マグカップ
裏通りの怪しげな露店で、マグカップを買った。
いつもパソコン作業するときに使う、大きめのマグカップを探してたんだよね。
小さめのカップだとさ、すぐ飲み切っちゃって何回もお茶入れるのがめんどくさくて。
「さて、今日はどのお茶からいくかな。」
僕のパソコンデスクの横には、お茶コーナーがあるのさ。
麦茶、緑茶、そば茶、杜仲茶、ジャスミンティ、ルイボスティに黒豆茶。今は種類が少ない方かな。
僕はジャスミンティのティーバックを一つポンとマグカップに入れ、お湯を注いだ。
ふわりと漂う、ジャスミンティの芳醇な香り。
「ほう、これはいい香りじゃのう。」
「なんだい、君は。」
ジャスミンの芳醇な香りを纏った湯気の中から、少女が出てきた。
おいおい、こんなの出てくるとか聞いてないぞ……。
「わしはマグカップである!大切に扱え!!」
「どう見てもマグカップじゃない。」
なんだかよくわからないが、悪いやつじゃなさそうだ。
少女は、湯気が消えると消えてしまった。
「なんだ、気の早いやつだな。」
ぬるくなったジャスミンティをちびちび飲みつつ、パソコンに向かう。
今パソコンで書いているのは、恋愛小説。山場が近い。最高潮に盛り上げるための、パンチのきいたセリフを生み出したいところだが。ふうむ…。
新しいお茶を入れるか。
今度は杜仲茶にしよう。
マグカップにティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。
「なんじゃこの薬湯は。」
「杜仲茶だよ。飲むと意外とくせになるのさ。」
杜仲茶独特のにおいを纏った湯気の中から少女が出てきた。
「これを飲むのか。いささか勇気がいるのう…。」
少女はぶつぶつ文句を言っていたが、気が付くと消えていた。
「結局飲んだのか、飲まなかったのかどっちなんだ。」
この日以来、少女はお茶を入れる度に姿を現すようになった。
毎日入れるお茶に何かしら文句を言うのを忘れない。
「この茶は渋いのう。」
「この茶は苦いのう。」
「この茶は色が悪いのう。」
「この茶はにおいがきついのう」
ずいぶん気温が上がってきたので、熱いお茶を飲むのが少しきつくなってきた。
ごくはいつもお茶を入れていたマグカップに、氷を入れた。
……冷気が漂う。
「なんじゃ、今日はえらく冷えるではないか。」
「氷の冷気でも出てくるのか。」
僕はマグカップに炭酸水を入れた。
「ひゃわあああああ!!!」
「なんだい、どうした。」
はじける炭酸に驚いているようだ。
目を丸くして、炭酸の粒をまじまじと見ている。
…なんだ、かわいいな。
「摩訶不思議な飲み物もあったものよ。」
ひとしきり感心していたが、いつの間にか消えてしまった。
氷を入れずに飲み物を入れた時は少女は現れなかったから、おそらく出現条件に湯気が関連していることは間違いあるまい。
暑い季節の間、少女はどんどんわがままを言うようになった。
「しゅわしゅわしないものはないのかえ。」
「毎日違う色が見たいのう。」
「大きな氷が欲しいのじゃが。」
普段甘い飲み物を飲まない僕だったが、ついつい絆されてしまった結果。
「君のおかげでずいぶん重量が増えてしまったじゃないか。」
僕は少々カロリーオーバーしたようで、体重が三キロ増えてしまった。
汗ばむ季節が終わる頃、また僕はお茶を飲むようになった。
これで増えた体重も元に戻るはずだ。
マグカップにティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。
今日のお茶は緑茶だ。
「なんや、久々にお茶かいな。」
「これからはお茶が続くよ。」
「なんでじゃ。面白いもんを入れてくれや。」
夏を迎える前はお茶だけで過ごしていたのに、ずいぶんこなれたな。
「じゃあ、いろいろと用意してみるよ。」
甘い飲み物は飲まないんだけどな。……まあ、いいか。
ココアに甘酒、お汁粉、スープにみそ汁、葛湯にホットレモン…。
「摩訶不思議な飲み物ばかりじゃ!!」
少女は大喜びだ。
僕と少女の触れ合いは続き、いつしか時は流れ。
僕は体重が五キロ増えていた。
「なんじゃ、丸くなったのではないか。」
「君がその原因のほぼほぼをしめているんだけれども。」
あんなに甘い飲み物を飲まなかった僕が、甘い飲み物を飲まずにいられなくなるとは。
今日も僕は粉お汁粉の袋を開けて、マグカップにお湯を注いで…。
ぽきん!
「えっ…。」
マグカップの柄が取れてしまった。取れた柄から、お湯がしみ出す。
パソコン周りがお湯で大変なことになっている!
慌てて僕はタオルでマグカップを包み込んだ。
湯気はもうもうと上がっているが、少女は出てこなかった。
僕はこの日以降、少女と邂逅することがなくなった。
柄の取れたマグカップを処分する気にはなれなかった。
新しいマグカップを買ったが、少女は現れなかった。
新しいマグカップで甘いものを作る気にはなれず、僕は以前の体重に戻った。
…いやむしろ、食欲がわかず減ってしまった。
僕は……少女との出会いと別れを、物語にしてみた。
いきなりの出会い、惚れた腫れたのない会話、突然の別れ。
…思えば、少女と出会ったのは、恋物語を書いている最中だった。
僕は、少女に恋をすることはなかったけれども。
少女に恋をする物語ならば、書くことができると思ったのだ。
おかしな恋物語は、摩訶不思議なことに話題を呼んだ。
おかしな恋物語の受賞記念に、温泉宿に招待してもらった。
…これはマグカップを連れて行かねばなるまい。
おかしなことをしているという自覚はあった。
しかし、このマグカップがなければ。
このマグカップがあったから。
温泉に行き、壊れたマグカップと一緒に湯に浸かった。
「なんじゃ、この湯は飲めたもんじゃないのう。」
「この湯は飲むんじゃなくて、浸かって楽しむのさ。」
温泉の湯気の中から、少女が出てきた。
「久しぶりだね。」
「そうかえ。」
少女はおとなしく湯に浸かっている。
「なんで出てこなかったんだい。」
「わしは壊れてしまったから、自由が利かなんだ。」
少女はおとなしく湯に浸かっている。
「温泉の中だったらずっとここにいることができるのかい。」
「できるが、それはちいと、つまらんのう。」
少女はおとなしく湯に浸かっている。
「じゃあ、温泉を出て、僕と一緒に遊びに行かないかい。」
「いいのかい?」
少女は裸のまま、ざばとお湯から飛び出した。
「君、温泉を出る時のマナーを知らないようだね、ちょっとこっちに来なさい。」
少女はこちらの世界に留まることができるようだ。
壊れたマグカップを温泉から出しても消えることはなかった。
「どういう仕組みなんだい。」
「わしもわからん。」
少女を連れて、自宅に戻る。
僕のパソコンデスクの横で、少女がお茶を選んでいる。
「わしはお汁粉が飲みたいのう。」
「そこにお汁粉はないな、買ってこようか。」
「いいのかい。」
僕は近所のスーパーにお汁粉を買いに行くことにした。
…僕は少女に一冊の本を差し出して。
「買って来るまで時間があるから、これ読んでみてよ。」
「これはなんだい。」
「君と僕をモデルにした物語さ。」
僕がお汁粉を買って部屋に戻ると、少女は本に夢中になっていた。
本が大きい、いや少女が小さいから読みにくそうだな。
「君、マグカップがないけど、どうやって飲むんだい。」
少女はマグカップサイズから人間サイズになった。
「このマグカップに入れてくれんか。」
僕の使っているマグカップを指差した。
少女はお汁粉を飲みながら、僕の本を読み進めた。
最後のページを閉じた時、少女の目に涙が光った。
少女は僕の書いた物語を読んで、いたく感動したようだ。
「…わしは恋というものをしてみたいのう。」
「じゃあ、僕としてみないかい。」
「いいのかい。」
少女は、女性になって、僕と恋をした。
たくさんのお茶を飲み、たくさんの甘いものを飲み。
僕はいささか体型を丸くしてしまうことになったけれども。
女性は、僕の伴侶となって、共に長い時間を過ごし。
「人の時間は、とても幸せなものだったのう。」
「君と過ごした時間は、とても幸せだったよ。」
割れたカップは、僕の手にある。
「そのカップは、わしとともに埋めてくれんか。」
「僕を一人ぼっちにするのかい。」
割れたカップは僕の手にある。
「心は共にあるのじゃが、それでは物足りんかのう。」
「迎えに来てくれると、約束してくれるならいいよ。」
割れたカップを、愛する妻の胸に乗せ。
「必ず迎えに来るでな。」
「待っているよ。」
割れたカップは、埋葬された。
僕はずいぶん、体重が減ってしまった。
甘いものも、お茶も、飲まない日々が続いているからね。
そろそろ、なのかもしれないな。
「まったかい。」
「けっこう、待ったかな。」
風呂に浸かる僕の目に、懐かしい少女が現れた。
「ああ、はじめてみた時の姿だ。」
「そなたも、若返ったぞ。」
ああ、僕の体が、ずいぶん丸くなっている。
細くなった体は、湯に浸かったままだけれど。
……このまま、置いていくしかないな。
「では行くかえ。」
「そうだね。」
僕と少女は、湯気に紛れて、ふわりと消えた。
こちら同タイトルで6月のショートショートに公開されたものです。