10 二人の過去
謎解き回?
その日、山はひどい吹雪にみまわれていた。昼過ぎまでの晴れた天気が嘘のように荒れていた。風で舞い上がった雪が辺りを白一色に染め、ホワイトアウトと呼ばれる状況を作り出している。こんな天候の日に人里離れた山奥の、しかも外で活動している人間などいない。
そんな中、雹は歩いていた。
普通の人間なら寒さで動けないような環境でも、雪女である雹にとっては関係ない。方向感覚を失うような視界の悪さもなんの事はなかった。逆にこういう日、人が山に入れないような日こそ、雹のような存在にとっては好都合なのだ。
傍から見ると奇異に映るが、雹は散歩を楽しんでいた。天気の良い日は人に遭遇する可能性があるので、里の者の反対もあって出歩けない。いい顔はしないが、こういう吹雪の日は大目に見てもらえるのだ。
だから、吹雪の日は雹にとって心が躍るものだった。
身を切るような風の冷たさも、雹にしてみれば心地いいものだ。目を閉じ、意識を集中すれば、山の動物達の気配も感じ取れる。
と、
「?」
ゴウゴウと唸る風の中、雹は聞き慣れない鳴き声を耳にした。
「‥何?」
風上から聞こえてくるその声が気になる。
「どうしよう‥」
だが、雹はいつの間にか里からだいぶ離れていた。これより先は行ってはならないときつく言われている。
「‥‥」
雹はしばらく迷ったが、何故かその声が無視できなかった。行かなければならない、ような気がしてならなかった。
「‥うん」
雹は一人頷くと、耳を澄まし、声のする方へ、声のする方へと足を動かした。
その声はひどく弱々しく、途切れ途切れで、ともすれば風の音にかき消されてしまいそうな程だったが、雹はその声を逃すまいと意識を向け、歩みを進め、しばらくして、ようやくその声がする場所にたどり着いた。
そこには、一軒の小さな山小屋があった。
人が使わなくなってからだいぶ経つのだろう。あちこち傷んでいる。その中から泣き声がしていた。そう、泣き声だ。
「‥」
雹は他に人の気配がないのを確認すると、意を決して小屋に入り、すぐ後ろ手に閉めた。
「やっぱり」
予想はしていたが、泣き声の主を目の前にして雹は驚きを隠せなかった。
暗がりの中、人間の赤ん坊が泣いていた。
分厚い布でくるまれ、ポツンと置かれていた。どれほど泣いていたのか、その声はかすれ、ヒューヒューという音がする。
「なんて事を‥」
雹は本能に突き動かされるようにそのそばに寄ると、ぎこちない手付きで慎重に赤ん坊を抱き上げた。途端、どこにそんな元気が残っていたのかと思うほどの大声を上げて赤ん坊が泣き出した。
「えっ? ええっ!?」
慌ててあやすが、火のついたような泣き声はおさまらない。
「‥どうしよう‥」
赤ん坊を抱いたまま、雹は途方に暮れた。
「元の場所に置いてきな」
老婆の第一声だった。
老婆はもう四〇〇年以上生きている里の長で、皆から『婆様』とだけ呼ばれている。里で何かあった時、何かを決める時は必ず老婆が出て来た。
雹は赤ん坊をそのままにしておけず、里に連れ帰ったのだ。すぐに大騒ぎになり、老婆の家に呼ばれた。そこには既に里の主だった面々が集まっていて、開口一番の台詞がそれだった。
「でも、そんな事をしたらこの子は‥」
雹の腕の中で、泣き疲れた赤ん坊が寝ている。
「あたし達には関係ないよ」
老婆は厳然と言い放った。
「そんなっ」
雹が非難の声を上げるが、老婆は顔色一つ変えなかった。
「それは人の子だ。あたし達には関係ない。そんな事より、どうして里の外に出たんだい? あたしは許した覚えはないよ」
「それは‥」
老婆の視線から目を逸らす雹。
「そうだろ?」
矛先を向けられた周りの者達が慌てた。
「あっ、はい」
「それは‥」
「わし達も‥」
皆、雹が時々外に出るのを知っていて目をつむっていたので、目線が泳いでいる。
「‥ふんっ」
老婆は鼻息を鳴らすと、再び雹に視線を戻した。
「とにかく、その赤子は里に置いておけない。返してきな。‥いや、あたしが返してくる。よこしな」
手を出す老婆に雹が声を上げた。
「そんな事をしたら、この子が死んでしまいますっ」
「元々、あんたが拾ってこなかったら死んでたんだ」
「そんな事は関係ありません」
「村の掟だよ。『人には関わるな』」
「‥こんなに小さい赤ん坊ですよっ」
「それこそ関係ないよ。さあ、渡しな」
「嫌です」
老婆から守るように雹が赤ん坊を背ける。
「あたしの言う事が聞けないのかい?」
「‥‥」
雹は無言で答えた。
「雹っ」
「っ‥」
老婆が声を荒げたが、雹の態度は変わらなかった。その様子にため息をつくと、老婆は口調を変えた。
「あんたがその赤ん坊を拾ったのは、古い山小屋だったんだろ?」
「‥はい」
雹が訝しげに答える。
「近くに地蔵がなかったかい?」
「そう言えば‥」
小屋の手前に雪を被った地蔵があったのを思い出した。
「だと思ったよ」
老婆は一人納得すると、すぐ側に座っていた男に目を向けた。
「間違いないかと」
見た目は初老の男が短く答える。
里に住んでいる人狼達の長で、老婆の次に長く生きていた。老婆に次ぐ有力者でもある。
「婆様、榊も‥何か知ってるんですかっ?」
「それは‥」
榊と呼ばれた男が言いよどむと、代わって老婆が口を開いた。
「雹、あんたは生まれてからどれぐらい経つ?」
「‥五〇年ぐらいだと思います」
いきなりの問い掛けに雹が怪訝な顔をする。
「だったら知らなくてもしょうがないね」
「だから、なんの事ですかっ?」
「あそこはね、あの山小屋は、人間が赤ん坊を捨てるための場所なのさ」
「っ!?」
衝撃を受ける雹には構わず、老婆は言葉を続けた。
「ここ何十年かはなかったんだけどね。昔は、口減らしやなんやらで、よく人間が 乳飲み子を置いていったんだよ。わざわざこんな山奥にね。そうやって死んだ子が、小屋の裏に大勢埋まってるよ。だから、その赤ん坊も死ぬのが分かってて、親に捨てられたのさ」
「‥‥」
雹が言葉を失う。
「分かっただろ? その子はそういう運命なのさ。人間の道理で、その子は捨てられたんだ。人間には人間の理がある。あたし達がどうこうする事じゃないんだよ。分かったかい?」
「‥‥」
声の出ない様子の雹に、老婆がもう一度手を出した。
「諦めな。さあ、その子をよこすんだよ」
「‥それならっ」
黙っていた雹が声を上げた。
「この子は、私の子として育てますっ」
「なっ!?」
驚き、二の句が継げない老婆。
「人の子としてではなく、雪女の、私の子として育てます。それなら人の道理は関係ありません」
一息に言って老婆を伺う雹。
「馬鹿を言うんじゃないよっ!」
案の定、老婆は眉を吊り上げて激高した。
「自分が何を言ってるのか分かってんのかい!? その子は人間だよっ。育てられるわけないだろっ!」
「育てます。私が責任を持ってこの子の面倒を見ます」
「無理だね! 犬猫じゃないんだ。そんな事できるわけがないよっ」
「できますっ。私が必ず育てます。誰にも迷惑はかけません」
雹は一歩も譲らない。
「‥‥」
「‥‥」
無言で睨み合う二人に、周りの者が固唾を呑む。肝を冷やしながらも口を出せないでいる。
「‥空木」
沈黙を破ったのは老婆だった。
「はい」
その呼びかけに、ずっと老婆の後ろで控えていた大男が前に出た。老婆の付き人をしている人狼の男だ。
「雹、婆様の言う事を聞くんだ。その子を渡せ」
「嫌です」
雹は後ずさりしながらしっかりと赤ん坊を抱きかかえる。
「‥そうか」
空木は老婆が頷くのを確認すると、静かに一歩踏み出した。
「なら、力ずくで渡してもらう」
「っ!」
一気に周囲の緊張が高まった。
と、その時、今までの騒ぎでも起きなかった赤ん坊が目を覚まし、急に泣き出した。
「あぁ、ごめんなさい。泣かないで」
雹が慌ててあやす。
「‥‥」
その様子に、張り詰めていた空気が霧散した。
「婆様」
その雰囲気を察した榊が口を開いた。
「許してやっても、いいんじゃないですか?」
「榊、あんたまで‥」
「婆様の言いたい事は分かります」
人狼の長はなだめるように話す。
「ですが、雹の気持ちも分かります。わしらも畜生ではありません。こんな小さい乳飲み子を捨てるのは、心が痛みます。人間の子とはいえ、婆様も哀れだとは思いませんか?」
「‥‥」
老婆が無言になる。
「この人の子に罪はありません。里の掟があるのは分かっとりますが、今回だけは、大目に見てやってはどうですか?」
ぐずる赤ん坊を抱いた雹が、祈るように老婆を見つめている。
「それに、婆様も知っとりましょう。雹は情があつい女です。その赤ん坊を取り上げたりしたら、何をしでかすか分かりませんぞ」
「‥あたしを脅す気かい?」
「とんでもない。ただ、少しだけ、今回だけ、折れてやってはくれませんか?」
「‥‥」
榊を後押しするように、居並ぶ者達も口々に訴えた。
「私からもお願いします」
「わしからも‥」
「皆で面倒を見ます」
長い間ずっと見て見ぬふりをしてきたが、こうやって目の前に赤ん坊を見せられると、やはり捨て置けないのだ。情という感情は、なにも人間だけが持っているわけではない。
「婆様っ、お願いします!」
とどめのように雹が頭を下げると、しばらくして老婆は深々とため息をついた。
「‥仕方ないね」
「じゃあ‥」
顔を上げた雹から老婆が目を逸らす。
「里の掟は守らせるんだよ」
「はいっ!」
雹の顔がほころび、満面の笑みで頷いた。
「これきりだよ」
「ありがとうございますっ」
背を向けた老婆に雹が再び頭を下げる。
「榊、皆も、ありがとうございます」
礼を述べる雹に、周囲もうんうんと頷いて温かい眼差しを送った。
「今日から、私があなたのお母さんですよ」
雹が語りかけると、赤ん坊は、見る者を幸せにするような笑みを浮かべた。
その日から、人間の子供が里の一員になった。
雹は、赤ん坊に『吹雪』と名付けた。
雹が最初に頭を悩ませたのは母乳だった。もちろん雹は出ない。ためしに薄めたお粥を与えてみたが、嫌がってすぐに吐き出した。
「どうしよう‥」
途方に暮れていると、人狼の女性が名乗り出てくれた。ちょうど乳離れをしたばかりの子供がいて、母乳が出た。
唇に乳首を当てられると、吹雪は両手でしゃぶりついて飲んだ。
「人間の子供も変わらないわね。うちの子供と同じ。こうして見ると可愛いわ」
「ええ、本当に」
必死に口を動かす吹雪を見つめる雹の目は、可愛くてたまらないといったものだった。
「‥‥」
だからこそ、自分の子なのに、自分が母親なのに、自分で乳をあげられないのが悔しくてならなかった。仕方がない事とはいえ、乳の出ない自分が恨めしかった。
そのぶん、雹は他の事で吹雪に尽くした。
里の女性に子育ての仕方、注意する事を聞いて回り、全力で努めた。夜泣きしては抱いてあやし、おしめを替え、温めた母乳をほ乳瓶で与えた。その献身的な様は本当の母親のようで、雹が人間の子供を育てる事に当初は難色を示す者もいたが、次第にその声は聞こえなくなった。
二ヶ月ほど経ち、要領の分からなかった育児にも慣れた頃、皆が驚くような事が起きた。
雹の胸から母乳が出たのだ。
その日、雹はいつものように吹雪を風呂に入れていた。一緒に入り、優しく体を洗う。その際、決まって吹雪が雹の乳首を口にくわえ、出ないと知って泣くのだが、その日は泣かず、乳首をくわえたまま離さなかったのだ。
「ん?」
不思議に思ってよく見ると、吹雪の口が動いて何かを飲んでいる。
「えっ?」
反射的に吹雪を抱き上げると、自分の乳首から母乳が出ていた。
「ええっ!?」
あり得ない出来事に雹が驚きの声を上げ、おっぱいを取り上げられた吹雪が抗議の泣き声を上げる。
「ああっ、ごめんなさいね」
慌てて抱き寄せると、もう離されまいと吹雪が必死に吸い付いてきた。
「あっ‥」
そのくすぐったいような、むずがゆいような初めての感覚に思わず声が漏れる。
「‥‥」
恥ずかしくなって雹が顔を真っ赤に染めるが、目を閉じて一生懸命におっぱいを飲む吹雪を見ていると、すぐに違う感情が湧いてきた。
「‥ああ」
(‥なんて‥愛おしい‥)
自分の腕の中で、夢中でおっぱいを飲む吹雪から目が離せない。この、小さくてか弱い存在が愛おしくてたまらなかった。この子のためなら何でもできる、と心の底から思った。雹が、本当の意味で母性に目覚めた瞬間だった。
この事は里の者を驚かせたが、子を持つ女性、とりわけ吹雪に母乳を与えてくれていた人狼の女はさもありなんと頷いた。
「それだけ、雹がその子を自分の子だと思い、自分でおっぱいをあげたいと思っていたって事だよ。母親ってのはそういうもんさ」
その言葉はとても表を喜ばせた。
それからというもの、雹は全身全霊をかけて、有らん限りの愛情を注いで吹雪を育てた。
一年が経ち、二年が過ぎると、吹雪はもうすっかり里の子供になっていた。
子供が少ない事もあって、人見知りのしない吹雪は里の皆に可愛がられた。そこに人間の子供という偏見はなく、皆が雹の子供として接していた。もちろん、一番可愛がったのは雹だった。大変だったのも雹だ。
人間の子供は里の子供とは違い、とても手間がかかった。乳離れしてもすぐに固形物は食べれないし、おむつもなかなか取れない。目を離すと何をするか分からなかったし、何もなくてもとにかく泣いた。とくに夜泣きが酷く、日中子育てで疲れ切った雹は、夜もほとんど眠れないような日が多かった。
そんな雹だったが、吹雪が少しでも笑って見せると疲れなど消し飛んだ。どんなにしんどくても、その笑顔を見るだけで雹は癒された。吹雪が言葉を覚えて、「お母しゃん」と口にした日などは、あまりの嬉しさとその可愛さに一人悶絶したほどだ。
雹は、本当に毎日が幸せだった。
吹雪のためにご飯を作り、吹雪を連れて山菜を採りに行き、吹雪の相手をして遊んだ。二人でお風呂に入り、夜は一緒の布団でくっ付いて寝た。日常の中心はいつも吹雪で、毎日吹雪の事を思い、いつでも吹雪がそばにいた。吹雪と出会う前の暮らしが考えられなかった。もう戻れないと思った。こんな気持ちを知ってしまった今、吹雪のいない生活なんて考えられなかった。ずっと、この毎日が続くものだと思っていた。
そんなある日、事件が起きた。
吹雪が高熱を出したのだ。
やはり、里の子供に比べると人間の吹雪は身体が弱い。病気などしないように雹はよく気を配っていたが、それでも風邪を引いて熱を出す事がたまにあった。そのたびに雹は心配で泣きそうになりながらも、薬草を煎じて飲ませ、手厚く看病した。いつもならそれで一晩寝ればケロッとした顔を見せる吹雪だったが、今回は違った。
もう、五日も熱が下がらなかった。
「吹雪、頑張って」
おでこに当てた濡れタオルを替えながら、雹は声を掛ける事しかできない。
里にはもちろん医者などいない。薬師に見せ、薬湯も飲ませたが症状は変わらなかった。人間だけがかかる病だろうと言われた。手の施しようがなく、このままでは危ないとも言われた。
「‥吹雪」
心配して様子を見に来ていた里の者も帰り、今は雹一人だった。辛そうに息をしている雹を見てその顔が歪む。
(‥もし‥)
このまま熱が下がらなかったら、と考えたくもない事が頭をよぎってしまうほど吹雪の顔はやつれ、衰弱していた。見舞いに来た者達も言わなかったが、それは表情に出ていた。
「いやっ」
思いが口から出る。
そんな事はありえない。それは絶対に受け入れられない事だった。想像するだけで身体が打ち震えるほどの絶望感に襲われた。吹雪が、吹雪が死ぬなんて事。そんな事は考えられない。だが、それは確かな現実感を持って雹の目の前にあった。
「‥‥」
不安と恐怖がない交ぜになった目で吹雪を見る。涙はない。泣いて、悲嘆にくれている場合ではない。自分は母親なのだから。
(‥どうしよう‥)
どうすれば吹雪の熱は下がるのか。どうすれば吹雪はまた笑いかけてくれるのか。この病気を治す方法はないのか。自分にできる事はないのか。考える、考える、考える。
「‥あっ」
思い当たる事があった。もしかすると、吹雪を助ける事ができるかもしれない。
(でも‥)
それは、里の掟で厳しく禁じられている事だ。絶対に破ってはならない約束事だった。
(でも‥)
吹雪を見る。その顔色は悪く、呼吸も荒い。辛そうに表情を歪めている。
「‥吹雪‥」
祈るような気持ちでその小さな手を握ると、かすかに握り返してきた。
「吹雪っ」
雹の呼び掛けに答えるように吹雪がうっすらとまぶたを開ける。
「‥お母さん‥」
「ここにいますよ。お母さんですよ」
だが、言葉を交わす事なく、吹雪はまたすぐに目を閉じた。
「吹雪っ吹雪っ」
雹が必死に声を掛けるが、吹雪は荒い息を繰り返すだけだった。
「‥‥吹雪‥」
小さく名前を呼ぶ。思わず涙が出た。だが、すぐに涙を拭って雹は顔を上げた。
「‥‥」
子供のためなら何でもできる。それが母親というものだ。そして、雹は吹雪の母親だった。
もうすぐ終わりです。




