初恋ショコラを探して
結婚生活六ヶ月目。
新婚気分も落ち着き、お互いの生活リズムにも慣れてきた。
慣れは油断を招く。甘えも出てくる。緊張感もほどけ、相手に対する気遣いもなくなってきた頃、事件は起こった。
共働きの夫婦が揃って休日の朝。
「ぷるぷるぷりんがない」
妻が冷蔵庫を開けた途端に悲鳴にも似た声を張り上げた。
「食べちゃったよ」
夫が何の気なしに答えた。その態度が妻の怒りに火をつけた。
「どうして食べちゃうの。ぷるぷるぷりんはわたしのよ」
「口寂しかったんだよ。一昨日から冷蔵庫に入れっぱなしだったじゃないか」
「お休みの朝に食べようと思って我慢してきたの」
「そんなこと言ってくれなければわからないよ」
「言わなくたって勝手に人の物を食べるなんて酷い」
夫は表情を歪ませた。非が自分にあるのはわかっているが、そこまで悪し様に言うものだろうかと思う。
自分の妻はこんなに怒りっぽい女だっただろうか。
一生ともにすることを誓い合って、たった半年でこれか。
これからも結婚生活は果てしなく続いていくというのに。
夫の不安をよそに、妻はキリリとした強い目線で夫を見上げた。
「買ってきて」
「なにを?」
「初恋ショコラ」
「あの、最近CMでやっているヤツ?」
「そう」
夫は流行り物には疎い質である。しかし勤め先の女性たちがこぞって騒ぎ立てているものだから、自然と知ることになった。数日前の経済新聞でコンビニの自社ブランド製品の販売戦略という特集記事を読んだ。初恋ショコラがその成功例として載っていた。
「あれはなかなか手に入らないらしいよ」
「ええ。だけど買ってきて」
「食ってしまったプリンを買ってくればいいじゃないか」
「あのプリンは北海道でしか売ってないの。北海道まで行く?」
「どうしてそんなプリンがうちの冷蔵庫に入っていたんだ?」
いまのいままで妻は夫に挑むような目線を投げかけていたが、目を反らした。
「職場でお土産にもらったの」
台詞の勢いが少しだけ衰えたように聞こえた。
きいてはいけないことをきいてしまったのだろうか。
なにか、心に引っかかるものを感じた。喉に魚の小骨が刺さったような違和感だった。
夫は家から一番近いコンビニに向かった。
高校の斜め前にあるコンビニで客層も高校生が中心だ。
コンビニの自動ドアが開くと軽快なメロディが流れる。
それが終わると、初恋ショコラのキャッチフレーズがアイドルグループのタイアップ曲にのって聞こえた。
『ケーキとぼくのキス、どっちがすき?』
何度きいてもすごいフレーズだ。臆面もなくこんな台詞を言えるのは若者の特権だな。
夫は三十代前半で若いつもりでいるが若者ではないと思い知らされる。
初恋ショコラが並んでいるはずの陳列棚に行くが、空だった。
そう簡単に手に入るわけがないか。
落胆する夫の横を高校の制服を着た男女が通り過ぎた。
「また百円しか持ってないの? 大貧民はこれだからイヤねー」
「百円あればコンビニのお茶が買えますぅ」
「今日はこの初恋ショコラは全部わたしのものね」
ぐるん! 音が聞こえそうな勢いで夫は振り返り女子高生の手元を見た。
いやいや、大の大人が高校生から奪ったらダメだろう。
夫は自重する。
男女は夫の挙動不審さに気づいた様子もない。
「あの……さ、また半分こで食べる?」
「おやあ? 一人で食べるのは寂しいんでしゅか」
「ムッムカつく! マジムカつく! デリカシーなさすぎ! 大体あのときだってベンチで……あのあとからかわれて大変だったんだからね!」
一人で食べるのは寂しいか。
高校生に諭されてどうする。
二軒目のコンビニは住宅街の中。
乾き物のコーナーの前で買い物カゴを持った男と女。男は少し汗臭かった。
夫が今よりも若い学生の頃、放課後にはこんな臭いをさせていたのかもしれない。当時の夫は気づいていなかったが彼女に何度か嫌な顔をされたことを思い出した。
女は不愉快でない程度の良い匂いがした。これ見よがしな厚化粧ではないということか。
「またそんな激辛せんべいばっかり選んで。これとこれはほとんど同じじゃん」
「甘い物は苦手だって言ったじゃない。君だってこれは何? チーズケーキと初恋ショコラって濃すぎ。よく歯が浮かないわねえ」
「にっがーいコーヒーをいれてくれるでしょ」
「仕方ないなあ」
残念。最後の一個は男が持つ買い物カゴの中だった。
三軒目のコンビニは駅近く。
レジの前を通り過ぎようとしたとき若い男と女が小競り合いをしているような会話が聞こえた。
「そろそろ寒くなってきたし、スケートの季節だと思わない? 近くの……」
「行きません」
「なんでそんなに冷たいの」
少年よ、諦めたまえ。おそらく脈は無い。
少年は夫にもイケメンに見えたが、その誘いを振るとは、この女の子は見た目で恋人を選ばない子なのかな。
店内に軽快なメロディが流れた。コンビニの自動ドアが開いたしるしだ。
夫は背後になにやらオーラを感じて振り返る。
それはもう目映いばかりの美貌を備えた男がレジに向かってきた。
女の子はさっきまでの冷めた態度を一変させて頬を赤らめた。
「あと五分で終わるから待ってて」
「わかりました」
たった一言会話を交わすだけでそこは二人の世界だ。少年がいじけている。かわいそうに。
そしてやっぱり見かけが全てなのかと、夫は他人事ながら気落ちした。
「もう、その姿は止めてって言ったじゃないですか」
「この姿の方が君を連れ回しても怪しまれないですから」
「体面とわたしとどっちが大事なの!?」
プクーッと頬を膨らませる。それを見つめる美貌の男の微笑みといったら。こっちの背中が痒くなりそうだ。
おおっと、初恋ショコラを買うのを忘れるところだった。
しかし忘れたていたとしても結果は同じ。この店にも初恋ショコラは無かったから。
四軒目のコンビニは三軒目の通りを挟んだ向かい側。
夫はほぼ初恋ショコラのみならず、ほぼ空の陳列棚の前で落胆した。
予想通りではあった。あれだけ大人気なのだ二、三、四軒回ったところで手に入るはずがない。
陳列棚の前には、どこかの高校の制服を着た痩身中背の男の子と、少しぽっちゃり気味の女の子がいた。
「あのおまじない、まだ流行っているのかな」
「売り切れてるな。独り占めして食べちゃって恨まれちゃうんじゃないのお?」
「ちょっ……、ひどい! あのあと胸焼けしちゃって大変だったんだからね」
「胸焼け……そうだな、あんなときにゲップするくら……」
ぱこーん。
男の子は最後まで言い切る前に、女の子に頭を叩かれていた。
「もう知らない!」
怒った様子で出て行く女の子を男の子が追う。
「待って、咲ちゃん、なんでも好きなお菓子買ってあげるから」
「いらない! これ以上太りたくない!」
夫はじゃれ合うようにコンビニを出て行く男女の後ろ姿を見送った。
店側にとっては迷惑な客だな、と思いながら。
四軒回ってみたが初恋ショコラを手に入れられなかった。
妻の怒る顔が目に浮かぶ。怒られるのがわかっていながら帰宅するというのも、あまり良い気分では無い。
もとはといえば自分の迂闊さが招いたことではある。
妻の怒りを静めるためにはぷるぷるぷりんを手に入れることが最も良いことなのだろうが。
本当にそうだろうか。
ぷるぷるぷりんは北海道土産。妻が食べずに取って置いた物。あれは北海道土産であることに意味があるのではないか。
土産。誰からの土産?
朝に刺さった魚の小骨は時間が経つとともに、その存在を主張していた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
声に怒りは含まれていなかった。
台所で炊事をしていて夫には背を向けている。
「朝、怒りすぎちゃってごめんね」
背を向けたまま妻が言った。
「いや、俺の方こそ勝手に食べてごめん」
「いいの。食べてもらって良かったような気がするの」
夫の方に振り向いた。
目は口ほどにものを言う。夫は妻の目に疾しい光がないか探ってしまう。
しかし何も読み取ることはできなかった。
「初恋ショコラあった?」
ここでなかったと答えたら、また怒りを招くことになるかもしれない。
夫は思案して、合法的に逃れる術を思いついた。
「ケーキとぼくのキス、どっちがすき?」
妻がキスと答えれば、初恋ショコラはなくても問題ない。
さあ、妻は何と答えてくれるだろうか。