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千夜十夜物語

人の形は旗を振らない

作者: 穹向 水透

20作目です。色々な短編の人物が出演します。

       1


 昼休み。それは、仲のいいグループで集まり、弁当を広げ、他愛もない話をする時間である。それは汎野咲々音(はんの  ささね)も例外ではない。弁当の味もわからないような昼休みを送っている。

「咲々音の弁当っていつも可愛いよね」

 そう言うのは下井結七(しもい ゆうな)である。性格は発言の通りである。思ってもいないことで飾るのが上手だ。良く言えば、世渡り上手なのだ。咲々音は、自分の弁当よりも、デザインに力の入った結七の弁当の方が断然、可愛いいとは思う。結七が咲々音の弁当を褒めるのは、自分に同じような言葉が返ってくることを期待しているからである。

 なので、咲々音は答える。

「うん、ありがとう」

 結七は内心、舌打ちをしただろう。だが、表面には出さない。それこそが「友達」だからである。

「タコ頂戴」と咲々音のタコ型ウインナーを奪うのは、細町綾穂(ほそまち あやほ)だ。彼女について言うなら、表裏がなく、感情の起伏がぐちゃぐちゃということだろう。普段は能面の如く無表情だが、感情を出す時は出す。笑った時の彼女は可愛い、と咲々音は素直にそう思う。

 三人の近くの席で食べているのは若草想歌(わかくさ そか)である。本を読みながら食べているが、結七に話し掛けられて巻き込まれるケースが多々ある。本人も満更ではないのだろう。話し掛けられたら、本を閉じて話に参加するのだ。話し掛けられるのを待っている、と考えることもできる。

「ねぇねぇ」と結七。ここから始まる話に生産性はないことが簡単に予想できる。そもそも、生産性のある話をしたことがあるのだろうか。

「何?」

「クラスの男子でさ、一番、かっこいいのって誰だと思う?」

 なるほど。答えも出ず、生産性は皆無と言える話だ。

「うーん、私は子郷(こざと)くんかな。イケメンでスポーツもできるからね」

 そう言うのは綾穂である。

「子郷くんねぇ、まぁ、イケメンだね。ただ、少し愛想がないよね、愛想がさ」

「うーん、そうかも」

 綾穂は箸を咥えて、上の方を見る。天井に子郷でもいるのだろうか。

「想歌は?」

 想歌が本から顔を上げる。頬が赤い。この手の話に彼女はあまり積極的ではないように思える。

「えっと、石牧(いしまき)くんとか、どうかな」

「うん、わかるわかる。優しいしね」

 かっこいい、の基準がよくわからない。咲々音はクラスメートの顔を思い浮かべる。どうせ、次は自分の番なのだ。

「じゃあ、咲々音は?」

 ほら。

「うーん」

 考える。顔が整っている、ということのみを評価ポイントとして重視するならば、解はひとりである。

神旗(みき)くんとか?」

「えー、神旗くん?」

「まぁ、整ってるよね。顔だけなら、クラスで一番かも」

「頭もいいんだけどね、あれだよ、性格に難ありってやつ」

 その通りである。

 神旗束紗(つかさ)は顔立ち、頭脳はトップクラス、運動神経も悪くない。しかし、唯一であり、最大のネックは人格である。人付き合いが下手というレベルではない。最早、矯正不可能な域に達していると言っても過言ではない。神旗の人格は、そこだけで他の評価を無視し得るほどだ。

 簡単に言うと、愛想がない。これは優しい表現である。先程、愛想がないと評された子郷など可愛いものである。能面よりも表情の変化が薄く、さらに寡黙なので、まともに話せる人間はごく少数だろう。

 要するに、神旗には、人間関係を円滑に進める要素がゼロなのだ。当然ながら、人は彼のことを敬遠する。なまじっか、スペックは高いので、彼を馬鹿には出来ない。

 咲々音は彼のことが気になっていた。生まれてから十数年経つが、彼氏を作った経験はない。横にいる結七と綾穂には現在進行形で彼氏がいる。しかし、羨ましいと思ったことはない。何故なら、彼氏が存在するメリットが浮かばないからだ。咲々音からしてみれば、恋人とは友達の延長線上の存在でしかなく、神旗が気になるのは、単純な好奇心であった。

 あの重厚なベールの下を見てみたい、そんな好奇心だ。

 咲々音の予想では、ベールを捲ったところで、何もないか、同じ顔が永遠と続くだけだ。金太郎飴みたいなものだろう。

「咲々音、気になるんだ?」

 結七が言う。

「え?」

「惚けるなぁ。神旗くんのことだよ」

 そうなのだろうか。

 そうか。彼女らが考えているのは、恋愛観から見た時の話だ。この場において、それは好奇心である、と説明するのは手間がかかるだろう。

「気になるから話に出したんでしょう?」

「そうなのかな?」

「ダメだよ、結七。咲々音は初心者なんだから、もっと、優しくしてあげないと」

 綾穂が言う。

 初心者? 恋愛に対してのことだろうか。綾穂は玄人なのだろうか。そもそも、経験者面をする必要が何処にあるのだろうか。

「咲々音も想歌も(うぶ)なんだからぁ。高校生活、一回も恋愛とかしなくてもいいわけ? そうじゃないでしょ? だったら、私と綾穂で応援するからさ、頑張ろうよ」

「……私は」と想歌が何かを言い掛けて口籠る。

「大丈夫だよ、想歌ちゃん、強く強く」

 綾穂が想歌の肩を叩く。

 まったく、傍迷惑な提案だが、神旗に近付き、そのベールの下を観察するチャンスだと思った。

 咲々音は何も言わなかった。黙っていれば、大抵は事が進む。良し悪しは運命次第だが、彼女はいつも、それに身を委ねてきた。

「ねぇねぇ、ちょっと」と結七が、近くの席で昼食を食べていた、ふたりの男子に声を掛ける。

「何?」

 ふたりのうちのひとりが反応する。

「神旗くんってどんな子か教えて」

「神旗? えー、あいつがどんなやつか? 見たまんまとしか言いようがないよなぁ」

 永打瀬大希(ながうたせ ひろき)はそう答えた。短髪で眼鏡を掛けており、イメージ的にはガリ勉タイプである。結七たちからは、眼鏡をコンタクトに変えれば及第点、と表されていた。

「なぁ、どう思う?」

 彼はもうひとりに訊ねる。

「見たまんまだろうな。上もなく下もない。神旗束紗っていう唯一無二の人格だよ」

 成上朝樹(なるかみ あさき)はそう答えた。

 成上も比較的、整った顔立ちをしている。結七たちによれば、かっこいいよりも可愛いタイプ、なのだそうだ。良く言えばそうなのかもしれないが、咲々音から見たら、少しぼんやりしているように見える。性格はわからない。そちらはアイスピックのように尖っているのかもしれない。

「そんだけ? 友達でしょう?」と結七。

「友達なら全部がわかるってのは間違い。君だって、目の前の友人の隅々まではわからないだろう?」

 成上は澱みのない口調で言った。案外、頭は高機能なのかもしれない。少なくとも、結七よりは。

「えぇ、使えないなぁ」

 結七がそう言うと、「無駄なお節介よりもいいんじゃないかな」と彼は呟くように言った。途端に、結七の眉間に皺が寄る。沸点は水よりも遥かに低く、性質は有毒である。

「いつ、お節介をしたか答えてみなよ」

「いつもじゃない? 君ってそういうタイプじゃん」

「はぁ?」

「ただのお節介ならまだマシ。下井の場合は、自分に返ってくることを望んでいるように見える。自分で予め種を蒔いておくんだね。そうすれば、ちっちゃいけど、恩を売ったことになるから、ピンチ時には自分に傾いてもらえる、と思ってるんだ」

 少し驚いた。咲々音が結七に抱くイメージとまったく同じだからだ。

 永打瀬が成上を窘める。しかし、それは無意味で、冷静な彼には効果などない。

 完全に沸騰したであろう結七は今にも手を出しそうである。彼女を理性に繋ぐ鎖は熱に弱いので、すぐに千切れてしまう。温度差が太陽と冥王星くらい離れている。結七が鎖を千切ろうとした瞬間、彼が現れた。

「朝樹、数学の解答冊子を返してくれ」

 彼はそう一言、言った。

「ああ、終わってるから、うん、ありがとう」

 彼は表情を変えない。太陽と冥王星の間に、急に無が現れたのだ。一瞬の静まりの後、解答冊子を手にした彼は結七の方を一瞥した。だが、口を一ミリも動かすことなく、教室から出ていった。

 結七は拍子抜けしたのか、溜め息を吐いた。そして、成上を睨んだが、彼は既に永打瀬と会話をしていた。永打瀬の方は気まずそうに、成上と結七を交互に見ていた。

 その後はどちらも会話はなかった。唯一、綾穂が無言で、咲々音からブロッコリーを奪っていったことがエネルギーの移動だったように思う。



 神旗は昼休み終了直前に教室に戻ってきて、何も持たずに、また出ていった。次の時間は世界史で、本来ならば、教科書や資料集を持っていくが、彼は持たない。授業中、何をメモするわけでもなく、微動だにせず、教師の話に耳を傾けている。

 教師から「真面目に受けろ」と注意されると、「受けている」と答える。しかし、教師はそれ以上は言えない。何故なら、神旗が「真面目」に受けている生徒よりも成績が優れているからである。

 咲々音は世界史が終わった後、神旗に話し掛けた。

「昼休みは何処へ行っているの?」

「本」

 質問をひとつ飛ばして解答したようだ。確かに、訊きたいことはわかったので問題はない。

「ノートとか持たなくて平気なの?」

「必要性がわからない」

「授業中、何を考えてるの?」

「違う世界の自分」

「違う世界?」

「平行世界」

「そこでの君はどんな人?」

「命があり、活動をしている」

「積極的?」

「こちらよりは」

「考えるのは簡単?」

 彼は小さく頷いて答える。

「だが、三人程度を要する」

「三人?」

 彼が初めてこちらをしっかりと見た。

「まず、シナリオの構築にひとり、カラーリングにひとり、映像の放映にひとり。細かいオプションを追加するなら、あと数人はいてもいい」

「さっきの時間は何人いた?」

「六人」

「どんな想像?」

「……」

「うん?」

「取り留めもなく、価値もない、ただの自己満足でしかない英雄気取りのイメージ」

「英雄気取り?」

 彼は頷く。

「君の役職は?」

 咲々音がそう質問すると、神旗は驚いた顔をした。と言っても、表情の変化は眉毛が数ミリ動いただけで、普段と比べた時の話だが。

「高校生、かな」

「想像は楽しかった?」

「楽しくなかったら続けない」

「規模は?」

「未定。現状は、この学校の半分くらいの面積」

「維持できるんだ?」

「わからない」

 彼はそう答えると、歩き出した。質問はもう受け付けない、ということだろうか。

 話してみた感想は、取り敢えず、次元が捩れているような感覚があった。彼の想像の内容はわからないが、それに自分が追い付ける自信は何処にもなかった。


       2


 翌日の昼休みは、まだ険悪さが漂っていた。その険悪さは結七から発せられており、対象はもちろん、成上である。

 成上自身は気にならないようで、永打瀬と話をしている。永打瀬は険悪さを感じ取っているようで、成上の話に生返事で応じている。

「朝樹」

 神旗がやって来た。彼の足音は極端に小さい。というよりも、聞こえない。無意識なのだろうが、時折、吃驚させられる。

「どうした、神旗? あれ、僕、何か借りたっけ?」

「いや、そうじゃない」

「だとしたら、珍しいね。今日は図書館じゃないんだ?」

「貸し出し中だった」

 それは読みたい本がなかったということなのだろう。

「なるほどね。それでどうした?」

「少し、話がしたい」

「うん、いいけど。ちょっと、待って、弁当を仕舞うから」

 成上は食べかけの弁当を袋に仕舞い、手に持った。残りは持っていって食べるのだろう。

「おれは?」

 永打瀬が言う。心なしか、必死そうに聞こえた。この険悪さの中にいるのも嫌だろうが、ひとり残されるのも嫌なのだろう。

「永打瀬にはあまり関係がない話だと思う」

 神旗は冷たく言った。

「えっ」

「悪いな、ナガ。別の機会に話すよ」

「え……うん」

 永打瀬は何かを言いたげだったが、口にすることはなかった。ここで変なことを口走れば、険悪さの対象が自分に向けられ兼ねないからだ。これは利口な選択だっただろう。咲々音はそう思った。

 神旗と成上が教室を出て行くと、結七と綾穂が顔を寄せて話を始める。想歌は本日欠席である。

 咲々音は自分に話が振られないように、存在感を霧消させることに専念した。それが功を奏したのかどうかわからないが、彼女たちはふたりきりで話を続けていた。時々、観察してみるが、喋り続けているのは結七で、綾穂は通常通り、能面の如く無表情であった。話を聞いているかどうかを判別するには、顔の細かな上下運動を見るしかない。

 そもそも、何故、自分は彼女たちと昼休みを過ごしているのだろう。

 元々はひとりで食べていた。

 想歌のように本を読んでいたわけでもなく、ただただ、意味を成さない考え事に専念していた。

 いつの間にか、ふたりに巻き込まれていた。話が合うわけでもないというのに。本当に理由が思い出せない。記憶力は優れている方だと思う。少なくとも、結七や綾穂以上で神旗以下である。

 咲々音は弁当を食べ終わると、教室から出た。廊下に出た瞬間に空気が軽くなるのを感じた。

 神旗と成上は廊下にはいなかった。時間はあるので、図書館や中庭も探したが何処にもいなかった。

 残るは屋上である。

 咲々音たちの通う学校には「青春委員会」なる組織があり、そこの会長をしている八坂透子(やさか とうこ)という人物が、屋上は青春のために開放されるべきだ、という主張をし、それに多数の生徒が賛同したため、屋上は開放されるようになった。もちろん、フェンスの設置(噂によると八坂が自費で出したらしい)や三年生のみ利用可能などの制限があったようではあるが。

 ちなみに、結七と綾穂は青春委員会の一員である。

 咲々音は階段を登り、屋上に通じるドアへ。ドア越しに声を確認しようとしたが、風の音しか聞こえない。

 この時期の昼休みの屋上には生徒はあまりいない。教室の方が遥かに快適だからである。結局なところ、人は青春やロマンスよりも、快適さ、充実したインフラを選択するのだ。

 愛や夢は物理的な面では無力なのだ。

 授業の予鈴が鳴ったため、咲々音は教室へ戻った。次の授業は体育で、屋外で行われる。予鈴が鳴った時点で、授業に間に合うかどうかはギリギリだったが、どうにか間に合うことができた。

「何処に行ってたの?」と結七。

「図書館にちょっと」と答えておいた。

 授業は選択種目で、サッカー、ベースボール、テニスから選択できた。咲々音や結七、神旗に成上もテニス選択である。しかし、結七と綾穂は見学をしている。加えて、想歌は欠席である。仕方がないので、字来(あざら)というクラスメートとペアを組んだ。

 シングルスの試合を行い、咲々音は字来を完封した。

「強いね」と字来。

 身体が棒のように細く、運動音痴の字来に負ける気は端から何処にもなかった。

 男子の方を見ると人数が足りない。眼を凝らして見ると、どうやら、神旗と成上がいないようだ。

「ねぇ」と字来に声を掛ける。

「何?」

「神旗くんと成上くんは何処に行ったんだろうね?」

 字来は首を傾げた。

「神旗くん? 成上くん?」

 なるほど。彼女はふたりを知らないのだ。思い出せば、字来月詩(つくし)という人物は、人のことを全く憶えないことて有名なのだ。

「人のこと憶えるの苦手?」

 咲々音は質問を変えた。

「うん」

「どうして?」

「憶える必要がないから」

「そう?」

「うん。まず、名前がある必要もないよね。識別するだけなら、記号とかでいいのに。私は(ヴェディ)がいいな」

「ヴェディ?」

「うん。グラゴル文字」

 確か、字来は外国語研究会のメンバーだったような。ひとつわかるのは、変わり者には違いないということだ。

「神旗くんってわからない?」

「うん」

「うん、じゃあ、そうだね。字来さんの席の右斜め前の席の人だよ」

 字来は下を向いた。教室の席の配置を思い出しているのだろう。

「あ、わかった。あの、クールな人ね。私、彼のことはχ(カイ)って呼んでるの。あんまり理由はないけれどね」

 彼女はそう言って笑った。

 咲々音は頷いて、何も言わなかった。

 視線は屋上に向いている。

 まだ、話しているのだろうか。一体、何を話しているのだろうか。それは、授業を放ってまで話すことなのだろうか。

 結局、彼らは授業が終わっても戻らなかった。

 明日、それとなく聞いてみよう、と咲々音は思った。


       3


 翌日、ふたりは何もなかったような顔で出席していた。永打瀬が成上に内容を問い質している。

 昼休み、咲々音は図書館に赴いた。もちろん、神旗に会うためである。多少、躊躇われたが、意を決して向かった。恐らく、神旗は誰が行っても同じ対応をするだろうと思ったからだ。

 図書館の奥の席に彼はいた。近付いてみると、彼は顔を上げた。

「お昼はいいの?」

「昼は食欲がない」

「何を読んでいるの?」

「本」

 仕方がないので、咲々音はタイトルを見た。数年前に亡くなった作家の代表作のようだ。

「ねぇ、色々訊いていい?」

「構わない。けれど、答えるかどうかは僕次第だ」

「わかってるよ、そんなこと」

 咲々音は椅子を引き、神旗の前に座った。

「昨日、屋上で何を話していたの?」

「尾けていたのか?」

「え?」

 咲々音は少し動揺した。だが、すぐに冷静になった。

「尾けていたわけじゃないよ。消去法でそこだと思っただけ」

「なるほど」

「それで、何を話していたの?」

「……」

 神旗は答えない。つまり、答えられない質問ということだろう。

「じゃあさ……」

 咲々音は代わりになりそうな質問を思い浮かべる。

「人生についてどう思う?」

「人生?」

 咲々音は言ってから後悔した。チョイスを間違ってしまった。

「うん、人生」

 仕方がないので、このまま続けるしかない。取り敢えずは、神旗のことを少しでも知ることができる、というポジティブな思考で。

「汎野はどう思う?」

「え、うん、山あり谷ありっていう言葉の通りかな」

「人生は穴だ」

 彼は咲々音の解答を遮断するように言った。

「穴?」

「そう、穴。谷はあるだろう。しかし、山などない。人生は平坦な一直線だ。そこに、穴、どちらかというと、クレバスに近いが、それがいくつも潜んでいる」

「でも、場面が好転する時だってあるよ」

「それはデフォルトに戻っただけだ。そもそも、人間というものは幸福の度合いを比較することが不得手なんだ。本当は上限値は同じなのに」

「上限値はデフォルト?」

「そう」

「生まれた時が上限値?」

「あとは死ぬ時」

「どうして?」

「生と死というふたつの動作は誰にでも平等に訪れる。確かに、生まれた環境、死ぬ状況によって多少の差異はある。だが、それはあくまで差異であって、生と死であること自体に変わりはない」

「神旗くんは、命をどう考える?」

「どう、とは?」

「重さとか、価値観の話」

 彼は小さく頷いた。

「そもそも、命に価値など微塵もない」

「え?」

「命に価値があるといえる明確な理由はなんだろう?」

「それは、失ったら戻らないからだと思う」

「命でもなくても該当する」

「でも、それは……」

「汎野が言おうとしていることは間違ってはいない。だが、モノと生物を区別しているのは人間の目線でしかない。凡る余計なものを排除して見れば、どちらも同じものでしかない。それが生まれようが、死のうが、価値は上下しない」

「神旗くんにとって、重要な価値のあるものって何?」

「ない」

「ない?」

「特別な価値を持つものは何もない」

「自分の命も?」

「それは、他人の命と何か違うのか?」

 神旗が口を少し歪める。

「えっと」

「自分の命も他人の命も、そこらにいる微生物の命も、等しい。僕は、自分のだから、なんて不条理な理由で贔屓はしない」

「不条理……」

「考えてみて欲しい。さっきも言ったように、命に価値など微塵もない。それは、命が失われるために存在しているからだ。失われると決まっているものに価値があると思うか?」

 確かに、命は失われるものだ。永遠なんて、ただの夢や幻でしかなく、そこに価値はない。

 咲々音は頷くだけだった。

 目の前の人物を理解しようと思ったことが間違いだったのだ。

「……人生、楽しい?」

 咲々音は後悔した。少し嫌味のように聞こえたかもしれない。

「ああ」

「え?」

「人生は一直線だと言った。しかし、そこにはトラップのような穴がいくつもある。それが何のためにあるのか、簡単なことだ」

「何?」

「飾るためだ」

「飾る?」

「生と死だけでいいなら、生まれた瞬間に呼吸を止めればいい。そうしないのは、少しでも飾るためだ。今、僕がこうして本を読み、話をしているのも、飾る、という行為の一環に過ぎない」

「それは、何のためにするの?」

「……まだ、僕にはわからない」

 それは少し予想外な答えだった。

「……もしも」

「……?」

「汎野が僕に、窓から飛び降りろと言うのならば、僕はきっと迷わない。飾るという行為にはその程度の意味しかない」

 彼はまた口を歪めた。

「僕が普段している想像も飾るための無駄な行為でしかない。今、汎野がこの場で僕と話をしていることでさえもだ」


       4


 少し日を跨いで、また昼休みの図書館。

 神旗はいつものようにそこにいた。

 いつもと違うのは、成上が彼の前に座っているということだ。咲々音は本棚の方に回り、話を盗み聞きすることにした。

「……で、その後ね」

 成上の声がする。

「うん」

「連絡はまだないよ」

「そうか」

 連絡? 誰と?

「なぁ」

「うん?」

「朝樹は、命についてどう思う?」

「命? あー、そうだな、まぁ、大切なんじゃないか?」

「何と比較して?」

「さぁね。一般論かな?」

「その一般論についてはどう思う?」

「夢か幻だよな。命の重さなんて所詮、概念でしかないんだから。それだったら、魂の重さは二十一グラムだって実験の方が現実味がある」

「その実験の面白いところは、ダンカン・マクドゥーガル曰く、人間でしか変化しなかった、という点だ」

「あぁ、そうだね」

「人間にしか魂がない。彼の価値観がよくわかる」

「まぁ、仮に魂があったところで、僕らには何もできないんだから。干渉できないものはないのと同じ」

「……そうだな」

 神旗は本を閉じる。

「やけに今日は話すね」

「普段通りだろう」

「そうかな?」

「ああ」

「じゃあ、僕は戻るから。次の時間、サボるなよ」

 神旗は返事をしない。

 成上がいなくなると、彼は本に手を置き、「出て来ても問題はない」と言った。

 彼女は驚いた。いつ、バレたのだろう。

「最初から気付いていた。人が来ると空気が変わる」

 咲々音は彼の前に出た。取り敢えずは、盗み聞きをしていたことを謝るべきだと思って、声を発しようとした時、神旗は「神はいると思うか?」と言った。

「神?」

「古代の人々は利口だった。神が人に酷似しているという致命的な点を、方向を変えるだけで、合理的なものにした」

「方向って、つまり、人が神をつくった、のではなく、神が人をつくった、って視点にすること?」

「うん」

 咲々音は彼が何を言いたいのかがわからなかった。

「人は、神と似た姿であるという点から、命を尊重しようとする。偏見でしかないが、神が人と酷似した文化ほど、他者に対して優しいと僕は思う。人を倫理的に守るのは神であり、同時に縛り付けているのも神だ。現代においては、具体的な崇拝対象がいないにも係わらず、人は神を人の形として思い浮かべる」

「えっと、神旗くんの思う神は人型じゃないの?」

 彼は大きく頷いた。あまり見られない動作である。

「今、僕が口にしたのは一般論だ。僕自身に神はいない」

「それは、だから、人の命は重くないってことに繋がる?」

「繋がる。神は庇護者ではなく、監視者に過ぎない。その監視者がいない以上、倫理などない」

「じゃあさ」

 咲々音は自分を指差した。

「今、私を殺すことができる?」

「うん、可能だ。だけど、それを行う理由がない。命を奪うことは明確な理由が要求される」

「もし、殺す理由ができたら?」

「殺す。それが汎野だろうと、成上だろうと、血縁者だろうと、自分だろうとも、僕は厭わない」

 予鈴が鳴った。話を終わらせる合図のようだ。ここから教室まで、意外に距離があるので、すぐに移動しなくてはならない。

「……そろそろ、行かなくちゃ」

「そうした方がいい」

「神旗くんは?」

「二十五パーセント以下だ」

 それは、授業に出席する可能性のことだろう。

「じゃあ、またね」

 咲々音は駆け足で図書館を出た。

 もっと、彼のことを知りたいと思った一方で、彼が自分に旗を振ることはないだろうということを、嫌というほどに理解してしまった。

 明日、また昼休み、彼を訪ねようと思う。

 自分が、殺されてしまわないように。

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