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4.9.ガラス格子戸の向こう側


 ぴちゃりと、水滴が水溜りに落ちた。

 波紋を描くことなく、粘着性の液体の中へと沈み込む。

 体に纏わりつくような異臭が、再び彼らの鼻孔を突く。


 扉を開けてすぐに、廊下が見えた。

 右側には小部屋と思われる扉が二枚付いており、廊下を進んだ奥は少し開けている様だ。

 確認しようと考えていたが、廊下に足を踏み入れる必要はなかった。

 何せその異臭の原因は、彼らに見せびらかすようにして扉のすぐ手前に放置されてあったのだから。


 しわがれていたであろう人物が、椅子に座っている。

 表現が曖昧なのは、この人物の上半身には既に皮膚と呼べるものが存在していなかったからだ。

 体の皮膚を剥ぎ取られ、それが無造作に地面へと投げ捨てられている。

 更に太い一寸釘で張りつけられるようにして息絶えていた。

 何本もの釘が無造作に肉と骨を貫いている様だ。


 黒い双眸が上を向いている。

 腹は開かれて中に入っていたであろう臓物が引きずり出されていた。

 排泄物も散らかっており、消化中だったであろうドロドロに溶けた液体も、体から滴って地面にへばりついている。

 皮膚がなく表情は読み取れないというのに、その人物は酷く苦しんでいるようにも見て取れた。

 真っ赤な液体が、着ていた衣服の色を変色させている。


 しかし凶器らしきものは見つからない。

 一寸釘が何本も体に突き刺さっている程度で、腹を開いた道具や皮膚を剥ぎ取ったナイフなどは一切見受けられなかった。


「チッ……。やはりそう来たか……」

「ああ、ああわわ……あわわ……お、おかみ……」

「何?」


 芦野が震えながら、絞り出すかのようにそう言った。

 全員の視線が彼へと向く。

 立っていられなくなったのか、芦屋は尻もちをついて後ずさる。


 竿宇治が考えこむようにして呟いた。


「女将って……なんでここの従業員が……」

「知らん。芦野さん、聞きたいことがあります。落ち着いて」

「はぁ……何故……なんでこんなことに……」


 これはマズいと、八樫は芦野の肩を掴んで問う。


「あの方は誰ですか?」

「ここ、ここの……ここの女将……山元さ、(さち)です……」

「最後に見たのはいつですか?」

「い、一時間前です……。料理を作り終えてから……それから……は、し、知らない……」

「早すぎるな……」


 八樫は立ち上がり、芦野を掴んで外へと引っ張り出す。

 これ以上ここに居させるのは彼の精神面が心配だ。

 後ろにいた二人にも顎で合図を出し、外へと出てきてもらう。

 その後虚化が扉を閉めた。


「にしても、よく女将さんだって分かったね。あんなにボロクソになってたのに」

「服は汚れて判別しにくかったが、傷はついていなかった。それでじゃないか?」

「虚化さん本当に僕の先輩なんですか……? そんな曖昧なもんで分かる訳ないでしょうに……」

「ムッ」

「足……だ……。足で分かった……」

「足?」


 芦野の言葉に竿宇治が首を傾げる。

 もう一度扉を少しだけ空けて、死体の足を見てみると、白い足袋を履いていた。

 分厚い衣服が血液を吸い取っているので、足元にまではまだ降りて来ていない。

  地面に着けている部分は血を吸って赤黒くなってしまってはいるが、そのおかげか足袋はあまり汚れていなかった。

 これで判別できるものなのかと更に首を傾げたが、どうやらこの旅館でこの白い足袋を履いているのは一人だけだという。


 あまり納得のいかない答えだったが、この際判別がどうとかはどうでもいいということに気が付いた。

 なぜ死んだのか、誰に殺されたのかを明確にしなくてはならない。

 だが、八樫の存在がそれを邪魔した。

 うんざりしたようにして、竿宇治は口を開く。


「八樫さ~ん。説明。やはりそう来たかってどういうこと?」


 敬語が取れた。

 恐らくこれが彼の素なのだろう。

 今までは演技だったのではないかと思うくらいの変わりようだ。


 態度の変化は少し気になったが、この状況だ。

 面倒なことに巻き込まれていると知って苛立ち、不安を覚えない者はいないだろう。

 しかし、いつもの様子で八樫は竿宇治の問いに答える。


「これは供物だよ」

「供物? 神様に捧げるとかそういう? ってかこれが?」

「ああ。で、なんだが──」

「おい……! あんたら何なんだよ……。何でこんな状況で冷静でいられるんだよ……!」

「「……」」


 怖がるようにして、芦野は三人に問いかけた。

 確かに普通であれば、彼のように怯えていてもおかしくはない。

 だが慣れてしてしまっているのだ。

 もう今更、こんな事で一々驚いていられない。


 虚化はそっぽを向いている。

 問いかけに答える気は一切なさそうだ。

 それはそれであらぬ疑いを掛けられるぞと思いながら、八樫は座っている芦野と同じ目線になる。


「私は私立探偵です。この際もう言ってしまいますが、私はこの旅館の素行調査をしに来た者です。今回のこの事件、従業員やバイトが辞めてしまう様な原因に何か繋がっているのではないですか?」

「ええー……それ言っちゃうのぉ……?」

「仕方がないだろう。こんなんじゃ仕事にならん」


 素行調査はあくまでこの店が平常運転で実施される調査だ。

 死人が出る事件が発生したのでは、もうどれどころではない。

 今回の調査は中止になるだろう。


 であればもう直接聞いた方が良い。

 今回の事件に何かしらの繋がりがあってもおかしくはないからだ。


「それに、もう生きて帰れるか分からないしな」

「……はぁ!!?」

「言っただろう? “最悪だ”ってね……」


 本当であれば、荷物など捨てて車ですぐにこの場所から離れたかった。

 だがそうすればこの宿にいる者全員を見捨てることになる。

 それは八樫の望むところではない。


 まだ余裕はあると思っていた。

 人が死ななければ逃げるチャンスはいつでもあったのだ。

 だがよりにもよって初日から仕掛けてくるとはと、八樫は少し難しい顔をして嘆息した。


 その後、また芦野に向きなおる。

 まだ話は聞けていないのだ。


「で、従業員やバイトが辞めてしまう理由を教えていただいても?」

「……羽音……が耳元でするらしいんですよ……。僕は一切わかりませんけどね……。気味が悪いって、言って、全員が辞めて行きました」

「予想通りだね。竿宇治君、分かったよ」

「……なんですか」


 八樫は立ち上がる。

 次にこの原因を作っている生物の名前を口にしようとした。

 だがそれよりも先に、悲鳴が二階から聞こえた。


「!!? なんだ!?」

「女の子たちじゃないですか!?」

「竿宇治は一緒に来い! 虚化はここで芦野さんを見ておけ!」

「あいあい……」


 一切焦りを見せない虚化は、面倒くさそうにして玄関の外を見た。

 玄関に設置されているライトが雪を照らして見えるはずだった。

 だがそこにあったのは、顔のないのっぺらぼうのような巨大な顔。

 しかしこれは顔と表現していいのだろうか。

 首はなく、耳もなく、髪の毛もない白い何か。

 楕円形を延々と伸ばしたかのような白いものに、口が付いているだけだ。

 笑っているようにも見えるその口は大きく、ボォーという低い声と同時にガラスを曇らせた。

 それが閉められたガラス格子戸越しに、こちらを覗いていた。


「うおおおおおおおお!!? なななななな!!!?」


 寡黙を貫き通していた虚化もこれには恐怖心を抱いた。

 ゾワリとした感触が背中を伝ったと思うと、心臓がバクンと一気に跳ね上がる。

 驚きすぎて立つことすらできず、芦野と同じ様にして廊下を後ずさった。


 声を聴いて後ろを振り返った八樫は、更に舌打ちをする。


「やっぱりザイクロトルからの怪物かよ!! ふざけた奴隷持って来やがって!!」 


 悪態をつかれたことに気が付いたのか、ザイクロトルからの怪物はまたボォーという声を出してこちらを見ているようだった。

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