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2/12

2 同棲を開始する

少しラブコメチックになってきました(笑)





 包丁がまな板を叩く規則的な音で吹雪は目を覚ました。食欲をそそるいい匂いがする。

 目をやると、台所に女が立っていた。昨日拾ったホームレスの女だ。


(‥‥)


 朝、誰かが台所に立ってご飯を作っているという光景に、吹雪は不思議な感じがした。

 横を見ると、昨日女に貸した布団がきちんと片付けられている。布団は一組しかなかったので、吹雪は寝袋で寝た。女はしきりに遠慮していたが、吹雪が強引に使わせた。


「あっ、おはようございます」


 吹雪に気付いた女が声を掛けてきた。

 ブカブカの吹雪のトレーナーをワンピースのように着て腕まくりし、エプロンを着けていた。


「‥あの、台所お借りしてます。‥その、勝手に朝食を作らせてもらってるんですが‥‥迷惑でしたか?」


 女が不安そうにこちらを見つめる。

 昨日、泊めるにあたって吹雪はまず女を風呂に入らせた。あんな汚れた身体で布団に入られてはたまらない。

 風呂から上がった女を見て吹雪は驚いた。美人だろうとは思っていたが、想像以上だった。白く透き通るような肌と切れ長の美しい目。黒くつややかな髪。純和風の美女だった。


「‥いや、別に‥」


 そんな女にじっと見つめられては落ち着かない。吹雪は言葉少なに答えた。


「良かった。もうすぐできるんで待ってて下さいね」


 女は吹雪に微笑ほほえむと背を向けた。その後ろ姿が心なしか楽しそうだった。


(‥なんだ?)


 昨日とはまるで別人だった。こっちが本当の姿なんだろうか。


(女は分かんねーな)


 狐につままれたような気分で寝袋から抜け出した。洗面所で顔を洗う。


(‥まあ、いいか)


 吹雪はそんなに物事を深く考える方ではない。と、鏡の中でこちらを見ている女と目が合った。


「あっ、朝ご飯できました」


 振り返ると、ちゃぶ台の上に朝食が並べられていた。ご飯、味噌汁、卵焼きに漬物。こんなまともな朝食は吹雪が一人暮らしをしてから初めてだ。味噌なんてあった事すら忘れていたほどだ。賞味期限がかなりあやしい。


「‥あんたの分は?」


 一人前しか用意されていなかった。


「そんなっ‥私はいいです」


 恐縮きょうしゅくする女。


「まだあんだろ? 一人じゃ食べにくいから一緒に食べろよ」


「えっ、あっ‥はい」


 吹雪が胡坐あぐらをかいて待っていると、女が自分の食事を用意して対面に座った。正座で。


「足崩せって。見てるこっちが落ち着かねーよ」


「すみません」


「エプロンも外せよ」


「はい」


 やっと準備ができた。吹雪が手を合わせると、女もそれにならった。


「いただきます」


「いただきます」


 女は箸を手に取ったが、自分が食べるより、黙々と食べる吹雪の方ばかり見ていた。


「ご飯と味噌汁はおかわりありますから」


 その言葉が終わると同時に吹雪は茶碗ちゃわんを差し出した。


「頼む」


「はい」


 女が嬉しそうに受け取る。


 しばらく、食事をする音だけが部屋を満たしていた。会話らしい会話はなかったが、吹雪は気にしなかったし、女も気にならないようだった。


「ごちそうさま」


「ごちそうさまでした」


 食事の後、すぐ片付けようとする女を吹雪は呼び止めた。


「それは後でいいから。ちょっと座れよ」


「‥はい」


 女が緊張した面持ちで座る。


「‥まず、めしありがとうな」


 吹雪がぶっきらぼうに言う。


「そんなっ。私の方こそ、泊めてもらったんですから‥」


「その事だけどよ」


 女がビクッと震えた。


「これからどうすんだ? ‥どっか行くあてねーのか? ‥本当にホームレスなのかよ?」


「‥‥」


 おびえたように俯く。


「黙ってちゃ分かんねーだろ。なんとか言えよ」


 女が恐る恐る顔を上げた。昨日、公園で見せたのと同じ表情をしている。


「‥その‥」


「なんだよ?」


「‥すみません」


 ようやくそれだけ言った。


「だからそうじゃなくて、これからどうすんのか聞いてんだよ。まさか、またここに泊まる気か?」


「‥‥」


 どうやら図星だったようだ。


「‥あのなあ、昨日泊めてやったのは本当たまたまだぞ。今日出てってもらうつもりだったんだからな。俺の部屋は年越村じゃねーんだよ」


 女の顔が本当に絶望的なものになった。今にも泣き出しそうだ。というか、すでに涙を浮かべていた。


「おいっ! 泣くなよっ。まるで俺がいじめてるみてーじゃねーか」


 少し動揺する吹雪。こういう状況に慣れていない。難しい、怒っているような表情をしながら、内心困り果てていた。


「‥‥あんた、他に頼るとこねーのかよ?」


「‥はい」


「‥‥どうするつもりなんだよ?」


「‥それは‥」


 女が押し黙る。


(‥勘弁してくれよ)


 そう思いながら、ふと女の作った料理が目に入った。


(‥‥うまかったな‥いやいや、だからなんだってんだよ)


 そんな事は関係ない。出て行ってもらうべきだ。


(‥‥俺には関係ねー)


 女を見る。下を向き、拳を握りしめるその姿。


(‥‥俺はそんなに優しくねー)


 恐れと不安で肩をかすかに震わせている。


(‥‥俺は‥‥)


 思い出す。子供の頃を。


「‥‥‥‥分かったよ」


(俺はいったい何を言い出すつもりだ?)


 自分が信じられない。昨日からおかしい。見ず知らずの他人だ。どんな奴かも分からない。いつもならこんな事を言うはずがないのに。それなのに。

 上目づかいで自分を見る女に吹雪はため息をついた。


「‥しばらく泊めてやるよ」


「‥えっ?」


 女が顔を上げた。


「ただし、ボランティアじゃねーからな。家政婦としてだ。飯は毎日作れよ。家事全般やってもらうからな」


「はいっ‥はいっ!」


 女が涙目で何度もうなずく。


「大家には俺が言っとくから。食費は出す。近所のスーパー教えてやるから買い物行けよ。洗濯機は外にあるの使っていいから。それから、変な奴勝手に部屋に入れるなよ。特にN◯Kの集金と新聞の勧誘は-」


 目を逸らして早口にまくし立てていた吹雪に女が抱き付いた。


「なっ!?」


「ありがとうございます、ありがとうございますっ」


 押し倒した吹雪にしがみつく。その拍子に豊かな胸を押し付けられ、吹雪はあせった。そういえば女は下着を持っていなかったような。


(胸っ‥胸っ!)


 顔が熱くなる。


「分かった、分かったから。いいからどけよっ」


「あっ‥すみません」


 女の身体はとても柔らかかった。動悸どうきが激しくなる。


「‥まず、服を買ってやらなきゃなんねーな。適当に買って来てやるよ。今日はあんた部屋にいろよ」


 顔を少し赤くして吹雪が言う。


「はい」


 女は従順に頷いた。


「‥あ、そういやまだ名前聞いてなかったな。俺は柊吹雪だ。あんたは?」


 その言葉に女が一瞬だけ切なそうな表情を見せたが、吹雪は気付かなかった。


「‥私は‥ひょうです」


「ひょう?」


「はい。空から降る、雪の、雹です」


「ああ、その雹か」


 それが苗字みょうじか名前か分からなかったが、吹雪は聞かなかった。大した問題ではない。


 時計を見ると、いつも乗る電車に遅刻しそうだった。


「やばっ」


 壁に掛けてあった詰め襟の学生服を慌てて身にける。


「今日はバイトあるから遅くなる。俺が出たらちゃんと鍵かけろよ。とりあえずの飯は自分でなんとかしてくれ。探せば袋ラーメンとか色々あるからよ。でもあんま荒らすなよ。‥金目のもんとかねーからな」


「そんなっ」


 雹がとんでもないと首を振る。


「冗談だ。大人しく留守番してろよ」


「はい」


 靴を履く吹雪の後ろで見送る雹。


「‥‥あー‥‥行ってきます」


 この部屋に住んで初めて言う言葉。


「行ってらっしゃい」


 当然のように返す雹に、気恥ずかしくて、吹雪は振り返らずに玄関を出て行った。


「‥‥」


 閉ざされたドアの前に無言で立つ雹。しばらくすると、その唇が震えて言葉がれた。


「‥吹雪‥‥やっと会えた‥」





 昼休み。吹雪はいつものように屋上でかおると昼食を食べていた。吹雪の手には焼きそばパンがあった。メロンパンと野菜ジュースも買ってある。


「学食のパンなんて珍しいね」


「今日は朝から忙しかったんだよ」


 吹雪は言ってから、しまったと思った。


「何かあったの?」


「‥う、うるせーな。別にどうでもいいだろ」


 まさか、ホームレスの女を拾って家に泊めてやったなんて言えるわけがない。


「‥ふーん‥」


 かおるの視線を感じながら、吹雪が焼きそばパンをひたすら口に詰め込む。


「‥まあいいけど」


 かおるがそれ以上追及してこなかったので吹雪はホッとした。


「そういや、昨日は誘ってくれたのに悪かったな」


 吹雪は話題を変えた。


「いいよ。気にしてないから」


「いや、最近バイトが忙しくてよ。誘ってくれてんのに悪いとは思ってんだよ」


 二人は学校以外でもよくつるんで遊んでいる。お互い気が合うのだ。だが、友達のいない吹雪とは違ってかおるは友人が多い。その事で吹雪が一度、『俺と一緒にいると友達減るぞ』と冗談交じりに言った事があるが、かおるに『そんな事でいなくなる人は友達じゃないよ』と返された。顔に似合わず男前な性格をしているのだ。吹雪にとって実に得難い友人だ。

 たまに下世話げせわな奴等が変な勘繰りをしてくる事もあるが、その度に吹雪が丁寧に誤解を解いておいた。


「いいよいいよ。バイトだからしょうがないよ」


「すまん。また誘ってくれよな」


 と、いい感じで話を逸らせたと吹雪は思ったが、そうは問屋がおろさなかった。


「‥じゃあ、早速だけど、今度バイトが休みの日、吹雪ん()行っていい?」


 野菜ジュースを盛大に吹き出した。


「すごっ‥漫画みたい」


 かおるが感心する。


「‥ゴホッ‥なんで‥いきなり‥そうなるんだ‥よ」


「うん? そっちこそ、なんでそんなに焦ってるの?」


 むせる吹雪に、かおるは小首をかしげた。


(うっ‥)


 これが焦らずにいられるわけがない。もしアパートで雹とかおるがはち合わせしようものなら‥‥そんな事は考えたくもなかった。


「あっ、焦ってなんかねーよ。ちょっと‥変なとこに入っただけだ」


「‥ふーん‥」


 この危機的状況を回避すべく、吹雪の脳細胞がフル回転する。


「‥最近、バイト忙しいからなあ」


「でも、毎日ってわけじゃないでしょ?」


「‥‥家きたねーしなあ」


「気にしないよ」


「‥‥‥なんもねーし」


「知ってるよ。前にも行った事あるし」


 全て撃ち落された。


「‥なに? 行っちゃダメなの?」


「いやっ‥そういうわけじゃないんだが‥なんと言うか‥その‥」


 天啓てんけいの如くひらめいた。


「実はよ‥最近、隣に越して来たカップルが‥なんと言うか‥その‥激しくて困ってんだよ。あそこ壁薄いだろ? もう丸聞こえなわけよ」


 あまり話した事のない隣人に心の中で頭を下げる。


「‥それって‥つまり‥そういう事?」


 驚いた事に、ちゃんと信じてくれているようだ。


「あっ‥ああ、そういう事なんだ。夜はもちろん、朝っぱらからすごいのなんのって‥聞きに来るか?」


「いっ、いいよっ。そんなのっ」


 吹雪の読み通り、かおるは全力で首を横に振った。


「その方がいい。そのうち、引っ越しおばさんを上回るようなご近所トラブルに発展しかねんからな。関わり合いにならん方がいいぞ」


「‥吹雪も大変だね」


 なんとか丸く収まり、吹雪も胸を撫で下ろす。


「ああ、すまんな」


 『すまん』に、『嘘をついてすまん』という意味も込めておいた。


「ううん、しょうがないよ」


「今度、飯でも食いに行こうぜ」


「吹雪がそんな事言うなんて珍しいね。どうせまた中華でしょ?」


「あっ、こら、中華を馬鹿にすんなよ」


 中華にはうるさい吹雪だった。





 吹雪のバイト先は中華料理屋だ。チェーン店ではなく、個人経営の店だ。しかも従業員のほとんどがアジア系外国人という一種異様な店だが、安くて味がいいのでそこそこ繁盛している。吹雪はそこの厨房で働いていた。


「ラーメン二人前ダヨ」


「餃子三個追加ダヨ」


「ビール二人前ダヨ」


 怪しい日本語が飛び交う中、前掛けをして頭に手拭てぬぐいを巻いた吹雪が鍋を振るっていた。

 一人分を作るのが面倒くさくて家で台所に立つ事はめったにないが、実は料理はできるのだ。中華限定だが。それというのも、ここの面接の時、『お前は顔が客向きじゃない。働きたかったら料理を覚えろ』と言われたからだ。その歯にきぬ着せぬ言いようにかなりカチンときたが、吹雪のような境遇の者を雇ってくれる所は少ないので我慢した。


「はい、ビール二本」


「はい、餃子三人前」


「ラーメンマダカ?」


 今ではそれで良かったと思っている。怪しさ全開で人相も良くないが、従業員はみな悪い人ではない。吹雪のような未成年でも一人前に扱ってくれる。ここは色々と融通もきくし、何よりまかないがうまい。


「柊、もう上がっていいぞ」


 吹雪の隣で青椒肉絲チンジャオロースを作っていた男が、店内の状況を見てそう言った。店長、日本人だ。


「はい、お疲れ様でした」


 最後にでき上がったラーメンを出すと、吹雪は頭を下げて厨房から出た。敬語は苦手だが、吹雪はと場をわきまえていた。

 狭い休憩室に入ると手拭いを外した。私服に着替えながら、バッグの横に置いてあった紙袋に目をやる。それは雹のために買ってきた服だった。店に来る前に、近所の古着屋に寄って買って来たのだ。ジーパンとシャツとダウン。サイズは適当だ。三つで二千円もしない。


「‥あっ、靴買うの忘れたなあ‥」


 吹雪は頭をかきながら一人呟く。


「‥ま、いいか」


 裏口から店を出ると、冬らしい冷たい空気が全身を襲ったが、疲れた身体には逆に心地良かった。駅へ向かう。


「‥‥」


 歩きながら雹の事を考える。吹雪は気付いていなかったが、その足取りがいつもより少しだけ軽かった。


「‥あいつ、大人しくしてるだろうな」





 大人しくなかった。

 吹雪が自分の部屋の前に立つと、中から騒がしい声が聞こえてきた。雹の声ではない。だが、吹雪のよく知っている声だった。


(‥ミスった‥)


 憂鬱ゆううつな思いでドアを開けると、やはりそこに見知った女の顔があった。


「あっ、おかえり」


 雹と向かい合って座っていたのは、アパートの大家の佐江子だった。五十は過ぎているはずだが、年齢は非公開らしい。『女はミステリアスな方がいいだろ?』というのが理由だ。色々と世話になっていて、吹雪は頭が上がらない。


「‥佐江子さん‥言うのが遅れて悪い。‥これは-」


「いいよいいよ、あたしもそんな野暮やぼじゃないから」


 佐江子がみなまで言うなと手を振った。


「‥いやあ、吹雪がまだ帰ってないはずの部屋に電気がいてたから来てみれば‥あんた年上好きだったんだねえ‥何処でこんなべっぴんさん見つけたんだよ?」


 ニヤニヤしながら吹雪を見る。


「ちげーよっ! おいっ、お前何言ったんだっ!?」


「えっ? 私は別に‥」


 キョトンとする雹。


「お前、だってさ。もう夫婦みたいじゃないか」


「だから違うっつってんだろっ! ‥お前も何赤くなってんだよ!」


 雹がモジモジしていた。


「はは、お熱いねえ。‥じゃ、あたしはもう帰るよ。二人の邪魔しちゃ悪いからね」


「だからっ‥もういい」


 吹雪は誤解を解くのをあきらめた。雹の事を説明する手間がはぶけるし、特に問題もない。それに何より面倒くさい。


「じゃあ帰るけど‥」


 佐江子は玄関で向き直ると少し神妙な顔で頭を下げた。


「雹さん、吹雪の事よろしくお願いします。誤解されやすいけど、本当はいい子なんだよ」


「えっ‥あっ‥」


 雹が戸惑う。


「もういいって。ほら、帰れよ」


 吹雪は二人の間に身体を割り込ませると、佐江子を追い立てた。


「照れちゃってまあ。はいはい帰るよ。じゃあね‥はいこれ」


 ドアを閉める際、佐江子が吹雪の手にそっと何かを握らせた。


「?」


 手を開いてみると、『うすうす』というカラフルな文字が目に入った。四辺がギザギザの正方形。ご利用は計画的に。


「っ!? あのババア‥」


 ドア越しに佐江子の笑い声が聞こえてきた。


「どうかしたんですか?」


 雹がすぐ後ろにいた。


「いやっ、なんでもないっ」


 慌てて上着のポケットに突っ込んで、不思議そうな雹の顔を見ないようにする。


(何て事するんだあのババア‥てか、なんで持ってるんだよ?)


 五十路女性の持ち物ではない。吹雪は考えかけて、すぐにやめた。恐ろしい想像をしてしまいそうになったからだ。


「あの‥」


 罰の悪い表情で目を向けると、雹が伏し目がちにこちらを見ていた。


「ん?」


「‥おかえり‥なさい」


 ためらいながらそう言う。


「あっ、ああ、‥ただ‥いま」


 吹雪も変に意識してしまう。


「‥‥」


「‥‥」


(‥ババアが変な事言うから‥)


 微妙な雰囲気の沈黙を破るように雹が口を開いた。


「‥あの‥晩ご飯作ったんですけど‥食べますか?」


 不安そうな目で吹雪を見る。

 夕食は既にまかないで済ませていたが、断るのはこんな時間まで待っていた雹に悪い。


「‥ああ、頼む」


「はい、少し待って下さいね」


 雹は嬉しそうに夕食の支度したくにかかった。その後ろ姿を見ながら、吹雪はくすぐったいような、恥ずかしいような、しかし嫌じゃない気分だった。


 部屋着に着替えた吹雪の前に並んだのは豪華な夕食だった。


秋刀魚さんまなんかどうしたんだ? それにこの白菜も」


 そんな物は冷蔵庫になかったはずだ。


「大家さんに頂いたんです。‥嫌いでしたか?」


 雹が心配そうな表情をする。


「いや。俺好き嫌いねーから。‥後で礼言っとくか」


「実は、他にも布団と寝巻きを頂きました」


「そんなもんまで? しばらく頭上がんねーな」


 と言うより、さらに頭が上がらなくなったと言った方が正しいだろう。


「すみません。私のせいで」


「別に気にすんな。それより早く飯食おう。冷めるぞ」


「はい」


 夕食は本当においしかった。家庭的な味付けで、どこか懐かしさが感じられた。吹雪も自然と箸がすすみ、結局普通に全部平らげた。

 後片付けをする雹の後ろ姿を眺めながら、吹雪は食後に出された緑茶を口にした。


「ん? 熱くない」


 少し驚いた。悪い意味ではない。猫舌の吹雪にとっては飲みやすい熱さだった。


「あっ、すみません。もう少し熱い方が良かったですか?」


 雹にも聞こえたようだ。


「いや、別に文句じゃねーよ。俺、猫舌だから丁度いいんだ。‥知ってたわけねーよな? 佐江子さんに聞いたのか?」


「‥はい」


 雹が少し複雑な表情を浮かべたが、それに吹雪が気付く事はなかった。


 洗い物を終えた雹がトコトコやって来て、ちゃぶ台の向かいに座った。


「おかわり入れましょうか?」


「いや、いい。それより、あんたに服買って来たんだ」


「服、ですか?」


「ああ、朝言っただろ? いつまでもそんな格好かっこうじゃ‥アレだしな‥」


 雹は今も吹雪が貸したトレーナーを着ている。


「私は別に‥」


「こっちが困るんだよ」


 吹雪も健康な男子だ。大きめのトレーナーをワンピースのように着ている雹は、太ももあたりが特にきわどくて、目のやり場に困るのだ。


「?」


 意味が分からず小首を傾げる雹に紙袋を押し付けた。


「古着屋で安いやつを適当に買って来た」


「ありがとうございますっ」


「ちょっと着てみろよ」


「はいっ」


 嬉しそうに中身を取り出すと、その場で着替えようとしたので吹雪は焦った。


「おいちょっと待てっ! 着替えるんなら風呂場の前でやれよっ」


「? あっ‥」


 一瞬意味が分かっていない様子の雹だったが、頬を染めるとそそくさと移動した。


「‥はぁ」


(天然か? わざとか? 恥じらいがないっつーか、なんつーか‥)


 度重なる慣れない展開に吹雪も疲れる。

 風呂場の前といっても扉があるわけではない。背を向けた吹雪のすぐ向こうで雹が着替えるわけで、とても居づらかった。ゴソゴソ着替える音がする。


「キャッ!」


 悲鳴とドスンという音。


「どうし-!?」


 振り向くと、ジーパンを履きかけの雹が前のめりに倒れていた。尻を突き出すような形で、そして雹は下着を着けていない。


「すまんっ!」


 弾かれたように回れ右する吹雪。一瞬だったが目に焼き付いた。


(‥‥桃‥じゃねえっ! ‥俺にも我慢の限界があるぞ‥)


 吹雪とて木石ぼくせきでできているわけではない。年頃の男だ。そういう欲望がないわけではない。


「‥お尻がきついみたいです」


「あっ、ああ、そうか。無理に履かなくていいぞ。シャツはどうだ?」


「‥胸が‥少し苦しいです‥」


「悪い。やっぱそれ着なくていいわ」


 安物買いのぜに失いというやつだ。やはり、服は本人が着なければサイズなんて分からない。それに、下着の事も忘れていた。


「‥もういいか?」


「はい」


 振り返ると雹がちんまりと立っていた。


「‥明日、服買いに行くか」


「えっ?」


「明日は‥そんな大した授業ねーし、休んでも大丈夫だろ」


 吹雪は不良のように見られがちだが、不真面目というわけではない。学校をさぼるような事はしないし、授業もちゃんと受けている。評価はどうあれ。


「‥いいんですか?」


「ま、一日ぐらい平気だ」


「‥すみません‥ありがとうございます」


 雹が、昨日から何度目になるか分からない謝罪と感謝を述べた。


「気にすんな。とりあえず、もう風呂入って寝るぞ。なんか今日は疲れた」


「はい」


 その後も、佐江子にもらった寝巻きが『別府温泉』と書かれた浴衣だったり、


「‥まあ、これはいい」


 同じくもらった枕の表と裏に『YES』『NO』どころか、『YES』『OH! YES』とイラスト付きで書かれていたり、


「これはねーだろっ!?」


 最後まで疲れる一日だった。





この投稿の瞬間ドキドキします。

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