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11 吹雪の力

戦闘シーンは苦手です。

 




「‥雹はね、あんたの母親なんだよ」


 初め、吹雪は老婆の口から出た言葉の意味が分からなかった。聞き違いかと思った。


「‥はあ? 婆さん、今なんて」


「だから、雹はあんたの母親なんだよ。覚えてないだろうけど、あんたは赤ん坊の頃、雹に育てられたんだよ」


 さらりと衝撃的な事を言う老婆に、横からかおるが口を出す。


「嘘っ。だって雹さんそんな年に見えないよ」


「雪女だよ。ああ見えて雹は五〇年以上生きてるからね。それに、別に雹が産んだわけじゃない。この小僧は人間だよ」


「?」


「山で捨てられてたこの子を雹が拾ってきたのさ」


「っ‥」


 言葉の出ないかおるが恐る恐る横を伺うと、そこには、動揺を隠せない吹雪がいた。


「‥婆ぁ、適当な事言ってんじゃねーぞ」


「本当の事だよ。雹に聞いてみな」


 言われて、吹雪はゆっくりと雹に目を向けると口を開いた。


「‥雹、どうなんだ?」


 問われた雹が吹雪に視線を合わせる。


「‥わ、私は‥」


 懸命に何かを伝えようとするが、言葉が出ない。


「嘘、だよな?」


「‥それは‥‥」


 雹が視線を逸らす。


「‥本当‥なのか?」


「‥‥」


「マジかよ‥」


 答えない雹に吹雪が呆然と呟いた。


「‥お前は‥俺の‥‥そうなのか?」


 戸惑いながら声を出す吹雪に、雹は躊躇ためらい、手を握りしめ、震える唇を開いた。


「‥はい‥‥黙っていて‥すみません。‥私は‥あなたの‥‥」


 それ以上言葉が続かない。だが、その必死の表情に疑いを挟む余地はなかった。


「‥‥そうか‥」


 吹雪は一言呟いた。

 いきなりの事だ。驚かないと言ったら嘘になる。しかし、心のどこかで納得している自分がいた。初対面だったはずの吹雪に対する雹の好意。やけに吹雪の癖や好みを知っている所。時折見せる眼差し。そして、初めて顔を見た時に感じた妙な感覚。思い当たる節はあった。

 黙っていた事も仕方がないと思える。軽々しく言える事ではないし、雪女が育ての親なんてのは、普通なら冗談にしか聞こえない。


(‥雹が‥俺の‥母親‥)


 心の中で呟く。違和感はあるが、受け入れ始めている自分がいた。だが、一つだけ、これだけは聞いておかなければならない事があった。


「‥なんで、俺を捨てたんだ?」


 その言葉に雹が身体をビクッと震わせた。


(そうだ‥俺は‥あの時‥)


 夢で見たあの光景。吹雪はおぼろげに思い出した。雪が降る中、あの時いたのは雹だ。もう一緒に暮らせないと言われた。さよならをしなくちゃならないと。ごめんなさいと。それが嫌で、悲しくて、抱き締められながら声が涸れるほど泣いた。


(‥俺は‥雹に‥‥)


 その時の感情がよみがえる。胸が締め付けられるようだ。


「‥俺は、捨てられたのか?」


 その表情も声色こわいろも変わらなかったが、横で見ていたかおるは、吹雪の姿が泣き出す寸前の子供のように見えた。


「違いますっ!」


 雹が必死の形相ぎょうそうで叫んだ。


「違うんですっ! それは‥」


 言いあぐねる雹に吹雪が言葉を続ける。


「何が違うんだ?」


「それは‥」


「答えろよ」


 吹雪の口調がきついものになり、雹が泣きそうな顔を見せる。


「私は‥」


 そんな雹の助けに入ったのは、意外にも老婆だった。


「仕方なかったんだよ」




 

「仕方なかったんだよ」


 老婆の言葉に雹はハッと顔を上げた。


「どういう意味だよ?」


 吹雪が老婆に目を向ける。


「そうするしかなかったのさ」


 老婆はそう言って話し出した。

 幼い吹雪が高熱を出して倒れ、手の施しようがなく、助けるために雹が取った行動。


「『霊水』を飲ませたのさ」


「霊水?」


 口を挟んだかおるに老婆はジロリと目を向けたが、その疑問に答えた。


「ああ、人間は『落ち水』と言ったりもするね。病を治し、傷を癒やす薬だよ」


 そう、そのおかげで吹雪は助かった。だが、


「けどね、それは里の掟で厳しく禁じられていた事なんだよ。それを雹は無断で、人の子に飲ませたんだ。許される事じゃない」


 赤ん坊の吹雪を里に連れ帰った事で雹は一度掟を破っている。これをまた許す事は他の者に示しがつかない。小さな共同体で規律が失われる事は、その存続に影響する。


「普通は里から追放するんだけどね、年寄りばかりで雹みたいな若い者は貴重なんだよ。それに雹に同情する声もあったからね、監視付きで幽閉という形をとったのさ」


 だが、吹雪はそうはいかなかった。


「あんたを里に置いておく事は出来なかった。雹はそれなら自分も追放してくれと言ったが、そんな都合のいい話はないからね。雹に、あんたを人里のそばに置いてこさせたのさ」


 雹はまだ覚えている。はっきりと思い出せる。泣きじゃくり、しがみついて離れない吹雪の体温。一人残され、泣きながら自分を探す吹雪の姿。

 吹雪を連れて逃げるという方法もあったが、まだ幼い吹雪を連れて里の追っ手から逃げ続けるのは不可能だった。また、そんな暮らしを吹雪にさせたくなかった。それなら人の世界に返そうと、身を切るような思いで吹雪を手放したのだ。あの時は、そうするしかなかった。


「‥そうなのか?」


 問いかける吹雪に、雹はやっとの思いで一言だけ返した。


「‥はい‥」


「‥‥」


 吹雪が無言になる。


「気は済んだかい? なら-」


「待てよ」


 老婆の言葉を遮ると、吹雪は再び雹の目をじっと見た。


「なんで、俺に会いに来たんだ?」


 それは馬鹿げた質問で、雹を責めるような言葉でもあった。


「‥それは‥‥」


 言いたい気持ち、言うべき思いは溢れ返るほどあるのに、言葉が出ない。


(‥だって‥)


 一日たりと吹雪の事を忘れた日はなかった。ちゃんとご飯を食べているだろうか。夜は眠れているだろうか。泣いていないだろうか。吹雪の事を考えない日はなかった。どんな暮らしを送っているんだろう。どれだけ大きくなったんだろう。どんな子に育っているんだろう。毎日毎日、吹雪の事を思い続けた。一年が経ち、三年が過ぎ、一〇年を経てもそれは変わらなかった。会いたい。一目会って顔を見たい。声が聞きたい。言葉を交わしたい。その頬に触れたい。抱き締めたい。狂おしいほど、思いはつのり、想いは溢れ、抑え切れなくなったある日、それは行動になった。


 一度決めると、もう迷わなかった。他の事は考えられなかった。里を抜け出し、一心不乱に走った。会いたい。会いたい。吹雪に会いたい。その気持ちだけが雹を突き動かした。山を下り、街を何日もさまよい、あの日あの夜、雹は奇跡に遭遇した。言葉にならない思いが全身を駆け巡った。あの瞬間を雹は生涯忘れる事はないだろう。何年経っても見間違える事はなかった。そこに、吹雪がいた。


 初めは、すぐに山に戻るつもりだった。追っ手が来るのは分かっていた。吹雪に迷惑がかかる前に里に戻るつもりだった。声を掛けるつもりはなかった。一目、元気でいる姿を見れたらそれで満足しようと思っていた。だが、十数年ぶりに会った吹雪を目にして、そんな考えは消し飛んだ。気付いてほしくなった。自分を見て欲しくなった。声が聞きたくなった。少しだけ、ほんの少しだけ一緒にいたくなった。


 相変わらず猫舌だった。雹が教えたとおり、きちんと手を合わせて『いただきます』と言っていた。時折見せる笑顔にも昔の面影があった。自分の後を追って、自分の足にしがみついて泣いていた吹雪は、見上げるほど大きくなっていたが、やはり雹の知っている吹雪のままだった。雹が育て、雹の愛した吹雪だった。

 そんな思いが胸を駆け巡り、胸を締め付ける。


「‥‥会いたかった‥から‥」


 雹は振り絞るように声を出した。


「‥ずっと‥会いたかったから‥」


 それ以上は言葉にならず、雹の頬を涙がつたう。


「‥‥」


 吹雪が黙ってその様子を見つめる。


「もういいだろ?」


 沈黙を破ったのは老婆だった。


「そういう訳さ。だけどね、掟は掟なんだ。守られなくちゃならない。悪いけど、雹は連れて帰るよ」


「そんなっ‥」


 かおるが非難の声を上げ、雹が絶望的な表情をする。


「雹、あんたも分かっていたはずだよ。この日が来る事を覚悟していたはずだよ」


「それは‥」


 老婆の言葉が雹の反論を許さない。


(それは‥)


 そう、確かに分かっていた。このままずっと一緒にいられるわけがないと。別れが来る事を。だが、吹雪と過ごすうちに、その幸せを噛みしめるたびに、決意は揺らぎ、もう少し、あと一日と延びた。そして、あの日、公園で吹雪の思いを知った時、もう駄目だと思った。離れられないと思った。離れられるわけがないと思った。あの時、もう二度と吹雪を一人にしないと誓ったのだ。


「さあ、帰るよ」


 その思いを断ち切るように老婆が声を出す。


(嫌っ‥)


 捕らわれた二人を前にしてその言葉が出ない。


(離れたくない‥)


 だが、もし二人に、吹雪に何かあれば‥‥それは想像するだに恐ろしい事だった。


「私は‥」


 ジレンマが、相反する思いが雹を苦しめる。

 その時、今まで黙っていた吹雪が声を出した。


「かおる、雹のとこ行けよ」


「うん」


 かおるがすかさず応える。


「何を-」


 二人を捕まえていた空木が口を開いた次の瞬間、その巨体が宙を舞って地面に叩き落とされた。


「なっ!?」


 さすがの老婆も驚いて目を見張っている隙に、かおるが走って雹の所まで来た。


「雹さん大丈夫?」


「えっ? あ、大丈夫です。でも‥」


 と言って吹雪を見る雹に、かおるは事もげに言った。


「ああ、心配ないから。吹雪に任せとけば大丈夫だよ」


 その吹雪はというと、頭をかきながら老婆に向き合っていた。


「あー、婆さん悪いんだけどよ。本人嫌がってるみたいなんで帰ってくんねーか?」


「‥驚いたよ。人間が空木を投げ飛ばすなんてね」


「婆さんも怪我しないうちにさっさと帰んな」


 その言葉に老婆が意味ありげな笑みを浮かべた。


「その台詞、そのままあんたに返してやるよ」


 老婆が言い終わると同時に、倒れていた空木が何事もなかったように起き上った。


「‥大抵たいていの奴は二度と起き上ってこないんだけどなぁ」


 少し呆れたような口調の吹雪に、背中から声が掛けられた。


「吹雪さんっ、逃げて下さい! 空木は人がかなう相手ではありませんっ」


 吹雪はチラリと雹に目をやると、振り返らずに声を出した。


「うるせー。お前は黙ってそこにいとけ」


「でもっ‥」


 言葉に詰まった雹はかおるに助けを求めたが、対するかおるは口に笑みを浮かべていた。


「吹雪、照れてやんの」


「えっ?」


 場違いな物言いに雹が思わず聞き返す。


「雹さんにあんな情熱的な告白されたもんだから、嬉しくて恥ずかしくて顔合わせられないんだよ。ちょっと怒ったみたいで無愛想になってるでしょ? あれ、照れ隠しだよ」


「そんな‥」


 その言葉に雹もついつい状況を忘れて頬を染める。


「愛の告白だなんて‥」


「いや、そこまで言ってないけど‥」


 かおるが冷静に訂正し、


「お前ら黙っとけ!」


 吹雪が顔を赤くして声を上げた。


「面白い。たかが人間にここまで馬鹿にされたのは久しぶりだよ」


 老婆が全く面白そうでない口調でそう言った。


「そうかい。別に礼はいらねーよ」


「‥本当に口の減らない子だね。でも、そんな口をきいていられるのも今のうちだよ」


 その言葉に呼応こおうするように空木が吹雪の前に立った。


「さっきは油断した。地面に倒されたのは久しぶりだ。褒めてやろう。だが、次はないぞ」


「どんだけ上から目線なんだよ。そういう奴に限って-」


 言葉の途中で吹雪は殴り飛ばされた。

 数メートル地面と平行に飛んで勢いよく廃墟の壁にぶつかった。コンクリートの壁に亀裂が入る。


「吹雪さんっ!」


 悲鳴にも似た声を上げて雹が駆け寄ろうとするのをかおるが止めた。


「離して下さいっ! 吹雪さんがっ!」


「落ち着いて。吹雪は大丈夫だから」


「何を言ってるんですか!? あんな-」


「いってーなぁ」


 聞こえてきた声に雹は続ける言葉を失った。


 見ると、尻餅しりもちをついたような格好の吹雪が普通に頭をさすっていた。


「でしょ?」


 驚いて言葉の出ない雹にかおるは悪戯っぽい笑みを浮かべた。





 吹雪は立ち上がると空木を睨み付けた。


「おいこらっ、今どきの草食系男子なら死んでるぞ」


 言外げんがいに自分は普通じゃないと言っている。


「‥お前、本当に人間か? 何故平気なんだ?」


 人外の者に不審の目を向けられ、吹雪が憮然ぶぜんとした表情になる。


「それこそてめえに言われたかねーよ。それに平気なわけあるかっ。普通にいてーよ!」


 『いや、それがおかしいんだけどね』と言うかおるの呟きは幸いにも届かなかった。


「‥小僧、あんた何者だい?」


「人より身体が丈夫なもんでね」


 老婆に答えながら、久しぶりに聞かれたその言葉に吹雪の脳裏を昔の記憶がよぎった。


(‥『何者』か‥)


 子供の頃によく言われた言葉だ。『化け物』とも言われた。吹雪の人間離れした力と肉体の頑健さは今に始まった事ではなく、物心ついた時には既に備わっていた。幼い吹雪はその異常さが分からず、力を見せ、そのたびに周囲から心無い言葉と視線を向けられた。分別がつくようになってからは手加減を覚え、人に気付かれないように注意していた。今、吹雪の周りでその事を知っているのは佐江子とかおるだけだ。吹雪の事を気味悪がらなかった数少ない二人でもある。


(‥何者なんだろうな‥)


 それは吹雪も昔から思っていた事だ。捨て子だった自分。天涯孤独の自分。自分のルーツが分からず、そのうえ人とは違う身体。自分は本当に化け物なんじゃないかと思った事もあった。自分というものが分からず、自暴自棄になった時もあった。かおるや佐江子のおかげで今ではそんな事はないが、やはり心の何処かでその思いはあった。


(‥‥)


 だが、今日、この時、今まで自分に欠けていた物、欲しかった何か、探していた答えを、吹雪はやっと見つけた。そんな気がした。態度には出していなかったが、吹雪は今、すこぶる気分が良かった。


「そんな事より、おら、でかいの、早くかかって来いよ。うちの居候をいじめてくれた礼はたっぷり返させてもらうからな」


「吹雪さん」


 吹雪の言葉に雹が胸を熱くする。


「生意気な」


 眉根を寄せた空木は次の瞬間、巨体を走らせて吹雪に迫って来た。


「危ないっ!」


 雹が声を上げる。

 瞬く間に間合いが詰まり、唸りを上げて襲いかかった拳はしかし、空を切った。


「!?」


 一撃必殺の攻撃を避けられた空木は、次の瞬間、身体をくの字に折って宙を飛んだ。ドスンと音を立てて地面に落ちる。


「二度も殴らせるかっ」


 吹雪が拳を突き出して立っていた。


「あんた、本当に何者なんだい?」


「知るかっ。聞き方が哲学的過ぎんだよ。そんな事より婆さん、分かったろ? 早いとこそのデカいの連れて帰った方がいいぞ」


 吹雪の言葉に老婆が笑みを浮かべた。


「あれで空木に勝ったと思ってるのかい?」


「吹雪さんっ、空木は人狼です。本当に怖いのは狼になってからです!」


 雹も警告の声を上げる。


「狼って‥」


 吹雪が半信半疑で倒れた空木に目を向けると、その手が動き、空木がゆっくりと身体を起こした。


「‥結構本気で殴ったんだけどなぁ」


 吹雪も少し驚いた。コンクリートが割れるくらいの威力で殴ったのだ。


「‥小僧、もうどうなっても知らんぞ」


 空木は無表情でそう言うと、全身に力を込めて叫び声を上げた。


「なんだ?」


 すると、吹雪の目の前でCGでも見ているかのように空木の骨格が変形し、その肉体が膨れ上がり、見えている皮膚に毛が生えてきた。その変化は急速で、見る間に空木の姿が人間以外のそれになっていく。


「おいおい‥」


 吹雪が唖然あぜんとしているうちにその変身は終わり、ゆっくりと顔を上げた空木の姿はま さに狼だった。


「‥狼男か、本当にいるんだな」


 思わず見入ってしまった吹雪が感心したように呟く。


「軽口もそこまでだ」


「吹雪さんっ、気を付けて!」


 雹の言葉を合図にしたように一回り大きくなった空木が襲いかかって来た。

 そのままの勢いで力任せに腕を振り下ろす。


「っ!?」


 吹雪が息を呑んで飛び退くと、一瞬前まで立っていた地面が爆発したように陥没かんぼつした。


「‥おいおい」


 呆れた声を出す吹雪に空木が続けて攻撃を仕掛ける。

 低い位置からすくい上げるように振るわれた拳はなんとか避けた吹雪だが、一歩踏み込み、横殴りに襲ってきた追い打ちは回避する事ができなかった。直撃を食らい、地面に叩き付けられる。


「吹雪さんっ」


「吹雪っ」


 雹とかおるが駆け寄ろうとするのを、


「来んじゃねー!」


 吹雪の声が止めた。


「立て」


 空木はもう驚かなかった。拳が当たる瞬間に吹雪が防御していたのを知っていたし、その感触もとても人の身体を殴ったものではなかったからだ。


「‥いってーな」


 ふらつきながら立ち上がる吹雪の口元には血がにじんでいた。


「よく立ったな。褒めてやる」


「何様のつもりだ馬鹿やろう」


 言葉を返しながら、吹雪は初めて自分の肉体を襲った衝撃に冷静ではいられなかった。


(なんつー馬鹿力だよ)


 昔、車にはねられた時でさえこれほどではなかった。ちなみにその時はバイトに遅れそうだったので、腰を抜かした運転手を残してそのまま現場を走り去った。


(‥勝てるか?)


 今まで浮かんだ事のない考えが一瞬頭をよぎるが、心配そうに見つめる雹とかおるを目にしてすぐに弱気を打ち消した。


「おら、かかって来い。殴りっこでケチョンケチョンにしてやるよ」


 吹雪は血を拭うと、己をふるい立たせて空木を睨み付けた。


「大した奴だ‥行くぞ」


 宣言すると空木は再び吹雪に襲いかかった。

 拳、もしくはその爪で吹雪を捉えようと両手を縦横無尽に振るう。一撃一撃がとんでもない威力の攻撃を吹雪は払い、かわし、いなしながら立ち位置を目まぐるしく変える。


「くっ‥」


 その表情に余裕はなく、そんな吹雪を見るのはかおるも初めてだった。


「吹雪っ! しっかり!」


「‥‥」


 雹はそれどころではなく声も出せないでいる。

 初めは防戦一方だった吹雪も少しずつ攻撃の手を入れ、その数を増やしたが、それと比例して受ける傷も増えていった。

 明らかに空木の方が優勢だったが、それは別に吹雪が空木より弱いという事ではなく、経験の差が表れた形であった。吹雪は確かに喧嘩の場数だけは踏んでいるが、その異常なまでの強さゆえ、今まで自分と比肩ひけんしうるほどの者と拳を交えた事がない。全力で戦った事がないのだ。その差が如実に出ていた。


(‥どうする?)


 その間も攻防の手は休まらず、空木に比べると吹雪はボロボロだった。服は破れて、所々血がにじんでいる。


(‥‥馬鹿っぽいけど)


 吹雪は突き出された拳を避けた勢いで距離を取ると、


「かおる今だっ」


 空木の後ろに向かって叫んだ。


「っ!?」


 慌てた空木が振り向くと、『えっ?』という顔をしたかおるがいた。


「引っかかるもんだな」


 空木が『しまった』という表情をした瞬間、向き直る間もなく吹雪の拳が深々とその腹に突き刺さった。


「グフッ」


 息を吐いて身を折る空木の後頭部に、吹雪が組んだ両手を有らん限りの力で打ち下ろした。

 すごい音を立てて地面に叩き付けられた空木を、荒い息を吐く吹雪が見下ろす。


「‥‥」


 雹とかおるが息を呑んで見守る中、空木が動かず、立ち上がってこないのを確認すると、ようやく吹雪は警戒を解いた。


「‥死んで‥ねえ‥よな?」


 息も絶え絶えで手を膝に付く。


「やった!」


「吹雪さんっ」


 歓声と安堵の声を上げる二人に吹雪も苦笑いで答える。

 だが、これで終わりではない。吹雪は疲れの色が隠せない顔を上げると、残された老婆に向き直った。


「婆さん、もういいだろ? 俺も疲れたからいい加減帰りてーんだけど」


「まさか空木が負けるとはね」


 そう言いつつ、老婆の態度に動揺は微塵みじんも見られなかった。


「婆さんも痛い目見る前に帰んな。俺も年寄りを殴りたくねーし」


「黙れ小僧っ!」


 老婆の一喝に空気が震えた。


「たかが人間の分際で、ようもこのあたしにそんな口をきいたなっ。空木を負かしたくらいでいい気になるんじゃないよっ!」


 その言葉とともに発せられる威圧感、本能が訴える危険信号に吹雪の首筋がざわつく。


(‥おいおい嘘だろ‥)


 思わず後ずさりしそうになった吹雪の背中に雹の声が掛かった。


「吹雪さん、婆様は空木より強いですっ」


「‥そういう事は早く言ってくれよなぁ」


 『話し合いで‥』という今さらな言葉が喉まで出てきた吹雪だった。





次が最終話です。

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