78. 『知の庭』
縛るという概念の濁流が周囲を蠢くなか、身体の殆どを狼に変えた――否、人の姿を完全に維持できないほど力を削がれた老人は人狼のような姿で纏わりつく鎖を引き千切りはじめる。
この鎖は自身を何年も縛れる強度は無い。せいぜい数日が限界の脆い檻だと老人は理解していた。
数日の猶予が天界にあれば確実に滅ぼされてしまっただろうが、その天界は既にこの世界との繋がりを封鎖した。
故に、少し力を込めれば自らを縛り付ける鎖など、いとも容易く剥がすことができてしまう。
創造の座を大きく使用したことで、世界に散った座の欠片が反応し、集まり始めていた。じきに全ての鎖を取り払い、目的も果たせるだろう。
そう考えていた老人の視界の先が、僅かに光る。
「『SAgittarius』」
老人を取り巻く濁流を、閃光が切り開く。力を取り戻し始めているとはいえ、不完全な状態であった老人は、その閃光の全てを一身に浴びることとなる。
繭が吹き飛び、周辺に光と鎖の破片を散乱させた。
身体の半分以上を焼き爛れさせながら、老人は体をどうにか起こす。今の衝撃で封印が全て鎖ごと吹き飛んだらしく、力が戻る。しかし、それ以上に受けた傷が大きかった。
「何だ……一体」
がしゃり、と大型のライフル銃が視界の先に落ちる。土煙の中、目を凝らした先、そこに立っていた存在を見て、老人は牙を剥く。
「β-3型改……ライン……!」
ライフルから伸びるケーブルはラインが背負う発電機に伸びている。そのケーブルを取り外し、発電機ごと地面に捨てたラインは感情の一切を見せないまま老人を見下ろす。
「お互い、遠いところまで来ましたね、賢神」
周辺に鈍く響き渡る無数の風切り音。それらを携えてラインは老人の前に立つ。破れた服の隙間からは、何かの配線とコイルのような機械部品が覗いている。
ラインの周囲に飛んでいるのは。無数の虫のような小型機械。かつて観測機と呼ばれていたそれらの機械を、老人は知っていた。
「…………α-4型か」
「幸い部品はそれなりに転がっていたもので。さきほどのα-2型の兵装の劣化模造品、あれはあなたが作らせたものですね? 使いにくいのでもっと改良した方がいいですよ」
地面に転がったライフルを指さし、ラインは笑う。
「貴様……どうやってこれだけの観測機を」
「α-4型はナノマシン操作や小型機の制御に特化した機械でした。これらを作り出すのは簡単です。彼女のコアは私の中にありますから」
α-4型のナノマシン操作によって製造されたそれらは、その全てが敵を捉える観測機。ラインは老人との距離を保ち、歩みを止めた。
その手には、銀色の歪な矢。それは既に機能を停止したある機械人形の骨格フレームの一部より製造された高純度の重金属の塊だった。
「実行:code-α4、『SCorpius』」
小型機のカメラが一斉に老人へ向く。老人はゆっくりと立ち上がった。
「もういい……やはりお前が私の邪魔をするのだな、機械人形」
「電磁軌条、展開」
ラインを囲むように磁場が走る。
半獣人のような姿と化した老人はラインに向かって駆け出す。その両足は獣に完全に変わり、四足で地を捉えながらラインへと迫る。
ラインは銀の矢を目の高さまで持ち上げると、その輪郭が崩れていき、光る粒子となってラインの周辺を回転し始める。速度は亜光速へ、加速された重金属の粒子は莫大な熱と電磁波を放ちながらその身を伏せる。
「実行:code-α2──」
様々な色を放ちながら、ラインの身すら焼く、α-2型の光。
「ここで破壊する。確実に」
「──『SAgittarius』」
音の無い砲撃。静寂の中に放たれた極光に老人は手を伸ばす。
「《セトロニア》!!!」
光は老人の手に押し留められるように詰まり、弾け、余波は創造の権能をすり抜け老人を引き裂いていく。致命傷は避けているのか、それとも気にも留めていないのか、老人は脚を止めず駆ける。
次第に極光は弱まり、光の矢は消えていく。それを見届けたラインは真横に手を伸ばす。
ラインの手に現れるのは影色の剣。ステラが振るっていたリーネア・レクタの剣を、ラインは握りしめた。
「それは知っているぞ!! 手札が尽きたな!!」
吠えながらも老人はその剣を思い出す。自身の賢神としての権能によって作られたものではない兵装。しかし連合の剣として多大な活躍を見せたその性能は味方のものとしてよく知っている。
あの剣の本質は実体を置かないことによる不壊であること、ではない。影を壊すということが不可能であるように、あれには硬さも、鋭さも無い。
しかしあれが最も猛威を振るったのは、その影の中を通過したものの四次元座標を変更することにある。切られたあらゆるものは分断され、切り離される。それが生物としての位相が上である神々であったとしても有効であった。
それ故に、あの剣は多くの神を滅ぼしたのだ。
「……」
老人の脚が止まった。
「……そうか、それは立体の穴のようなものだったな。常時四次元の座標情報が漏出する故、創造の権能で補足できないという訳だ。《セトロニア》は三次元での指定を前提にしているからな。俺にはまだ四次元情報を含めた操作が行えない……」
納得した顔で老人は頷いた。ラインは剣を持ち上げる。老人はそれを静止するように手を軽く上げた。
「待て、停戦しないか、β-3型。俺はもうこの世界から離れる。二度とこの世界に関わることもない。そういう契約をしてもいい。何でも貴様の願いを聞こう」
ラインは、天界にまだいるはずの人物が過った。本来の旅の目的で、半ば諦めていた再会。老人はその願いであっても叶えるだろう。そして、発言通り、この世界に現れることは二度とない。
「なんでも、ですか」
「この世界からは俺が消え、貴様は貴様の願いが叶う。それで良いではないか。俺は契約は必ず果たすぞ。約束を破るのは、愚かな神々と同じになってしまうからな」
ラインは老人の目を見る。
「…………天界に、二度と関わるなと言っても、ですか?」
老人は意外な願いに目を細める。そして、その後起こることを理解し、二足歩行であること以外の人間の要素を体から捨て去る。
「──いいや、それはできん」
「実行:code-α1『NEphila』」
再び駆け出した老人の耳に聞こえる、何かが外れるような音。
同時にラインの背後から花弁のように開いたのは──14本の同じく影でできた剣だった。
その剣はそれぞれが飛び出し、警戒する老人の頭上を抜け、老人とラインを囲むように等間隔で突き立った。
「 ッ……座標が……」
「α-1型の兵装は創造神の討伐をも想定しています。……今のあなたには丁度いいですね」
老人はラインの周辺をどうにか操作しようとしていたが、何も起こらない。苦し紛れに足元の小さな瓦礫を操作したところ、老人の操作通り砲弾の如き速度でラインへ迫った。ラインはその手の剣の腹を瓦礫にぶつけ、世界からその存在を消滅させる。
老人の頭の中で逃げの選択が大きく現れる。周囲を見れば、無数の小型機が老人を捉えている。恐らく、この突き立つ剣の範囲内はラインの領域。
あらゆる方向から己の位置を捉え続けているだろう。
これを落とそうとすればラインに接近される。しかし逃げれば、その演算によって放たれる遠距離攻撃は必中となり、己の背を穿つはずだ。
しかし致命傷は避けられる自信があった。生き残る、ということに対して、己の右に出る者はいないと自負するほどに。
狡猾な狼、強者に対して正面から挑むことはない、賢い獣。
この世界から一刻も早く離れる。それが最も生き残る可能性の高い選択であると、狼の頭は答えを導き出す。
しかし、傲慢な古い神の一柱でもある狼は。
──あの機械を己よりも強者であると認めることを拒んだ。
「いいだろう」
創造の座によって変更できるのは己の周辺だけ。しかし、あの金属塊を黙らせるには十分な力。ナイフを持った猿を、銃を持つ人間が恐れないように、老人はライン自体を恐れてはいない。
老人は付近の瓦礫を刻み、散弾のように浮かび上がらせる。
「ここで終わらせよう、古き神話を。そして、新たな神話を始めるのだ」




