1話・ここ日本じゃないの!?
気が付いたら、柔らかな草の上に倒れていた。見慣れない光景に慌てて上半身を起こし、まずは自分の体を確認してみる。怪我はないし、どこも痛くない。
身に付けているのは愛用の灰色のスウェット上下に靴下だけ。室内用のスリッパは、片方だけが近くに転がっていた。
続けて周りを確認してみる。
木々の隙間から漏れる眩しいくらいの木漏れ日。
土の匂いと草の感触。鳥の鳴き声。
その場でぐるっと見回してみたけど、近くに建物は見当たらなかった。おかしいな、部屋の中に居たはずなのに。それに、僕が自分から外に出るわけがない。
──もう何年もひきこもっているんだから。
外にいると気持ちがざわつく。うちの近所にこんな広い森林公園あったっけ、と思いながら地面に手をついて立ち上がる。どれくらい気を失っていたのだろうか。立つだけで眩暈がした。
周辺をざっと探してみたけど、やっぱりスリッパは片方しかなかった。これじゃ履けないので、この場に置いていく事にする。靴下で地面を歩くのは初めてだ。尖った石を踏まないよう、足元を確認しながら慎重に進む。
ところが、歩き回っても森は全然途切れない。
あれ、森林公園とかじゃなくてガチの森?
そもそも、靴も履かずに屋外って変だよね?
まさか、ひきこもりの僕を奮起させるために両親が田舎の山に置き去りにしたのかな。睡眠薬入りの食事を気付かず食べさせて、寝てるうちに運び出して……とか。その可能性はゼロじゃないな。
最近は外に出ろ学校行けとは言われなくなったけど、父も母も部屋にこもりきりの僕の扱いに困っていた。一応通信制高校に登録して勉強もしているけど、僕も十八だ。そろそろどうにかしないと不味いと焦ったのかも。
ああ、とうとう見棄てられちゃったか。そう考えたら妙に納得してしまって、家に帰りたいという気持ち自体が萎えてしまった。
森から出られたとして、そこからどうする?
スマホもお金も持ってないし、靴もない。
歩き続けるだけの体力も根性もない。
帰ったところで無事を喜んでくれるかどうか。
ここで野垂れ死ぬしかないのかな、と諦めかけた時、目の前の茂みから大きな鉈を持ったおじいさんが突然現れた。心臓が飛び出るかと思った!
「お、なんじゃ。猪かと思ったら人間だったわい」
尻餅をついた僕を見て、おじいさんはガハハと豪快に笑った。もし猪だったら、その鉈でズバッと殺られるところだったのだろうか。怖いんだけど。
鉈を腰のホルダーに仕舞いつつ、おじいさんはこちらへ歩み寄ってくる。そして、僕が靴を履いてない事に気付いて首を傾げた。
「おい兄ちゃん、どうやってここまで来た? この辺りにゃあウチの村の他に集落はないはずだが」
近くに集落がない?
やっぱり、ここは田舎の山奥なのかな。
どうやって来たかなんて、こっちが聞きたい。
とにかく返事をしないと、と思った瞬間、視界が揺れた。強い眩暈のような感覚に襲われ、その場に座り込む。突然襲ってきた激しい頭痛と吐き気に、僕はその場に蹲ることしか出来なかった。何かを思い出そうとすると駄目みたいだ。
明らかに具合の悪そうな僕を憐れに思ったか、おじいさんは手を差し伸べてくれた。
「あっちに荷車がある。乗せてやるから来い」
こうして、幸運にも通りすがりのおじいさんに保護してもらうことになった。
おじいさんの後に付いて歩いていると、近くでガサガサと葉っぱが揺れた音が聞こえてきた。
風で揺れているんじゃない、何かいる!
「む、ちょっと下がっておれよ」
おじいさんは音のした方に向き直る。僕が後退りした次の瞬間、生い茂った草の間から大きな黒い塊が飛び出してきた。
猪だ!
おじいさんは動じる事なく、手にした鉈の平たい面を体の前に構えて猪の突進を防いだ。跳ね返って地面に落ちた所を狙い、振り上げた鉈を叩き下ろす。
ゴッ、という鈍い音がした。
分厚い鉈が猪の頭を直撃。峰打ちとでも言うのだろうか、鉈の刃ではない方を叩きつけただけなので、猪の頭部からは少し血が滲み出る程度で済んだ。
慣れた様子で懐から縄を取り出し、倒した猪の手足を縛るおじいさん。あっという間に縛り上げた。
「具合が悪いとこすまんが、運ぶのを手伝ってくれ。こりゃデカ過ぎるわぃ」
「は、はいぃ……」
おじいさん、強い。
生まれて初めて猪に触ってしまった。
茂みを抜けた先に手押しの荷車が置いてあった。枯れ枝の束と手足を一つに縛られた猪(既に一匹倒してたのかよ!)が積まれている。それを端に寄せてから、さっき倒した大型の猪も積み上げた。
「気分悪いんだろ? 空いとるとこに座ってええぞ」
「あっ、いえっ、大丈夫です」
死にたてホヤホヤの猪の側に乗るのは怖い。遠慮して、おじいさんが引く荷車の後ろに付いて歩く。
舗装されてない道はガタガタで、すごく揺れた。時々小石を踏んで跳ねた荷台から猪が落ちそうになり、手で押さえたりした。
よく見たら、この荷車の車輪はゴムタイヤじゃなくて全て木で作られていた。そりゃ揺れるよな。田舎みたいだし、レトロな道具が現役なのかも。
景色を眺めながらぼんやり歩いていたら、頭痛と吐き気がだんだん治ってきた。森の空気が澄んでいるからだろう。深呼吸する度に身体が楽になっていく。
「見えたぞ兄ちゃん、あそこがウチの村だ」
おじいさんが引く荷車に着いていくこと十数分、ついに人里に辿り着いた。
森の中にある、木の柵に囲まれた小さな集落だ。
村の入り口から中心部までは石畳が敷いてある。十数軒程の小さな家が建ち並び、周りには畑があった。家は丸太や木の板で作られていて、なんかこう、全体的に手作り感満載な村だ。よく見たら電信柱も外灯もない。今時どんな山奥の集落だって電気くらい通ってるよね?
「あらあら、ずいぶんと若いお客さんだこと!」
荷車の後ろに付いて村の中心まで進むと、井戸で水汲みをしていたおばあさんから声を掛けられた。
井戸なんか初めて見た。電気どころか水道もないのか。
おばあさんの声につられて、近くの家から何人か出てきた。みんな白髪頭のお年寄りだ。
やばい、囲まれた。 好奇の視線が僕に集まるのが分かった。
「変わった格好じゃな」
「あなた、どこから来たの?」
「やけに肌が白いな」
次々に声を掛けられたけど、ここ数年家族以外と喋った事がない。なんて返事したらいいのか、最初の一言が全く出てこない。
緊張のあまり、脂汗を流して顔を伏せる。
「おい、コイツは具合が悪いんじゃ! そっとしとけ! あと暇なら獲物の血抜きでもしといてくれ」
最初に会ったおじいさんが僕を庇い、他の人たちを蹴散らしてくれた。荷車の猪を他の人達に任せ、更に奥へと進む。
そして、少し大きな家の前に来た。
ここはこの村の村長さんのお宅らしい。おじいさんと一緒に中へ入る。汚れた靴下のままで入っていいものか迷ったが、土足OKみたいなので脱がずにお邪魔した。
入り口から入ってすぐの居間らしき部屋で、村長さんとその奥さんに対面する。
村長さんは、お年寄りだけど背が高くて筋肉質。奥さんは小柄でややぽっちゃりとしている、優しそうなお婆さんだ。
「ロフルス、そちらの青年は誰だね」
「森で見つけたんじゃが、どうも体調が悪いらしい。ウチにゃ余分な部屋がないから面倒見てやってくれんか」
「森で? そりゃどういう……」
村長さんは、僕を見て訝しんでいる。
いきなり見ず知らずの他人の面倒みろったって困るよね、申し訳ない。
伏せていた顔を少し上げ、村長さんの顔を見る。が、目が合ったので反射的に反らしてしまった。
まずい、心証が悪くなってしまう。ここを追い出されたら、他に行くとこなんてない。近くに別の集落はないと言ってたし。
「……よ、よろしくお願いします」
声が震えて、語尾は小さくなってしまったけど、自分からも頭を下げてお願いした。
その時、初めてちゃんと村長さんの顔を見た。
ん? 目が青い……?
よく見れば、顔の彫りも深い。
隣にいる、僕を連れてきたおじいさんを見る。
こっちは目が緑!
なんで!?
この村の住人は全員お年寄りで、みんな白髪だから全く気付かなかったけど、もしかして日本人じゃないのか。外国人の老人ばかりが集まった村とかある?
ていうか、ここ日本じゃないの!?
「分かった。我が家で預かろう」
「えっ!?」
まさかの快諾に驚いて声を上げてしまった。
「すまんな。宿賃代わりに、後で鶏を絞めてくる」
「随分と気前がいいじゃないか、ロフルス」
「うるさいトルボス! それくらいするわい!」
今、鶏を絞めるって言った!?
なにそれ怖い!!
てか、名前が外国人!!?
混乱する僕を置き去りにして話はまとまった。
その後、ロフルスと呼ばれたおじいさんは一旦帰り、僕は村長の奥さんに離れへと案内された。
離れは村長さんの家の建物の裏手にあり、他の家からは見えない位置に建っていた。トイレは離れに隣接されているらしい。後で行ってみよう。
部屋は六畳くらいの板の間で、ベッドと小さな机と椅子、それと空っぽの棚があるだけだった。
奥さんは「息子のお古だけど」と着替え一式を貸してくれた。
机には水差しとコップが置いてある。
なんだか疲れたし、とりあえず横になりたい。
汚れたままベッドに入るのは抵抗があったので、とりあえず貸して貰った服に着替える事にする。
下着はトランクスと似た形で、ウエスト部分はゴムではなく紐で縛るタイプだ。服の布地は粗くてザラザラしている。麻のシャツってこんな感じかも。
ゆったりとした生成りのシャツと膝下までのズボン。ズボンも腰紐で縛るものだ。着慣れない服に苦戦しながら着替えを済ませ、ベッドに横になった。
仰向けになり、天井を見上げる。電灯はない。その代わり、壁にランプが設置されていた。
さっき村長さんと顔合わせした部屋の天井にも電灯はなかった。それにテレビやラジオ、家電製品らしきものもなかった。一番裕福であろう村長宅でそれなら、きっと他の家にもないだろう。
すんなり言葉が通じるから考えもしなかったけど、ここは日本じゃないのかもしれない。
異世界だったりして。
まさかね、と思いながら眠りについた。
ひきこもり異世界転移、始まりました。
これから彼は様々な出来事に巻き込まれていきます。
一緒に見守っていただけたら幸いです。