
一階に行ってしまったお母さんは、しばらく来ない。
いつだって、押し入れから出してもらえるのは、晩御飯前だった。
私は、いつもの様に、目を、閉じたのだが。
「……こわい?」
「えっ!!だれ?!やだ!!」
突然、声が聞こえて、心臓が破裂しそうになった。
「ごめんね、こわくないよ、僕、……押し入れ。」
「お、おしいれ?!」
真っ暗な押し入れの中で、閉じた目を開いたけれど、真っ暗なままだった。
「いつも君、僕の中に入って怖いっていうから、気になってたんだ。」
「だって、まっくらで、こわいの。」
目を開けても真っ暗で、ものすごく、怖くてたまらなかった。
「暗いと、怖いの?」
「みえていたものがみえなくなるから、とても、こわいの。」
ぷくぷくしたピンク色の弟のほっぺも、お気に入りのオレンジ色のクレヨンの色も、いつも着ている水色のスカートも、毎日一緒に寝ているくまちゃんの茶色も、全部見えなくなる押入れが怖かった。
「でも、君は目を閉じて、眠るでしょう?それと同じじゃない?」
「ねるときはいいの、ねないときにみえないのがこわいの!」
夜寝るときは、目を閉じたら何も見えなくなるけれど。
……そのあと、色鮮やかな夢を見るから、平気だった。
幸せな夢を見るために閉じる目と、開いたまま味わわなければいけない暗闇では、まるで怖さが違っていたのだ。
押し入れの中は、夢を見るための暗闇ではなくて、大好きなものを見えなくする、怖い場所だったのだ。
「君は、見えないことが怖いんだね。……僕はね、見ることが怖くてたまらないんだ。」
「みるのが、こわいの?」
「僕は、ここにいるから、暗闇しか、知らないんだ。暗闇しか知らないから、この外の世界が、怖い。うん、……とても怖いんだ。」
「そとは、あかるくて、いろんなものがみえるのに、こわいの?」
「何かを、……見たことがないから、見ることが怖いんだよ。」
「じゃあ、あたしがみせてあげる!」
「ここは、暗闇だから、見ることができないよね。だから、……教えてくれないかな?」
「いいよ!おしえてあげる!!!」
私は、押し入れの中で出会った誰かに、いろいろと教えてあげることにした。
「ひまわりのはなはね、きいろくって、おおきくって、かっこいいんだよ!」
「黄色って、どんな色?」
「え?!きいろは、きいろいいろで……ええと、すごくげんきな、あかるいたのしいいろだよ!」
「チューリップはね、あか、しろ、きいろでさくの、かわいいおはなだよ!」
「赤、白って、どんな色?」
「えっとー!あかは、もえるようにげんきないろで、しろは、すごくおとなしいびじんないろだよ!」
……色って、暗闇の中だと、わからないじゃない?
色という概念がない人に向かって説明するのは、ホントに難しかった。
トン、トン、トン、トン……。
「あ、お迎えが来たみたいだよ。また、お話してくれる?」
「うん!いいよ!!!」
がたっ!!シュッ……!
「あれ、起きてる……反省した?!」
「したー、ごめんなさい!」
私と、押し入れの中の誰か、……自称押し入れ君とお付き合いが始まったのは、その時からだ。
保育園に入るまでに、何回か押し入れに入れられて、そのたびにいろいろお話をした。
保育園に入ってからは、自分から押し入れに入って、いろいろお話するようになった。
押し入れ君は、押し入れの神様なんだって、教えてくれた。
押し入れの中を守り続けるのが、お仕事なんだって、教えてくれた。
小学校に入っても、押し入れに入っていたのだけれど。
その頃から、お母さんがだんだんと……怖くなってきてしまった。
「……ねえ、まだ、外の世界が、怖い?あたしは、暗闇、怖くなくなったよ?」
たくさん、たくさん、お話をした。
たくさん、たくさん、外の世界の事を教えてあげた。
学校の出来事や興味のあること、いろいろ話した。
一緒にお気に入りの歌を歌ったり、手遊びをした。
毎日手をつないで、しわを合わせて、お互いを確かめ合った。
たまに、弱音を吐いたり、泣かせてもらったりした。
いつの間にか、かけがえのない、大切なお友達になっていた……押し入れ君。
「怖くはないよ。……ただ、勇気が、出ないだけ。」
私は暗闇が怖くなくなって、ずいぶん好きになったけれど、押し入れ君は、光が、外の世界が怖いままだった。
「あのね。あたし、もう、ここに来れなくなっちゃうみたいなんだ。」
「……うん、知ってる。」
私は、引っ越しをすることが、決まってしまったのだ。
この家は、私とお母さんが出ていったら、すぐに壊されてしまう。
「あなたと、……お別れ、したくなかったな。」
なんでも話せた、暗闇の中の、押し入れ君。
泣きながら不安を口にした日々が思い出されて、悲しみが、あふれ出した。
「……ねえ、僕が、もし、ここから出ることができたら。」
ふわり、ふわりと、私の頭を、優しくなでる、押し入れ君の、手。
「君は、僕の手を、取ってくれるだろうか……。」
「あたりまえでしょ!」
もしかしたら、この押し入れの中から飛び出して、私と一緒に、引っ越ししてくれるのかもしれない、そんなことを、思ったのだが。
「……じゃあ、勇気を出すから。……手を。」
私の頭を撫でていた手の感覚が、無くなった。
私は、暗闇の中、手を伸ばして……自分ではない手の平を、捕まえた。
その手を、にぎりしめたまま、押し入れのふすまを、開ける。
ちょうど、日の沈む時間帯。
真っ赤な夕日の光が、勢い良く、私の目に飛び込んできた。
押し入れの中にいた私の目に、燃えるような赤色が、容赦なく、突き刺さる。
目が眩んで、しばらく目の前が見えなくなった。
私は、つないだ手の持ち主を、見ようと……、ふり返った。
赤い夕陽に照らされる、同じ年頃の……男の子?
……強気に光り輝いている夕日の眩しさが抜けず、はっきりと、見えなかった。
「ああ、暖かい。……これは、オレンジ色なのかな?」
眩んだ目が、見えるようになってきた。
「これは……夕焼けの、茜色…だよ。」
男の子の目は、閉じている。
「……そっか。いろいろと教えてもらったけれど、僕にはまだ、知らない色があるみたいだ。」
にっこり笑う、その目は、閉じた、まま。
「私、まだまだ、あなたに教えたいことがあるの。ねえ、一緒に、行かない?一緒に、行こうよ!」
……少し悲しそうな、男の子の両手をにぎりしめて、お願いをしたけれど。
「僕は、押し入れだから、……行けない。ごめんね。」
パタっ……パタ、ぱたっ……。
男の子の手に、私の涙が、落ちた。
「けど、もし、君が大人になって、許してくれるのであれば。」
涙の落ちた部分から、男の子が、薄く、薄くなっていく。
「僕は、君に、恋を教えてもらいたいと、思う。」
真っ赤な夕日が、男の子の体を透過する。
もう、間もなく、大切なお友達が、消えてしまう事を、悟った。
「それは、出来ないよ。だって、私、恋を知らないもの。」
透き通った手が、私の頬を伝う涙を拭った。
―――じゃあ、一緒に、恋、を……。
囁くような声は、夕日の赤に飲み込まれて、スウと消えてしまった。
……私が、連れ出さなければ消えなかったのかもしれない。
……私が、ふすまを開けなければ消えなかったのかもしれない。
……私が、出来ないよって言ったから、消えてしまったのかもしれない。
思い切り泣いて、泣いて、……泣いて。
夕日の赤が、すっかり暗闇に飲み込まれたころに、私は顔を上げた。
部屋の中は真っ暗で、まるで幼い頃に閉じ込められた押し入れの中のようだった。
けれど、いつまでたっても、……優しい声は、聞こえてこなかった。
誰一人知り合いのいないところに引っ越した私は、中学生になった。
引っ越し先は小さなアパートで、押し入れがなかった。
物もほとんどなかったし、自分の居場所も、小さなちゃぶ台の前しかなかった。
余裕のない生活は、私を無口にさせた。
怒りっぽくなってしまった母親を刺激しないよう、教科書ばかり見つめる日々が続いた。
ひたすら教科書を見つめ続けた私は高校生になり、アルバイトをしながらお金を貯めた。
物のない生活になれていたから、欲しいものはほとんどなくて、学校と図書館を往復する日々が続いた。
進路を決める時がやってきて、就職をするか進学をするか、迷った。
母親は私を働かせるつもりだったらしいが、学校の先生が進学を強く勧めてくれた結果、私は大学に入学することになった。
進学するなら面倒は見ないと言われたので、大学の寮に入ることになった。
大学生活は、思っていたよりも地味なものだった。
アルバイトをしながら、毎日大学と学生寮を行き来するだけの生活。
仲のいい友達はできたけれど、お金の使い方も、楽しい時間の過ごし方もわからない。
寮生向けのイベントに参加しつつ、あまり楽しめない自分がいた。
確かに笑ってはいるけれど、どこか自分の感情が遠い所にあるような、感覚。
私は、あの押し入れの中に、感情を置いてきてしまったのかもしれないと思った。
夏を過ぎたころ、近隣の大学学園祭があった。
寮の友達に誘われたので一緒に出掛けたのだが、友達はあっさりとナンパされて、私は一人になってしまった。
あまり人ごみは好きではなかったので、帰宅する事を決め、会場内を一人で歩き始めた。
人ごみに流されて進んでいたら、ふと、人混みの山が途切れる場所があった。前方は人が溢れていたので、少し、足を止めた。
あまり人気のない出し物の様だ。
テントの前はひらけており、中には人がまばらで、奥に長机が二つ、椅子が四脚、その横には……盲導犬?
同じTシャツを着た学生さんが長椅子の向こうに一人と、盲導犬の前に一人、あと先生と思われる女性が盲導犬を触る客に声をかけている。
「手相占いだってー!やってこー!」
どうやら、このブースでは、手相占いをやっているらしい。
お客さんが、長机の前に座った。
「いらっしゃいませ、僕は目が見えないので、手を握って占います。右手を、出してもらっていいですか?」
「え、何、手握るの?!うわあ、キモっ!!やっぱいいや、じゃあね!」
「あーん、まってよー!」
この手相占いは、手を握って調べるらしい。
お客さんの逃げてしまった男子学生は、少し残念そうな顔を、している。
……残念そうな、閉じた目を見ていたら、あの日の記憶が、ふと頭に浮かんだ。
「あの。占って、もらえますか。」
……少し、気になったので、占いをしてもらう事にした。
「いらっしゃいませ、僕は目が見えないので、手を握って占うんですけど……大丈夫ですか?」
「ええ、お願いします。」
目を閉じたまま、にっこり笑うその、笑顔は。
……どこか、懐かしくて。
閉じた目に、私の中にある思い出が呼び覚まされているのだと、思った。
両手を差し出すと、優しく、手を重ねられた。
誰かの温かさを、久しぶりに与えてもらって、少しだけ、頬が暖かくなった。
「……運命の相手が、あなたを待っています。寂しかったでしょう?大丈夫、これからは、ずっと……あなたのそばにいたいと……願う人が。」
―――ねえ、ほら、僕の手と君の手は、こんなにもぴったり重なり合うね。
―――ほんとだ、このくぼみのところがちょうど重なるんだ!
押し入れの中で、手を重ね合わせた時を、思い出した。
あの時も、こんな風に、手の平を重ねて、指先を合わせて。
―――ギュって、握っても、良い?
―――いいよ!!!
「ギュって、握っても……良いですか?」
私の返事を、聞かずに。
ギュっ……。
私の手が、大きな手に、握りこまれた。
「……あの。僕、生まれつき、目が見えないんです。一度も、色を、見たことがなくて。突然で、申し訳ないんだけれど、……色を、教えてもらえませんか?」
私の知る、私の手をギュッとにぎりしめる人は、いつだって、最後に、三回、力を、少し、こめて。
……キュっ、……ギュっ、……ギュゥっ!
私は……この、握り方を、知っている!!!!!!
ずっと、ずっと、忘れなかった、忘れたくなかった、大切な、思い出!
この人は、もしかしたら……!!!
「……ひまわりの花は、黄色くて、大きくて、かっこいい!!すごく元気な、明るい楽しい色で……!」
「赤は、燃えるように元気な色で、白は、すごく大人しい美人な色……だよね?」
ぽたり、ぽたりと、涙が、こぼれた。
パタリ、パタリと、涙が、手の甲に落ちる。
「ねえ、消えない?」
「うん、消えない。」
「ねえ、私、恋を教えることはできないけれど!」
「僕と、恋をすることは、……出来そう?」
「できる!!」
押し入れ君と一緒に恋をした。
押し入れ君は、神様をやめて、私と恋をするために人になったんだって、教えてくれた。
神様をやめた押し入れ君は、ただの人になってしまったけれど、ずっとずっと、私のそばにいるからねって、言った。
恋を知り、愛が生まれて、夢が膨らみ、幸せが溢れた。
たくさんの世界を見て、たくさん伝えた。
かけがえのない、大切な人と過ごす時間は、あっという間に過ぎていった。
いつしか、私の見る世界はかすみ始め、伝える言葉さえ、たどたどしいものになってしまった。
それでも、私の愛する人は、いつでも笑って、私の言葉を待っていた。
「迎えに来るから、待っていてね。……僕との、約束。」
「うん。」
一人ぼっちになってしまったけれど、私は寂しくなんかない。
目を閉じれば、暗闇がすぐに私を包んでくれる。
目を閉じれば、押し入れの中で一緒に手を取り合った時代が思い出される。
目を閉じれば、この世界で共に生きた愛しい人の姿が思い出される。
ぼんやりした視界で、ぼんやりしながら毎日を過ごす。
ぼんやりしてはいるけれど、私の心には、いつだって。
……恋をしていた時の、華やかさがある。
……恋をしていた時の、喜びがあふれている。
……ああ、そうか。
私は、きっと、今も恋をしているのだ。
愛しいあの人を思って、切ない気持ちを抱きしめながら、ずっとずっと、待ちわびている。
今日も私は、起き上がることすらせず、開けた目を、また、閉じた。
「……お待たせ。」
懐かしい、声が聞こえた。
……目を、開けようと、したけれど。
とても、とても……疲れて、しまって。
……キュっ、……ギュっ、……ギュゥっ!
ああ、懐かしい、手の、握り方。
私は、もう、握り返す、ことが。
「さあ、一緒に行こう?」
「うん!」
明るい世界に、老いた体を残し。
私は、愛する人とともに、闇の中に……消えた。




