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魔女の香る毒

作者: nisho

 海の果てで大口を開ける怪物の伝説。西の大陸で発明された望遠鏡。西の国から伝わる絹の織物。世の中を見聞きするほどに、世界を股にして冒険したいという欲望は膨らむばかりだ。

 そう思ってしまい家を出たのは五年前。今では少しばかり後悔してる。こんな世界の端の国に来てしまった。

 寂れた酒場で安酒をすすりながら、隣に座る同業者に昔話をした。帰ってきたのはケラケラと機嫌のよさそうな笑いだった。

「そりゃあアンタ、夢見すぎだろお。五年前って何歳? ヒイフウミィ……もう十八歳にもなろうってときにそんなこと言って飛び出してきたんじゃあ、帰れねぇわな」

 背中をバシバシと叩かれた。この酔っ払いめ。

「しかしよぉ。アンタもそんな可愛い時期があったんだねぇ? それが今はどうだい。城下じゃあちょっと名のある暗殺者!」

「声が大きい」

 こいつに話したことを後悔した。酒の席とはいえもう捨てた過去のことだ。なにを愚痴ってしまったのだろうか。酔いも興醒めしてしまう。それに、自分が暗殺者と周りに知られたかもしれない状況で、この場に留まろうとは思わなかった。

 カウンターに銀貨を転がすと席を立つ。

 後ろからまだ馬鹿笑いが聞こえる。「畑を耕しに家へ帰るのかい!」。馬鹿馬鹿しい。

 今にも壊れそうな木製の扉を押し、喧騒の店内を後にする。酒に火照った頬に、気持ちよく秋風が拭きつけた。じきに北国の冷たい風が酔いを醒まし、忌々しい冷たさにかわった。まだ日も落ちていないと言うのに、帰りを急ぐ人々は、温い暖炉をもとめて足早になっている。


 誰かが追ってくる気配に気付いたのは、店を出てすぐだった。

 あの馬鹿が大声で「暗殺者」なんて言うから目を付けられたのかもしれない。この職種を聞くだけで恨み辛みにいきり立つ輩はごまんといるのだから。

 一度目を付けられた以上、逃げ切ってしまうよりもここで仕留めて置いたほうが後腐れが無いか。

 適当な暗がりに素早く身を潜ませる。伺うと、下手糞な追跡者はあっさりと見失ってくれたようだ。キョロキョロとあたりを見回している。

「い、いるのか」

 怯えたように彼は誰もいない周囲に問い掛けた。若い声。

「後をつけたのは悪かった。話を聞いて欲しい!!」

「手を上げてこちらへ来い」

 男が身を竦ませた。

「ここだ」

 刃物をあえて見せつつ暗がりから立ち上がる。男の目には怯えが明らかだ。

 こちらの姿を確認した男は、声を震わせながらも必死そうに言う。

「わ、私はカールズと言います。あ、あなたが暗殺者と見込んで頼みが……」

 男の声は途中で切れた。ナイフの刃先が突きつけられたからだ。

「暗殺者の後を追うことがどういう事だか分かるかね?」

「す、すまなかった! 聞いてくれ! 悪意は無いんだ」

 今にも泣き出しそうな……いや、もうすでに目の端に塩水がたまっている。若い男のくせに覇気の無い。

 油断を解かずに数歩下がり、視線だけで続きを言うよう促した。

「あ、ありがとう……私はカールズといいます。じつは、あなたがプロの殺し屋という事で」

「同じ事を二度も言うな。手短に、要点だけ言え」

 隙間風のような低い声で男を脅すと、彼は口に綿でも詰めこめられたかのようにウウと唸った。

「その、殺しのプロのあなたに依頼をしたい」

「誰をだ?」

「だ、だから、あなたを雇いたい!」

「ちがう。誰を殺って欲しい」

 ワタワタと男が慌てて手を振った。その行動に目を細めると、再び慌てて今度は素早く両手を挙げた。

「あなたに頼みたいのは……私の婚約者が自殺じゃない事を証明して欲しいんだ」


 カールズは貴族の長男坊だった。彼が恋人のマァリと出会ったのは、下町のとある酒場だった。自分の住む屋敷を抜け出し、ときどきその酒場には飲みに立ち寄っていたそうだ。よく喋る明るい娘で、カールズはいつの間にか彼女を好きになっていたらしい。それまでの人生は夢で、彼女に出会ってからは目が覚めたような気分だった。とカールズは言った。カールズから交際を申し込み、二人の男女関係は始まった。一月ほどしたある日カールズはマァリを屋敷の夕食に招待したのだ。昼過ぎに屋敷に二人はやってきて、夕食を食べ、その次の朝彼女は死んだのだという。

 短い恋だったようだが、マァリとの思い出話は次から次へと出てくるようで、たびたび脱線する話の筋を修正しながら話を聞くはめになった。

 最初にカールズが言った通り、彼女の死の真相を探って欲しいと言うのが、彼の願いだ。暗殺者に頼むには風変わりな話だ。

 明日の昼ごろに指定した場所に来てくれとカールズは言う。今日が暮れないうちに話の裏を取ろうと町を歩いた。マァリがかつて住んでいたという場所を訪ねる。パン屋の娘。それが彼女の素性のようだ。近隣の人々を相手にするこじんまりとした店だった。

 店で売るパンは、パンの組合によって厳しく管理されている。各パン屋には、小麦の仕入れ量から、作るパンの大きさ、形までがパン職人組合で決められていると聞く。夕食用に店先に並んだパンはどれも丸く同じ色と形。ずらっと並ぶパンが夕焼けに照らされる眺めに、ついどれか一つにかぶりつきたくなる。シチューがつけば文句を言う隙がない。ざわざわと主婦たちが店前で話し込み、思い思いにパンを買っていく。

 最後に街で目撃されたのは二週間前。パン屋の主人は、「ここだけの話だが」と前置きをして娘が貴族に惚れ込まれ、家に招待されたという自慢をした。その愛娘が死んでるという事実は、きっと知らされていないのだろう。

 妻はどうしたのかと聞いてみると、もう亡くなっているようだった。数年前にパン釜のなか中で死んでいたのだそうだ。おそらく、掃除に入ったとき誤って入り口を閉めてしまったのだろう。密閉された釜のなかで炭に残り火があれば、気化中毒になって死んでしまうのだそうだ。下町で働くパン職人にしては、練炭の煙に毒があることを知っているとは博識だ。感心しているとパン屋は町の中で毎日火を扱う仕事なので、火事やその周辺の知識に詳しくなければならない、と教えられた。

 マァリはその死んだ妻と瓜二つな娘で、主人は彼女を溺愛したそうだ。

「出かける前は風邪を引いていて心配したが、いまは元気にやっているといいですね」と、父親は笑う。

 町の中心にある大聖堂の鐘が鳴った。目を細めて音のした彼方を仰ぎみる。音のした場所で、夕焼けの色に白い服を染められて、男が鐘をついている。パンを一つ買って宿に帰った。


 翌日、待合の場所から案内されたのはこの国にいくつも無いであろう規模の豪邸であった。この貧弱な男についていってもたいした家ではいだろうと気構えずに出かけたので、少しは肝をつぶされた。

 ここまで気の弱そうな若者が、まさか大家ロマノフ家の息子だとは。

 モグラも天に飛び上がるような事実を知って、始めは彼の依頼を断ろうかとも思ったが。

「父上。こちらが私の友人で、」

 彼の正体に動揺している隙に、結局舌先三寸で丸め込まれ、気がついたときにはカールズの父親に引き合わされていた。

 この屋敷の主人、ボロンゾフ・ロマノフといえばだ。

 現皇帝の従兄弟であり、国王陛下に一言を許される身分の男である。今は文官をしているが、元は軍人だったと聞く。なるほど、机越しに座る姿を見ても、服の下には鍛え上げられた分厚いからだがあることが見て取れた。

「イワン・ブリューゲル。ワーハイン騎士領で卸し業をしております」

 知るかぎりの最大の礼を取りながら挨拶をした。もちろん名義上使っている仮の身分だ。この名を聞くと、主人ボロンゾフは凄みのある笑いで答えた。

「イワンとは、この国の陛下と同じ名だな」

「はい。ですからブリューゲルとお呼び下さい」

 ボロンゾフは豪快な様子で笑うのだが、下町で飲んだくれている馬鹿どもとは違い、さりげない動作の中に気品と威厳が見え隠れしていた。

「ところで失礼ながらお聞きするが、息子のカールズとはどんな縁で知り合ったのだ」

 来たな。

 チラリと横を見ると、カールズと目が合った。細々とした打ち合わせはすでに済ませてある。

「たまたま酒を酌み交わす機会がありまして。それから懇ろにさせて頂いています」

「また遊び歩いていたのか?」

 屋敷の主がカールズに厳しい視線を向けた。流石は王族の血筋だ。ただの一瞥であるに関わらず、威厳がある。あれに睨まれたら暗殺者といえでも一瞬足を浮わつかせずにはいられまい。

 それに比べて息子はどうだ。タカがトンビを生んだのか、威厳も何も無い。あってせいぜい威光くらいのものだろう。その親の前では、シュンと小さくなり口の中でもごもごと謝罪を呟くしかないようだ。その情けない姿にボロンゾフは余計に腹を立てたらしい。「仮にも皇族の直径が」と説教を始めてしまった次第だ。

 あまり出来すぎた真似をしないよう、それを眺めていたら、

「いや、お見苦しいところをお見せしましたな」

 まったくその通りだったが、無難に苦笑を浮かべて対応する。職業柄、自分の表面を制御する事にかけては自信があった。それでいて常に内面は湖畔の水面の如く保ち続ける事が出来なければならない。暗殺者を廃業したら演劇家に転換してもいいかもしれない。冒険家よりはきっと儲かるだろう。

「それで父上」

 なんだ、と多少の侮蔑が篭った眼差しが不甲斐ない息子に向けられた。まったく役に立たない事に、彼の勇気はその一瞥で吹き飛ばされてしまったらしい。仕方なく後を引き継いだ。

「街でスリに遭い、私の財布を盗まれてしまったのです。幸い盗られたのは私用の金品だけで、商売用の金は無事だったのですが……」

 言葉を濁すと、ボロンゾフ侯は合点したという顔で頷いた。

「宿代が無くなってしまったという訳だな」

「ご明察でございます。それをご子息様に相談しましたら」

 ボロンゾフが口を挟んだ。

「下町ではせがれを呼び捨てにしているのだろう。構わん。普段どおりに呼びなさい」

「有難うございます。カールズに相談しましたところ屋敷に泊めていただけると仰ってくれましたので」

 今度はカールズが横やりを入れる。

「屋敷を見てやっと私がロマノフの者だと信じたらしく、門の前では相当驚いていましたよ」

 彼は少し愉快そうな口ぶりで話した。余計なアドリブを入れる奴だ。

 確かに驚きはしたが、そこまで顔に出ていただろうか。少し不安になる。これでは役者の道は諦めるしかないかもしれない。

「友人と言えど、人が話す途中に口出しをするな」と父に睨まれたカールズは、カエルのように飛び上がったあと黙った。


 執務室から出て、頼り無い依頼人に部屋への案内を頼む。

 とりあえず一息がつきたい気分だ。あれほどの人物の前でポーカーフェイスをやり通すのは思いのほか肩がこる仕事だ。それが無くとも気に入らない状況だというのに。

 まずそもそもの事情を詳しく教えてもらえているかといえばそうでもない。マァリがどうやって死んだのか、殺されたとすれば殺意を抱く者はいたのか。よくよく考えてみれば、カールズの恋人が自殺であったかどうかを知るために、この屋敷に入り込む必要性はあったのだろうか。まずは詳しいの話を聞いてから、それでも不明瞭な事があったときに、この屋敷に入り込めばよかったのだ。

 最終的には、客を装いこの場所に入り込むというのは変わらないのだろうが、状況がまったく分からずに敵地へと乗り込んできたような現在の立場がどうにも落ち着かない。

「とりあえずお部屋へ案内します。ええと……」

「ブリューゲルだ」

「そ、そうだったね。イワン・ブリューゲル」

 偽名ではあるが、覚えやすいだろうとこの国の皇帝と同じ名前にしたのだ。にも関わらず記憶に留めて置けないのか。せっかくの気遣いも無駄だったか。まったく頭の鈍い男だ。王族の男は天才か役立たずの両極端。そんな偏見が現実味を帯びてくるようだった。

 大陸の果てまで続いているのではないかと思わせる長い廊下の中ごろ。案内をする青年の足が一つの扉の前で止まった。

「つきましたよ。イワン・ブリューゲル」

「ブリューゲルでいい。その言い回しは嫌味か?」

「いやべつに」

 彼はドアノブに手をかける。きらびやかに調えられた部屋の光景がひらけた。

 思わず息を呑んでしまう。暗殺者といえど人の子。ほんの数年前には、ロマンを夢馳せ、家を飛び出した普通の子供だったのだ。この国に流れ着いた初めは、スリをして日々を暮らしていた。貴族風の部屋は、下町暮らしの人間にとってまるで、おとぎ話の世界の部屋のようだった。

「とりあえずお話は中で」

 促されて部屋の中へ踏み入れる。

 どこの者とも知れない急な来客に用意する部屋とは思えない。もし町でここと同じ部屋を借りたならば、一ヶ月の稼ぎは一泊で吹き飛んでしまうだろう。窓の外は夜の闇で、いま風景を臨むことはできないが、二階のこの部屋は昼間ならばきっと見晴らしが良い。

 出来るだけ感動を顔に出さぬように見回していると、いましがたから開けっ放しのドアから子供が飛び込んできた。

「お兄様!」

 まるで絵本から抜け出したお姫様。在り来たりな表現をすればそれだ。可愛らしい薄ピンクのドレスにウェーブの掛った金髪。宝石をあしらった髪飾りに、トルコ石のブローチ。手には純白の手袋までしている。自宅でこれほどに着飾る必要が何故あるのだろうか?

「レスリー。こんなところに一人かい? どうしたんだ」

「猫が逃げてしまって。それよりも」

 好奇心が詰め込まれたようなアーモンド色の瞳が二つ、こちらへ向けられた。兄を敬愛の眼差しで見ていた瞳は、途端に全身を撫で回すような選別の視線へと変わる。

「どなたかしら?」

「俺の友人だよ。事情があってしばらくここに泊める事になった」

 紹介されてレスリー嬢は丁寧な会釈を送ってきた。慣れない社交辞令にあわてて挨拶を仕返す。

「お兄様のお友だちですって? 初めまして。わたしはレスリテナスと申します。あら、お近づきの印にこれをどうぞ」

 彼女は自分の髪飾り―――宝石があしらわれた高価そうなそれを外してこちらに差し出した。白い手袋によって抓まれた髪飾りが空中でキラキラと光を反射しながら揺れる。

 宝石の装飾具は欲しいでもなかったが。正直、その行為は癪に触った。まるで公園のハトに、貴族がパンをちぎって与えるような、そんなどこか人を見下した雰囲気があった。何より職業柄、人から不用意に物を受け取る事には警戒をしてしまう。

 やんわりと断りの謝辞を入れる。

「いえ。お気持ちは嬉しいのですが、私のような下賎にそのような物は似合いませんので」

「私は似合うと思いますけども」

 彼女は首をかしげ、じっと見つめた後、

「あら、ごめんなさい。わたしったらてっきり、お兄様がまた女性のお友達を連れてきたのだと勘違いしましたわ。目が悪いって大変」

 不意に絵本の精霊が言ったのは、とんでもない嫌味だった。

 爛々とした瞳を下から可愛らしくこちらに向け、妹君は言った。この歳くらいの貴族娘は、無邪気さを盾にして何もわかっていない振りをすれば、どんな失礼をしても許されると思っているのだろう。

「レスリー!! お客様になんてことを言うんだ!」

「あはは。では子供は退散させていただきますわ。お休みなさい。わたしは寝ますけども、まだ夜は長いですわね。お兄様と、ハスキーなお姉さま」

 子供の癖に、笑えない冗談を残してドアノブに手をかける。

 叱りつける兄を尻目に、妹はスカートの端を持ち上げ、小憎たらしく優雅な礼をして退室していった。本当に嫌味だけを言いに来たのだろうか。

「すまない。無礼な妹で」

「兄とそっくりじゃないか。それにどうせ、もうしばらくすれば政略結婚でどこかに行ってしまう哀れな娘だ。あれくらい可愛げない方が下手な同情心がわかなくていい」

 さすがに軟弱者のカールズも、この言葉にはカチンときたらしい。文句を言おうと彼が口を開きかける。がそれよりも早く、

「彼女の目が悪いというのは?」と聞いて、彼の言葉を誘導してやる。

「ああ。今よりも小さい頃に悪戯をして農薬を飲んでしまいまして。高熱を出して、そのときから視力が衰えてしまったのです」

 目がやられたのか。それについてなにか皮肉を言おうとしたが、思い留まる。彼をからかっても意味はないだろう。色々とあって疲れていることだし。

「ではお休みなさい。お兄様」

 レスリー嬢を真似した仕草を取ると、その仕草に戸惑ったカールズを素早く扉の外に押しやった。不意をつかれた彼の表情が少し愉快だった。

「ちょ、ちょっと!!」

 扉が音を立てて叩かれる。迷惑に感じながら扉を少し開けて隙間からカールズを睨んだ。

「馴れないやり取りに疲れた。話は明日聞く」

 ピシャリとわざと音を立てドアを閉めると、彼は諦めて去ったようだった。扉に鍵を掛け、それから窓ガラスを押し上げ、雨戸を閉める。簡単なかんぬきがあったのでしっかりとかけた。

 そこそこ安心できる空間ができ、ベットの上に頭から身を投げた。意外なほどに、身体がマットの中に沈んでいく。

 事前に想像していたよりもずっとやわらかい。心地よい感触の中に体が沈んでいく。ひんやりと冷たい部屋の空気から逃れ、暖かいベッドに飲み込まれていく。部屋の端には暖炉があったが、まだ使う時期には早いのだろう。鉄の扉でぴったりと蓋がされていた。それなのに妙に暖かいなとおもったら、毛布をめくると金属製の木炭タンポがでてきた。客が来たことを知って使用人が気を利かせたのだろう。

 暗殺者といえども人の子。一般庶民ならば一度はこんな豪華なベッドに憧れるものだ。

 しばらくフワフワの毛布の中で幸せを噛み締めていると、ドアの外で小さな気配がした。反射的に立ち上がり、懐をまさぐる。ハタと気付いて自分の行為に苦笑した。いつもならばそこに鉄製の尖った物を隠しているのだが、まさか貴族の屋敷に入り込むのに物騒な光物を持ち歩くわけには行かない。見つかったときの言い訳に苦労するだろうから。

「もうお休みになって?」

 コツコツと控えめに入り口が叩かれた。女の声だ。低めの声色から歳を推測すると三十か四十代だろう。

「どなたでしょうか」

「あら起きていらしたのね。開けてよろしいでしょうか」

 夜中に突然訪れて部屋に入ろうとするとは。しかも名乗らずにとは少々図々しいのではないか。

 だがこんなに率直に意思表示をされては、むげに断るにもいかない。貴族の女は礼儀知らずだと先ほど学んだばかりだ。広い心で許したことにしよう。

「はあ、どうぞ。いま開けますよ」

 答えながら鍵を解くと、扉がおしとやかに開かれる。同時に香水の清涼系の香りが部屋に割り込んできた。部屋の前で香水を使ってから入ったて来たのかもしれない。予測どおり中年の上品そうな女性だった。もちろん知らない人間だ。先ほど言ったのと同じ質問を繰り返す。

「失礼ですが……どなたでしょうか?」

「あら」

 彼女は面白そうに口元に手をやった。また話の本筋に関係しないが、美人だとは思う。すこしシワが出来始めた面立ちだが、むしろそれが中年の魅力を引き出してさえいるようにも思えてしまうのだから。

「申し送れましたわ。素性の知れぬ者をお部屋にお招きになるなんて、勇気がおありね」

 またも質問をはぐらかされたような気がする。口調は穏やかだが、どこか皮肉めいたニュアンスを感じさせた。

「いえ奥様こそ。この素性のわからない商人の部屋へこんな夜遅く。私だったらとてもそんな果敢な事は出来ませんよ」

「お口が達者ね」

 上品に笑いながら彼女は言うが、その言い方がどこか気に障った。先ほどの姫君といい、どこか言い回しが嫌味っぽい。カールズにしても、仕草がどこか芝居がかっている。貴族特有の性質なのだろう。

 こちらからの質問をはぐらかされ、まだこの奥方が何者なのか分からなかった。目の前にいる者がなんなのかを知らないというのは、居心地が悪い。また同じ質問をしてもはぐらかされる様な気がしたので、方向性を変えて自己紹介をさせる事にする。

「私はイワン・ブリューゲルと申します。カールズ様にお招き頂きました」

 こちらが名乗ると、彼女は深く頷いて笑顔を浮かべた。

「ご丁寧に。わたくしはフィアネル・クラムハットといいますわ」

「ク、クラムハット、ですか」

 名前を聞いて思わず苗字をオウム返しに呟いてしまった。クラムハット家といえば、陸軍のお偉い所ではないか。ベッドの心地よさに、この場所が皇族の屋敷という事をすっかり忘れていた。なるほどどうも、名士たちが納屋の中のかぼちゃのように、ごろごろと転がっている屋敷らしい。

「あら、恐縮なさらないで。わたくしはただ、あのシャイなカールズがどんなお友達を連れてきたのか興味があって来ただけですのよ」

 シャイ? とてもじゃないが、下町の酒場で暗殺者に声をかけるような男がそうだとは思えなかったが。

「きっと友人に飢えているのでしょうね。少し前にもあの子の恋人がお亡くなりになったばかりだし」

 言ってからフィアネル夫人は「アッ」と手で口を押さえた。つい言ってしまったという仕草だが、その明らかにワザとらしい演技には、思わず苦笑しそうになるのを押さえなければならなかった。

「そうなのですか? 初めて知りました」

「やっぱり」

 なにがやっぱりなのかは知らないが。彼女はまるで少女のように目を丸くした。本当に舞台役者のような振る舞いだ。それからまるでこちらの反応を伺うように、じっと見詰めてくる。

「彼も気の毒ですね。何があったんでしょうか?」

「あなたも遠慮というものを知らないわね」

「あ、いえ。気を悪くなされたのならば謝罪します」

 先ほどからそうだが、夫人は常に自分が主導権を握って会話を楽しみたいようだった。恐らく見下されているのだろう。

「そうね。あれは毒のようでしたわね。服毒、と言うのかしら」

「服毒? というと?」

 相手がペースを握り続けようとするならば、それに合わせてやればいいか。そう観念してあいずちを打った。屋敷に着たばかりで、余計な波風を立てたくないことだし。

「いえ、お医者様の言うには事故かもしれないって。でも私は自殺だと思いましたわ」

 自殺、という言葉のときだけ、秘密の打ち明け話をするかのように声の調子が下がった。

「クラムハット様も見たのですか? その、死んでいる彼女を」

「フィアネルと呼んで頂いて結構よ」

 彼女はそう言ってから話を続けた。

「そうですわね。わたくしも見ました。ここで自殺なされたの」

「ここ?!」

 いまいる部屋を振り返って大げさに驚いてみた。演技じみた仕草だったろうかと、声を上げてから反省した。どうやらフィアネル夫人の仕草が移ったようだ。

 だがその大きすぎる動作も、彼女を喜ばすには一役買ってくれたらしい。彼女は嬉しそうに、

「ああ、いえ。この部屋ではありませんよ。このお屋敷で、です。彼女の部屋は一階だったわね」

「そ、そうでしたか。よかった。それが嘘ならば一晩眠れずに過ごす所ですよ」

「フフ。面白い人ね」

「いえ、貴女には敵いませんよ。失礼ですが貴族のご婦人達はもっと消極的な方ばかりらのだと思っておりましたから。それともフィアネル様は特別なのかな?」

 婦人は特別視されてご機嫌の様子だった。持ち上げれば喜んでくれる人種なのだろう。

「わたくしだけではありませんよ。みんな面白い方ばかり! 今日は遅いですから、明日皆さんにあなたを紹介してもいいかしら?」

「そんなお気を使わなくても。一介の商人が場違いではないでしょうか」

「あらそんな事ないわ。あなたなら、黙っていれば貴族とだって通せますよ」

 いつのまにか彼女の言葉に親しみの様なものが含まれている。気を許していただけたということか。

「ではそろそろ遅いですし、ここで退散いたしますわ」

「貴女がいらっしゃった時から、もう遅い時間でしたよ」

「あらあら。ご迷惑だったかしら」

 面白そうに手を口にあてた。きっと次の言葉を予想して待っている。ならばその期待に添ってやるのが礼儀という物か。

「いえ。面白いお話が出来ましたから。これなら睡眠の時間をもう三時間は削って話してもいいくらいで」

「お肌が荒れますわ」

 それから二人で笑った。

 嵐のようにフィアネル夫人は、去る時も場を賑やかにしていってしまった。

 これが貴族の会話というものか。疲れた。おそらく彼女は、恋人を無くした屋敷の後継ぎがどんな友人を連れてきたのかを気にしてここに来たのにちがいない。こちらの挙動ひとつひとつをさり気なくだがつぶさに観察している様子だった。

 カールズが去ってからこの屋敷を軽く回ってみるつもりだったが、あんなのにまた捕まったらたまらない。おとなしくベッドに倒れこむ事にした。

 この屋敷の中でやさしくしてくれそうなのは、どうやらこのベッドだけのようである。木炭タンポを抱きしめて眠った。



 どうやら先の夫人には気に入られてしまったようで、朝一に来た使いは彼女の命令で来たようだった。

 目の前にいる使用人の老人曰く、

「ブリューゲル様を朝食にお招きするよう承ってきました」

「分かりました。身を整えてから行きますので、食卓の場所だけ教えてくれないでしょうか?」

「はい」

 流石は豪家の使用人だ。老人とは思えないきびきびとした受け答えは、どこか軍人のそれを想い出させる。

 老人が去ったあと、素早く準備を整えて廊下へと出た。

 残念な事に鍵を渡されていなかったので、外からは戸締りをする事が出来ない。見つかって困るような物は持っては来ていないが、それでもどこか落ち着かない気分だ。

 朝食の席に出て驚いたのは、この屋敷の主であるボロンゾフまでもが居たことだった。まさか突然の来客である自分が、公国の実力者である人物と優雅に朝を楽しめるとは思っていなかった。暗殺者と知らぬとはいえ、いささか無用心すぎるような気がする。後継ぎ息子が連れてきた謎の人物にそれほど興味を引かれたのだろうか。

 食堂にいたのは、ロマノフ家の面々――ボロンゾフ侯と、カールズと妹のレスリー嬢――を筆頭に、昨夜部屋に押しかけたフィアネル・クラムハット夫人とその娘アッシリア嬢。ボロンゾフ侯の友人だという人間が二人。名を聞いてもクラムハットやロマノフとは違い、ぱっと思い浮かぶ分けではなかったが、その顔はどこかで見たことがある。

 メニューは白パンと卵スープとサラダにコーヒー。レスリー嬢とアッシリア嬢の二人はオレンジジュースを飲んでいたが。下町の安い宿に泊まれば、夕食にも出てこないような豪華な献立だ。まったく貴族と市民の差はここまで顕著にあったのか。時たま起る革命運動が成功しない理由が何となく垣間見える。

 例の如く、遠まわしの会話がしばらくなされた。ほとほと疲れてしまう。内容としては城下町にたむろうゴロツキ達がする会話とたいした違いはない。朝の天気や、今日の予定を伝え合う。下町の会話と違うのは、上品な言葉遣いくらいだ。例えばアッシリア嬢が最近香水を母親と同じものに変えたという話を聞いて、どこを楽しめと言うのか。

 昔住んでいた場所での、農民たちがする素朴な会話が懐かしい。レスリー嬢がなにかと飼っているネコの話をしたがるのには微笑ましさを感じたりはしたが。それくらいだ。食事中、目が悪いと言う話は本当かと、レスリー嬢を少し観察した。少し離れた場所にてを伸ばすときに多少のぎこちなさを感じたが、屋敷の中を歩き回るならば不自由しない程度には見えるようだ。

 さっさとこんな仕事を終わらせて立ち去りたい。それにはカールズの恋人がどんな風に死んだのかの情報を集めなければならなかった。まあ、食事の場で自殺の話を始めるわけにはいくまいが。

 それに引きかえ、どれだけ話を引き出されたか。あなたは何処のどういう身分なの? と、知ってどうするんだと言い返してやりたくなる様なことを根掘り葉掘り。もちろん身の上を詐称しているのだから、ボロを出さぬように細心の注意を払いながら受け答えをしなければならない。そのお陰で、せっかくのご馳走がどんな味だったかまったく覚えていない。勿体無い事をした。

 依頼人であるカールズは苦笑しながら一部始終を黙ってみている。助け舟を出すつもりは毛頭無いようで、「おば様はブリューゲルがお気に入りのようですね」と言う始末だ。この調子で夕食にも誘われてしまったらどうしようかと真剣に悩んでしまう。


「さて、話を聞こうか」

 朝食が終わったら自室にカールズを引っ張り込んで、多少強い口調で詰め寄った。早く依頼を終わらせて、こんな屋敷からはおさらばしたい。

 しかしカールズは、

「そういえば、あなたはこれからどうするつもりですか? ずっとこの屋敷にいてもいいですよ」

 と、まったく質問とは関係ない返答をしてくる。この屋敷の人間は誰もがこの調子なのか。自分中心に会話をする。心中のイライラを一瞬押さえられず、顔にそれが出てしまう。こいつの前では隠そうとも思わないが。

「そんな怖い顔しないで。今から話しますって」

 さすがの皇族青年も不機嫌な暗殺者には物怖じしてしまうらしい。お喋りな他の貴族連中にもこの強面が使えたらどんなに良いだろう。

「何処まで話したかな。ともかく恋人のマァリが、六日前に死んだんだ。事故ということで処理されてしまった。ここまではいいかな」

「思っていたより最近のことなんだな。何処で死んだ」

「屋敷の一階にある客間だ。朝、彼女を起しに行ったとき、窓際で倒れているのを見つけた」

 それを聞いて、思わずこの部屋の窓を見る。ガラスを押し上げるタイプの窓だ。昨日の朝までいた安宿とは違い、作りもしっかりしており隙間風も少なそうな窓だ。

「窓際? 窓は開いていたのか」

「全開だったね。窓ガラスをあけるとこぶし二つ分くらいのでっぱりがあるんだ。一階の部屋にはそこに浅い水受けが置いてあるんです」

「なんのために?」

「まあ、知しるわけないよな」

 カールズが苦笑した。一睨みするが、肩をすくめられる。

「朝日が昇る時間に、運がよければ小鳥が水を飲みに来るんだよ。鳥の声で目が覚めるんだ」

 それはそれは雅なことで。

「彼女が倒れているのを見つけた朝、窓の外に小鳥の水受けが落ちていた。父はマリーが水受けの水を、飲み水だと勘違いして飲んだのではないかと父は言っている。貴族の人間は、下町の人間を何もわからない馬鹿だと思いたがるしね。実際のマリーは知恵のある賢い女性だったけど。話をもどすと、地面に落ちた水受けには水は入っていなかった。でもすぐ傍に死んでいる虫が数匹いたから、水受けに毒物が入っていたことは確からしいね」

「水受けに毒が入っていたのは何らかの偶然。すなわち事故ということか。無理がないか?」

 言うものの、カールズの表情も納得して喋っているようには見えない。

「当日の昼ごろ、彼女が屋敷に来る前に庭の草に農薬をまいていた。それがたまたま入ったのだろうと言う事になっている」

 貴族に見初められた町娘が、鳥用の水とは知らず、窓際にあった水を飲んだ。その結果死んだのは確かに事故である。彼女を殺そうと思う者がいたら、窓の外の水受けに毒を入れるというのは遠まわしすぎだろう。水受けの毒を飲んで倒れ、その皿が窓の外に落ちていたというのは少し不自然だが……まあなくはないだろう。

「彼女の葬儀はしていない。父は事故として内々に事件を葬り去るつもりらしい。彼女の死体はいま教会の地下安置室にあるよ」

 カールズはうつむきながら、務めて事務的な口調で言う。

「ところで死んだ毒は農薬だったんだな」

「いえ、医者に問いただしたところバジリクスと言っていた。父に口止めされていたらしいけどね。よく分からないけど、特別な毒らしい」

「バジリスクだと……?」

 随分と変わった毒だなと考え込む。しばらくして顔を上げるとカールズと目があった。あの様子だと、バジリクスがどんな毒なのかは知らないのだろう。

「身体の一部、もしくは全体を石化する毒の総称だ」

「石化? 俺は彼女が倒れている所を見たけど……石になっているようには見えなかった」

「一部、と言っただろう。見えない場所かもしれない。何か気付いた事はあるか」

 思考するように促す。少しの沈黙の後、

「そういえば、顔がとても青かった。口から泡も吐いていた」

「多分それは窒息だな」

 すると、彼は余計に困惑した顔をする。石化と窒息死が関連付けられないらしい。

「例えば喉に石を作ったりすれば息が出来なくなるだろう? 気官系、声門、もしくは甲状腺を石化すればノドが圧迫されて息が出来なくなる。横隔膜の硬化で窒息したのかもしれないな。肺の一部を石化させるだけで、上手くいけば息ができなくなることもある」

 これ以上はない懇切丁寧な説明だったと自負するが、それでも彼にはあまり理解できなかったようだ。まあ確かに、医学の心得が無いものに人体学を披露しても伝わらないか。これが暗殺者仲間ならば一を言えば十を理解してくれるのだが。

「実際にどんな効果だったのかは、自分の目で見た訳でないから分からないがね。今の推測だって、医者の言ったバジリクス毒の話を信じたら、での講釈だ」

「人間の体が石になるなんて、信じられないな」

 まだ納得がいっていない様だ。もっともな話だが。

「実際には道端に落ちているような石とは違う物らしい。骨化や硬化と言った方がより正確なのかな? まあ魔女の作る薬だ。どんな物なのか知りたいなら、彼女たちに聞いてくれ」

「魔女!」

 青年の目が驚きに見開かれた。

「マリーは魔女の呪いで殺されたのか!」

 語尾が荒々しく放たれる。呪いなんて物を信じているとは、随分とロマンチストだ。

「違う。毒を作ったのは魔女だが、使ったのは別の人間だ。現実に呪殺なんかが存在したら、それこそ暗殺者は厄介払いだよ」

 魔女とは調合のエキスパートたちの事だ。毒薬から風邪薬まで彼らに作れない薬はないと言う。「馬鹿を治す薬」だけが唯一作れない、なんていう冗句があるほどだ。

「根本の原因が魔女にあるなら、悪いのも魔女じゃないか」

「それも違う。お前は暗殺者によって家族を殺されたらその暗殺者を恨むのか? お門違いだ。暗殺者を差し向けた依頼人を恨むべきだろう?」

「だが……」

 身の上を例に挙げたせいか、カールズは複雑そうな視線をこちらに向けた。

「仮に暗殺者を恨んだとしよう。その時お前は、家族の命を奪ったナイフ、それを作った鍛冶屋を断罪するのか?」

 そう、我々はナイフだ。そして意思を持ってナイフを振り下ろすのは依頼人なのである。罪悪があるのならば、それはナイフではなく振り下ろした者にある。

 だがカールズは反論をしてきた。

「言葉遊びは嫌いだよ。ナイフは人を殺すために造られるんじゃない。でも魔女は、それで誰かが死ぬ事を承知で毒を作る。それは罰せられるべきだ」

 随分と綺麗な意見だ

「だがお前は、マァリに毒を差し向けた犯人を殺して欲しいんだろう?」

 突然の話題転換に、カールズが目を開いて驚いた。

「なっ!? 急になにを!」

「暗殺者を雇ったとはそういうことだろう。自殺でない事を証明したければこんな面倒な事をしなくてもいいはずだ。両家の坊ちゃんが下町まで直々に暗殺者を探しにくるなんてね。それをした理由は一つ。事故でも自殺でも無かった場合の向こうにあること……あんたの大事なフィアンセを殺したやつに報復してやりたいからだろう?」

 カールズが息を呑んで、黙った。しばらくお互いに見つめあい、あるいは気まずそうに視線をはずし黙りこくる。少し付きあってやったが、すぐに飽きてしまい話の続きをすることにした。

「話を戻す。他に気付いた事はないか」

 しかし彼は黙って首を振る。

「そうか。じゃあ出かけるから門まで送ってくれ。この屋敷を一人で歩いたら迷いそうだ」

 というのは方便だ。一度通った道はもう覚えている。本当に厄介な事は、またお喋り好きな貴婦人や、言うことに毒がある小娘に出くわした時だ。そんなときに彼がいれば、多少はやんわりと回避する事が出来るだろう。

「出かけるって……何処へ?」

「色々と、言えない事だ」

「なんだよそれ」

 先ほどの会話を引き摺っているのか、まだ不満そうな声色で彼は口を尖らせた。

 その質問には何も答えずに、微笑で返事をする。そうすれば彼を黙らせる事が出来るのは分かっていた。暗殺者の意味深な笑みには、得体の知れない迫力があることは自覚している。

 廊下に出て階段を降りていくと、途中でレスリー嬢が現れた。

「お出かけですか?」

 腕の中には灰色の猫を抱いている。青と黄色の違い目。その特徴をしたネコに思い当たるものがあった。

「その方が朝食の時に話していたテナス氏ですね」

「女の子だからテナス婦人よ」

 昨夜彼女から言われた嫌味を思い出した。残念な事に、イヌネコの性別を見分けるスキルは持っていない。

「それは失礼。テナス婦人に怒られてしまいますね」

 段々と様になってきた貴族風の仕草で謝罪の礼をすると、彼女は笑いながら頷いて、

「大丈夫、怒ってはいないみたい。猫は犬より頭が悪いし、人間の言葉が分からないの。可哀相よね」

 その言い方は少し面白いと思った。

「きっとテナス婦人は、貴女の言うことなら分かってくれますよ」

「そうだと良いわね」

 会話がとりあえず終わったのを見計らい、カールズが言葉を挟んだ。

「レスリー。この人はこれから出かけるんだ。邪魔をしちゃあいけないよ」

「あらそうでしたの。失礼しましたわ。でも今夜もお泊りになるんでしょう?」

 その話は、朝食の時に聞きだされたことの一つだ。それを言ったときに、嫌な顔をする者と、嬉しそうな(もしくは面白そうな)顔をする者がいた。オバール氏は事前にこのことを知っていたのでどちらの表情もしなかったが、レスリー嬢は後者だった。

「そうですね。しばらくご厄介になるかもしれません」

「じゃあ今晩は歓迎のパーティね」

「レスリー。ご迷惑だぞ」

 彼は妹を咎めてばかりだ。彼女のアーモンドアイと目が合った。多少潤んでいるのは演技だろか。そうだとしたら、役者の才能は彼女に負けてしまっていることになる。

「ご迷惑かしら?」 

「友人の妹君の頼みですから。断りを入れるなんて出来ませんね」

 パッと彼女の顔が明るくなる。演技か否か。やはり判断する事は出来なかった。

「よかったッ! お父様に伝えておきますわね。それではお気をつけて」

 そのままぎゅっと猫を抱いて、レスリー嬢は階段を駆け上がっていった。現れる時も去る時も突然だ。

 案の定、夕食もこの屋敷の面々と取ることになってしまい、予想済みの最悪に思わず溜め息を吐いてしまった。


 あえて遠回りの道を選んで目的の地へ向かった。

 屋敷から一時間ほど歩けば、同じ町とは思えないほど空気が変わる。朝方の町は、死の夜から生き返ったかのように、様々な人間が歩いている。息吹を取り戻したかのような町の活気は好ましい。こんなことを言うと、また暗殺者仲間に笑われそうだ。

 曲がりくねった細い道、日の当たらない場所。どんな人間が住んでいるのかを想像しようとは思えないボロボロの家屋がひしめき合う。建物一つ向うには大通りがあるはずだが、石の壁は朝の喧騒を阻んでしまう。表通りから裏道に一歩踏み込んだだけで遠くの町に来たようだ。建物の隙間から尖塔が見えた。街の中心にある大聖堂の尖塔だ。朝日を向こうがわにして、尖塔の上で人が鐘をついているようだ。影人形のように黒い人影が、鐘を突いている動きをしている。ああいう光景が見えると、ここも町の一部なのだと少しホッとした。

 裏路地を歩く者の殆んどが店と気付かないような店がある。看板が無いのだから当然だ。

 足で小突けば向こうに倒れてしまいそうなボロボロの木戸を押して、その店に入った。

 部屋の中が暗いのは窓という窓に分厚いカーテンがしてあるからだ。それより、いつもここに入ると思うのは、じめじめとした見かけに反して随分と乾燥した空気。何か特別な仕組みでもあるのだろうが、よく分からない。

「婆さんいるか」

 しかし答える声は無かった。鍵が開いていたということは、中にいるはずなのだが。

 もう少し声を大きくして、家の奥に呼びかけたが出てこない。待っていれば来るかと、店の中にある薬瓶に手を伸ばした。化粧瓶ほどの小さな入れ物ばかりだ。

「盗難避けの毒が塗ってある。触らないほうがいいよ」

 奥の扉が開き、音も無く姿をあらわしたのは、黒いマントで身を包んだ老婆だった。扉の向こうから老婆と共に甘い匂いもやってくる。彼女の言葉に、瓶に伸ばしていた手を引っ込めた。絵本の魔女ならば、王子の口付けで解けるようなロマンチックな魔法を使うが、この魔女にはそんな情緒は微塵もないだろう。

「菓子でも作っていたか」

「惚れ薬さ。あんたも恋人が欲しい年頃だろう、買うかい?」

「いらないな。苦さも辛さも無い、甘いだけの偽物の恋というわけだ」むせるような甘い匂いに顔がしかまる。

「詩心があるんだね」

 にやりともせず老婆が答える。暗い店内に浮かぶ彼女の姿は不気味で、こちらより暗殺者じみている。ここにあの気の弱い依頼人が居合わせたら、涙を浮かべて逃げ出すに違いない。この老婆は、カールズも大嫌いな魔女だった。

「薬を買いに来た」

 そう告げて、入り用な薬の種類をいくつか述べた。ここは薬、特に表通りでは手に入れることの出来ないような物を扱っている店だった。それ以外にもよく効く傷薬や、血の匂いを消す香水は便利だ。屋内の空気が乾いているのも、おいてある薬類を駄目にしないためだろう。

「ところでバジリスクについて聞きたいんだが」

「変わったものを欲しがるね。なにを固まらせたい? 腕かい? 足、声、耳?」

「変わった毒なのか? 知っているだけで使ったことはないのだが」

「そうだね。致死のバジリスクの場合、死に至るまでの石化のあいだ相手を苦しませるのが最大の目的だよ。気化毒に出来ないのが欠点かねぇ」

「苦しいのか」

「もちろん。じわじわと石化部分に圧迫感を与え、特に死の間際の三十分は急激にそれが増す。地獄に早く行きたいと願うかもね。少し配分を変えれば、三ヶ月かけて石化させることも、三時間程度で石化させることも可能さ」

「死に至るまで最短で三時間? 長いな」

 即効性のない毒は使い勝手がいい。すぐに殺したいのならば毒など使わず、ナイフを使えば事足りる。時間を置いて殺したいとき、この手の毒は活躍するのだ。

「バジリスクがほしいかい。値が張るよ」

「いやいい」

 注文を聞いた魔女は、再び店の奥に戻る。調合をしに行ったのだ。

 しばらくここで待っていなくてはならないようだ。茶の一つくらい出しても良いではないか。もっとも、こんな場所で出されたものを口に入れようとは微塵も思わないが。

 暗い室内に慣れてきた目で、暇つぶしにと室内を観察する。得体の知れないものと得体の知れるものが棚に混在して陳列されている。喉を潰す薬、心を操る薬、病にかける薬、気を狂わせる薬。よろしくないものばかりだ。もっとも、本当によろしくないのはそれを求める人間の側なのだろうが。

 しばらくして老婆が顔を出した。テーブルの上に幾つかの皮袋を静かに置く。

「ほら受け取りな。お代は銀貨十枚だよ」

 相変わらずふっかけてくる。それと同じ代価で、それなりの宿に一ヶ月以上は楽にして泊まれる。

「すまない、手持ちが九枚しかないんだ」

「ならさっさと帰るんだね」

 黒マントの老婆が、視線厳しく言い放った。これが童話に出てくる恐ろしい魔女ならば、その魔力で一瞬にしてカエルかネズミに変えられていただろう。もちろん現実にそんな事はありえない。

「だがそうすると、せっかく調合したそれが無駄になってしまうんじゃないか? こんな薬を買うものも滅多にいないと思うが」

「魔女を甘く見るな。知らないうちに毒を飲せて殺しちまうよ」

 ちっ、と舌打ちを打つ。素直に銀貨と銅貨を、要求された分だけ机に置いた。



 ロマノフの屋敷へと戻ってきたのは太陽が真上から少し傾き始めた頃だった。

「ブリューゲル様!!!」

 玄関のドアを押すと、タイミングを見計らっていたかのようにレスリー嬢が飛びついてきた。本当にこの人は目が衰えているのだろうか。

 体にしみこんだ職業病だ。反射的に身体を逸らし回避する。

「あら。意外と反射神経がおありなんですね」

「あまりレディーがそういう事をするものではありませんよ」

「お昼食は食べまして?」

「ええ、外で」

「そうだ、おもいだした!」

 この会話の切り替わりにはついていけそうにないな。

「お父様にあなたのお招きパーティを夜したいと申し出たら、承諾してもらえましたの。家にいる者だけのささやかなものですけど」

「それは光栄です」

 本当は逃げ出したい気持ちだ。

「それでわたし、あなたの為に衣装を用意しておきましたのよ! さあさあ、はやくお部屋に戻りましょう」

 強引に手を引っ張られ部屋へと連れていかれる。このお嬢さんはもしや、人の部屋に勝手に入り、勝手に服を置いたのだろうか。確かにあてがわれた部屋の鍵は貰っていないので、外出する時には施錠しようもなかったが。貴族の令嬢がやるには、あまりに非礼な行いだ。

「きっと驚きますわ」

 牽引する妖精がこちらを向いて、満面の笑みを浮かべた。

 四階の自室へと戻ってくる。途中で使用人たちに出くわした時、手を握られているのが気恥ずかしくて何度振り払おうと思ったか。自分の忍耐力を称えて拍手したい。

「ささ、どうぞ。あなたが扉を開けて」

 促されて、ドアノブを引いた。そして唖然としてしまう。

 部屋の中は、洋服立てに掛けられたタキシードで一杯だった。扉が内開きであったら、つっかえて開かなかったに違いない。洋服店にだってこれだけの服は揃っていないだろう。

「なんですかこれは」

「素敵でしょ? きっとどれも似合うわ。これだけあれば、途中で服を変えたくなっても足りなくなる事はないんだから」

 食事の作法はそこまで悪くないつもりだ。何十回ワインをこぼしても、この服を全部着ることにはならないだろう。一つ一つがしっかりとしたつくりで、数着ダメにしただけで、先ほど魔女に払った金と同じ程度の出費になるに違いない。

「部屋に入れませんね」

「じゃあ、わたしの部屋に来ると良いわ! ほらお荷物も持ってあげる」

 それは色々とまずかろう。丁寧に辞退し、隣の空き部屋を借りて夕食まで待たせてもらう事にした。この屋敷に空き部屋が多いのは、あの娘のこういった悪戯を考えてのことかもしれない。

 レスリー嬢が残念そうに行ってしまい、やっと開放されたと息をついてると、しばらくしてまた人が訪れてきた。

 叩かれるドアを睨みながら、またあのフィアネル夫人かと予想する。扉越しに昨夜と同じ清涼系の香水匂が、かすかにただよってくる。

「どなたでしょうか」

「私です。朝ご一緒したアッシリアですわ。開けて良いですね?」

 言葉遣いは丁寧だが、昨夜の婦人と同じく、どこか強引だ。

「どうぞ」

「失礼しますわ。お仕事でお疲れの所、申し訳ありません」

 入ってきたのは緑のドレスを来た女性だった。歳はカールズと同じほどか少し若い程度。母のフィアネル夫人と同じプラチナヘア。

「アッシリア・クラムハット様、どうかいたしましたか?」

「そんな堅苦しい。よろしければアッシリアと呼んでください」

「では私のこともイワンと。皇帝と名前が同じでしょう。呼びにくければ苗字のほうで」

「ではイワンと呼ばせて下さい」

 アッシリア嬢が口元を押さえて微笑む。その仕草がフィアネル夫人にとてもよく似ていた。流石は親子だ。

「お隣りの部屋を見ましたけど、あなたも大変ね。レスリテナスに懐かれると、誰もがあんな感じなのよ。変な服ばっかりでごめんなさいね。あとで給仕にちゃんとした服を出す様に頼んでおくから」

「いえ、大丈夫ですよ。せっかくレスリー嬢が用意してくださったのだから。私はあれでも構いません」

「優しいのね」

 彼女がまた笑った。朝食の時の印象では、どこか他人行儀で付き合いにくそうだったが、話してみるとそうでもないかもしれない。

「そういえば朝食の時仰っていましたが、アッシリア様は確か、出版社の社長だとか」

 すると、良くぞ聞いてくれましたと、彼女の目が輝いた。

「そうですのよ。といっても月に何冊か出すかの小さなものですけれど。今はこの屋敷に厄介になっているでしょう? もう二ヶ月くらいいるのだけど、仕事がほとんど出来なくて、本当にもどかしいわ」

「女性で会社を経営するなんて凄いですね」

 褒めると、彼女は目を細める。実に愛らしい笑みだ。

「あなたこそ尊敬できますわ、卸し業さん。ワーハイン騎士団領じゃ、商人って言うだけで暮らしにくい聞きますわ」

 そういえば、騎士領の商人という設定だった。偽りの身分ではあるが、それらしく演じなければならない。

「さすがお詳しいですね。確かにあちらでは商売で金を得る行為が汚いとされていますが……しかしそうする者によって社会が動いているのも事実。ならば私は喜んでゴミとして扱われましょう」

「よく喋る面白い方ね。カールズの前のお客様は無口だったから、嬉しいわ」

 それは死んだマァリのことだろうか。疑問には思ったものの、聞くべきかどうか迷った。商人云々については上手くごまかしたつもりだが、あまり深い話になるとぼろが出る。これ以上会話を続けたくないなとも思う。

 すると廊下の向こうからカールズがやって来た。いいきりだと会話を打ち切ることにする。マァリのことは彼に聞けばいいのだ。視線で合図をすると、彼も察して寄って来た。

「アッシリア。すこしブリューゲルと話をしたいんだけどいいかな」

「はい構いませんよ。イワン、またお話しましょうね」

 彼女は残念そうに手を振って立ち去る。気に入られたのだろうか。

「女の相手は疲れるな」

「アッシリアか? 大人しい娘だと思うが」

「お前の妹の相手もだよ」

 そういえば農薬がマァリの死因だと思われていると彼が言っていたのを思い出した。農薬が使われているとすると外だろう。庭を見てみたいと提案すると、カールズは厨房に入り、給仕たちに紅茶の用意をしておくように言った。

 庭に出ると建物をぐるりと囲むように薔薇の生垣がまず目に付く。生垣と屋敷の壁の間には三人ほど並んで歩ける程度に広い幅があった。薔薇の生垣は本来、窓からの侵入者を阻んだり、茂みをかき分ける音で存在を知ることのできる鳴子としての役割を持っている。そう故郷の庭師に教わったことがあった。だが、こんなに壁と生垣が離れていてはその役割を果たせまい。薔薇の葉をちぎって嗅いでみると、かすかにタバコのヤニのようなにおいがした。これが農薬だろうか。

「レスリーが今よりも幼い頃、納屋にある農薬を飲んだことは言ったっけ。そのせいもあってマリーが農薬で死んだと聞いてみんなもすぐに納得したんじゃないかな」

「あの生意気な娘、そのときにもう少し大人しくなっていればね」

「根は可愛い奴だよ。あの時は瓶に入っていた原液を全部飲んでしまったのかな。助かったのは僥倖だと医者は言っていた」

 昔のことだけどよく覚えているととカールズは言った。妹が倒れたのは、それほど衝撃的なことだったのだろう。

「それでマァリが農薬で死んだことを否定したいのか? 妹は助かったのだから、恋人も死ぬはずはないと。バジリスクのことは、もしかしたらお前の父親が医者に根回しして、毒が使われたと嘘をつかせたのかもしれない。本当に庭師の起こした事故だとお前が知ったら、庭師を殺しかねないと思って」

 カールズが苦笑した。

「それもあなたの推理の一つとして、入れておけばいい」

 だが庭師を犯人にするのには無理があるだろう。薔薇と窓には距離が離れすぎている。薔薇に撒くつもりの農薬が窓辺にある器に入るとは考えにくい。もし意図してなら入れることはたやすいだろう。しかし庭師などの使用人が個人的な理由で屋敷の客人を殺すというのは、常識的に考えにくい。庭師に限らず、毒を盛ろうと思えば、給仕人などの使用人たちほど機会のある者はいない。彼らは屋敷中の至る場所にいて、掃除をしたり、草を刈ったり、食事を作っていたりする。そして、ある時間にどの使用人がどこにいたかを正確に把握するのはほぼ不可能だ。毒を盛らせるにはこれ以上ない機会にめぐまれているといえる。しかし、使用人がどれほど機会に恵まれ、また仮に殺すだけの動機を持っていたとしても、主人や、その家族、客人に危害を加えることは絶対にない。なぜなら、それをしたことがばれれば、或いは疑われればそれだけで、彼らは職を失い、罰せられ、明日からの生活がままならなくなるからだ。王家に縁ある人物を害したとなれば、裁きは本人のみにとどまるわけもない。そして彼らは誰よりも、「見られていないはずのことが人の噂にのぼることがある」ということを知っている。

「マァリが倒れているのを見つけたとき、窓は開いていたんだったな」

「ああ」

 窓ガラスを押し上げてあけようとしてみる。だが、鍵かかかっていて開かなかった。窓は外壁からすこしへこんだような場所についており、窓の外からこぶし一つ半ほどの出っ張りができている。その出っ張りには、一階の部屋のどの窓の外にも例の水受けが置いてある。いまは水が入っていなかった。窓ガラスの外には両開きで木製の雨戸がついている。雨戸を締めるとぴったりと壁の中のくぼみに入り込み窓ガラスを隠した。

「もう一ヶ月もすれば、雨戸を閉めないと寒くて寝れなくなるな」

「ああ、そうなのか。さすが貴族の家は造りがしっかりしている。下町の宿はもう、雨戸を閉めないと隙間風が酷くて凍えてしまいそうになるよ」

 昨日の夜は、布団の中に木炭タンポがあったこともあり、暑くて寝苦しいくらいだった。夜中に汗を流して何度か目を覚ましたのを覚えている。すぐ傍の机に水差しは置いてあったのだが、毒殺があったばかりの屋敷で、いつ置かれたのかもわからない水に口をつけたいとは思わなかった。

「そういえば何故マァリは窓の外にある水なんか飲んだんだ?」

「さあどうしてなのか」カールズが首をすくめた。おどけた仕草だ、顔は少し憂いを帯びている。そんなものを飲まなければ……という思いは少なからずあるだろう。

「わざわざ窓の外の水受けじゃなくても、部屋の中に水差しは置いてあったはずだ。あのとき水差しを確認したら、まだ中に水が残っていた」

 そう彼は回想の内容をつぶやいた。

「部屋の水差しの中に、毒が入っていたりはしなかったのか?」

「猫にやってみたが、おいしそうに飲んだよ」

 それはレスリテナスの飼っている猫だろう。カールズが何か思いついたという顔で、窓際の器を取り上げた。

「もしかしたら、犯人はマリーを殺すつもりはなかったのかもしれない。朝に鳥がやってきてこの水を飲んだら、窓際に鳥の死骸が残っただろう? マァリを脅かしてやれと企んでしでかしたのかも」

「いかにも、お前の妹がやりそうだな」

 毒に農薬が使われたのならば、それはありえそうなことだと思っていた。しかし鳥を殺す為だけの毒にわざわざバジリスクを選ぶだろうか? 魔女の店まで足を運んで。

 農薬が置いてある場所を見たいと言うと、裏庭の隅に隠れているようなひっそりとした納屋に案内された。小屋の周りは小高い木がぽつぽつと生えており、地味な白い花を咲かせていた。納屋をさり気なく樹木の影に隠し、家人が見たときの庭の風景を損なわないようにしてあるのだろう。屋敷からも離れており、使用人以外はまずここには来ないに違いない。丸太を組んだ造りで丈夫そうな小屋になっていた。扉もしっかりしており、頭の位置ほどの高さに新しい錠前がつけてある。

「マリーのことがあったんで、つい最近鍵をつけたんだ」

「エスリテナスが農薬を飲んだときにつけておくべきだったな」

「そのときは、留め金を高い場所につけただけで終わったんだよ」

 まあ仕方ないだろう。納屋のような業務口に鍵を掛けると不便だ。子供が届かないような位置に鍵が掛けられれば問題ない。

 カールズが懐から鍵を出した。

「きっとここを見るかと思って庭師に借りてきた」

 庭師もカールズの頼みは断れまい。特に、カールズの恋人が農薬で死んでいることになっている今は、気を使っていつも以上に腰を低くしていることだろう。

 納屋の中は薄暗く、鍬やハサミや台車などの庭具が所狭しとおいてある。かすかにつんとしたヤニくささがした。置いてある農薬の匂いだろう。ふと、甘い女物の香水が匂ったような気がした。しかしあたりを見回してももちろん我々以外誰も居ない。柑橘系の香りだったろうか。屋敷のどの人間も使っていない香りだったような気がするが。

 農薬の入っている緑のガラス瓶は床においてあった。馬屋にあるバケツにとがり帽子をかぶせたかのような大きさだ。一番太い部分で、腕を回したくらいはある。九分目ほどまで農薬が入っていっており、足で小突くと重い感触が帰ってきた。女の腕では持つのは無理だろう。

「エスリテナスはこれを子供の頃に抱えて飲んだのか。怪力娘だな」

 たしか、一瓶を飲み干したとも聞いたかもしれない。

「その頃はもっと小さい瓶だったんだ。その事件があって農薬を変えてね。今の瓶は簡単に持ち運びが出来ないようにあえて分厚いガラスでつくった大瓶をつかっているよ。だから瓶だけでも相当に重いはずだ」

「庭師にはとんだ迷惑だな」

「これ自体をもって庭に撒くわけじゃないからね。倍ほどに薄めて、霧吹きに移して使うんだそうだ」

 よく知っているなと密かに感心した。家人なら庭に興味があるといっても、せいぜい紅茶を飲みながら庭を眺めたり、花の名前を覚えるくらいだろうに。おそらく彼は彼で、庭師も疑ってマァリ殺しの真相を調べようとしたのだろう。

 納屋から出ると屋敷の外ををぐるりと回り、その他の話を聞く。マァリが死んだ前日に屋敷にいたのはカールズとレスリー嬢、父のボロンゾフ氏、クラムハット母子(彼女たちの他の家族は、半年の国境警備の任務に出かけており首都から離れているのだそうだ)。そして今は家にいないがカールズの兄。あとは給仕や執事が数人。今朝いた男はなんだと聞いたら、父が四日前ほどに家に招いた友人らしい。家で人が不審死したばかりという時期に、泊り込みで呼ぶとは。よっぽど大事な用があるのか、あるいはボロンゾフもあの男を使ってマァリ殺しを調べさせているのかもしれない。それを言うと、カールズは鼻で笑った。

「探しているだろうな。どうやったら外部の仕業ということで事件を収めらるか、とかをね」

 屋敷を一周するのは思った以上に一苦労だった。田舎国の貴族だけある。街中の屋敷だとは思えないほどに、庭が広い。夕食は貴族連中に囲まれ愉快なものではなかったが、歩いたおかげで腹は減り、料理が美味しく感じられたことは幸いだった。

「随分長く庭で話てらしたのね」

 夕食後、暖炉の前で紅茶を飲みながらアッシリア嬢が言った。紅茶をうけとり、ジャムも勧められたがそれは断った。ジャムを食べながら飲むのが貴族の上品な嗜み方で、中にジャムを溶かして紅茶を飲むのはくだけた飲み方だという。だが、下町の貧しい者はジャムを眺めて紅茶を飲むのだ。この眺めて飲む方法が一番身に染み付いていた。あまりいろいろと物を入れて飲むのが職業柄好きになれないというのもある。甘ったるい匂いも好きではない。チョコレートも勧められたが同様だ。

「カールズ様に庭を案内してもらっていましたので。広いですね。立派な庭だった」

「素敵ですわよね。もう少し前だったら、薔薇が綺麗でしたのよ」

「残念ですね。納屋の周りの木に花が咲いていたのは見ましたが」

「納屋? ずいぶん奥まった場所に行ったんですね。……カールズに案内されたの?」

 するとひょいとレスリー嬢が暖炉の前にやって来た。

「あらブリューゲル様。昼はお兄様と、こそこそと庭を歩いてきたんですって?」

 この娘は苦手だ。カールズはいないかと食卓の方を振り向くが姿が見えなかった。自室に戻ったのだろうか。役に立たない奴め。

 ボロンゾフ氏やフィアネル夫人は食卓で食後の酒を飲みながら談笑している。オバール氏の妻、つまりカールズやレスリー嬢の母は数年前に逝去している。フィアネル婦人の主人であるクラムハット氏と、この屋敷の主人ボロンゾフ氏は旧い友人同士であり、その縁でクラムハット氏が国境警備の任務につく間クラムハット母子はこの屋敷に居候しているのだという。

「ボロンゾフ様とフィアネル様。仲がよいのですね」

 あまり良い話題ではないと思いながらも、エスリー嬢の耳元で言った。

「もしかして怪しい関係だと思ってるの?」

 少女らしからぬ発言だなと思いつつも、彼女らしい言葉だと思った。くすくすと少女は愉快そうに笑う。一方でアッシリア嬢はむきになったように答えた。

「お母様とおじ様はそんな関係ではありませんわ。おじ様は父との友情でこの屋敷に私達を置いてくださっているのです」

「いえ、そんなつもりで言ったのではありません。アッシリア様。その、申し訳ありません」

 疑うつもりがないのは本当だ。エスリー嬢の質問を流すことが目的のつもりで言っただけである。それに彼らの関係がどうであろうと興味はなかった。

「ところで私の質問を無視したわね」

 質問を流す努力は無駄だった。収穫はアッシリア嬢の機嫌を損ねただけのようだ。降参、と仕草で示し。

「納屋のあたりに行ってたのですよ」

「そんなものあったかしら」きょとんとレスリー嬢は首を傾げる。

「あなたがむかし農薬を飲んだ場所だそうですね。裏庭の奥にある」

 少し間をおいて、ああとレスリー嬢は頷いた。

「あれは納屋だったの。あの時のことはうろ覚えなのよね。埃くさくて薄暗くて、ごちゃごちゃしたイメージだけで。裏庭にあったのね」

 今よりもさらに幼い頃の記憶だ。彼女が覚えてなくてもしかたあるまい。

「場所を思い出したからって行かないでくださいね。また何かあったら、私が責められることになる」

「それはいいわね。私が死んだらブリューゲル様が犯人よ、アッシリア」

 アッシリア嬢はどう答えていいのか難しそうに、曖昧に笑って応じた。アッシリア嬢のほうが明らかに年上だが呼び捨てなのかと気になった。レスリー嬢はうろうろと手を伸ばしチョコをつかむと頬ばった。

「そうね。毒を盛るのならチョコに入れてほしいわ。毒入りチョコレートだと不味そうだけど、チョコレート入りの毒だったらなんだかおいしそうに聞こえない? なぜかしら」

 つい最近、家の中でひとり毒死しているというのによくも言えたものだ。苦笑いするアッシリア嬢と目があった。

「イワン。そろそろお休みになられたら?」

「そうですね」

 アッシリア嬢に言ってもらえて助かった。正直、あの小娘と会話を続けているのは疲れる。

「ええと。私の部屋は二階でよかったですよね」

 給仕達が居ないのを見はからい、わざととぼけてアッシリア嬢の目を見た。

「はい。送りましょうか?」

「お願いします」

 居間の面々に挨拶をした。アッシリア嬢は燭台を一つ持つと、ロウソクに火をつけて薄暗い廊下の先を行く。

「少し疑問に思っていたことなのですが」

 階段に差し掛かったあたりで、アッシリア嬢の肩越しに声を掛けた。

「はい」

「もしかしてレスリテナス様は、カールズの恋人が毒殺されたことを知らないのかな」

 階段を登る彼女が、歩きながら振り向いた。

「そうね。レスリーにはカールズの連れてきた女性は帰ったと言って隠してあります。あなたこそ、よくご存知ねイワン」

「彼に話を聞いたのです」

 マァリに毒をもった人間は誰か。殺意はどこにあったか。彼女と話しながら頭の中で可能性を潰していく。父ボロンゾフ氏、彼がマァリを殺すことは最も考えにくい。息子が連れてきた娘に文句があるのならば、一言ダメだと叱ればいい。屋敷で働く給仕たちにも、収入を失う危険を冒してまで彼女をどうしても殺すに至るほどの理由はないだろう。

 次にレスリテナス、視力の悪い娘がだれかを殺したくなったとき、毒を使うのはなかなか賢い手段だ。兄を取られるのが嫌で毒を盛るというのはありそうではある。過去の一件で、この家の農薬が『飲むと死ぬことはないが苦しい』ものだと彼女が思っているのならば、悪戯で窓の外の皿に農薬を盛るということはありえる気がする。

 クラムハット夫人と娘のアッシリアはどうだろうか。

「アッシリア。ひとつ気になっていたのですがいいですか?」

「はい」

「あなたはカールズと、怒らないでくださいね、ちょっとした仲だったのではありませんか?」

 ぴたりと、一瞬だけ彼女の足取りが止まる。

「お母様とおじ様のつぎは、私とカールズの話? この手のお話が好きなのね。新聞記者に向いているかもしれない。私の会社で働きます?」

「怒らせたなら謝ります」

 少し沈黙が続いた。

「庭の奥にある納屋は、カールズに案内してもらったから知っているのかなと思いまして。違いますか、アッシリア」

 彼女は答えない。少し歩く速度が速まった気がする。質問を急いだほうがいいだろうか。彼女は納屋の場所を知っていた。少なくとも大体の場所を把握していることは、先ほどの会話から察せられた。家人や客人から隠すように建てられた納屋を、この屋敷の人間ではないのにかかわらず把握していのだ。先ほど彼女は、納屋が「ずいぶん奥まった場所」にあることを知っていると、発言している。

「この屋敷には以前から家族で訪ねていたのですか? そういう時、庭の奥、人の来ない場所でカールズと」

「本当に怒りますよ」

 アッシリア嬢が体全体を振り向かせた。

「イワン。あなたの部屋に着きました。おやすみなさい」

「少しだけ待って。したい話がある」

 彼女を残し部屋の中に入る。ベッドに駆け寄ると、毛布をまさぐった。中から木炭タンポがでてくる。ドーム型の金属で、天辺にある蓋を開けると中にはかすかに赤く燃える炭が入っていた。

「ご存知でしょうか。炭は燃えると空気を汚す。空気が汚れすぎれば息が出来なくなり窒息してしまう」

 扉のほうに向き直る。もしかしたら去ってしまっているかもしれないと思ったが、まだアッシリアがそこにいた。

「初めて知りました」

「そうでしょう。普通の人間はまず知らない。しかしマァリは知っていた。母親をそのせいで亡くしていますからね」

 燭台に照らされるアッシリアの表情は「それがどうしたの」と言いたげだ。当てをはずしたかな。そう思いながらも最後まで言うことに決めた。

「マァリは夜中、息苦しくて目を覚ました。母親の経験があるので、彼女は木炭タンポのせいで部屋の空気が毒されたのだとすぐに分かった。彼女はベッドの傍にある窓に駆け寄り窓を開く。しかし時遅し、マァリは部屋の毒にやられて息絶えたのです。窓の外にあった器は彼女が雨戸を外に開けるときに、一緒に勢いで落ちたのでしょう」

「不思議ね。私も、この家の人間はみんな木炭タンポを使っていますけど。まだ生きていますわ」

「木戸が重要なんです。つまり雨戸。閉めていないでしょう。あなたたちは」

「は?」

「下町暮らしが長いとね、造りの甘い窓に慣れてしまっている。この時期にはもう寒くて、雨戸をぴったり閉じなければ隙間風が寒いのです。ですので我々のような貧しい人間には、雨戸を閉めて寝る習慣がついているのですね。この屋敷の造りならば、隙間風もないからその必要はないのにね」

 泊まっていた安宿を思い出した。ガラス窓だけでは隙間風が酷く、夏が終わるとすぐに雨戸を閉める。そうしなければ寒くて眠れないのだ。この屋敷は違う。窓や壁の造りも、毛布の質もしっかりしている。この時期に雨戸を閉める必要はまったくないだろう。

「この屋敷では寒さを防ぐ目的で雨戸を使う時期にはもう、暖炉をつかうでしょう。いまは暖炉をふさいでいる鉄の蓋を、冬には開けて使う。そうすれば灰の火で汚れた空気も、暖炉から外に逃げてしまえるんです。でもこの時期は? 雨戸を閉めてまったく空気の出入りがなくなった部屋の中で、一晩木炭タンポを抱いて寝れば……気化中毒になってしまうというわけだ。窓の下の芝生に、死んでいる虫がいたから器には毒が入っていると推測されたようだが、探そうと思えば虫なんてどこにでも死んでいるものでしょう。きっとね」

 アッシリア嬢はうつむいている。話の内容をゆっくりとのみ飲んでいるようにも見えた。彼女が納得なり疑問なりを浮かべるまで、じっと待つ。

「そうですか」

 彼女が顔を上げた。特に表情はない。

「それで。何故そんな話を?」

「いえ、急に閃いたものだからね。カールズには、マァリの死因は農薬だと聞きました。どうでしょう今の話は。農薬が偶然、器に入っていたというのよりはもっともらしいでしょう?」

「そうですね」

 彼女は部屋の中に入ると、室内の卓にある燭台に火を移した。

「少なくとも、この屋敷の農薬を飲んで死ぬという話よりはもっともらしい。あの農薬はエスリテナス様が昔、間違って飲んだときに取り替えられたんですよ。ヤニか何かを混ぜて渋くした毒に。間違って口に入れても、すぐ吐き出してしまうくらい不味く調合するためにね」

 アッシリアが手に持つ燭台の火が、強く揺れた。聞こえなかったが、アッシリアが静かに溜息をついたのだろう。

「いいですか? もし農薬を口に含んでしまっても、すぐに異常に気がついて吐き出してしまうに決まっているのです」

 もう一度、同じことを言う。アッシリアはしばらく無言でいた。片が震えているような気がしたが、もしかしたら、単なる蝋燭の炎のゆらめきかもしれなかった。アッシリアが口を開いた。

「おやすみなさい。面白い話でした」

「おやすみ」

 扉が閉まる。鍵を掛けた。

 そして昨日の夜と同じように窓を閉め、雨戸を閉め、錠を閉め。木炭タンポを抱きしめて布団の中に入り込む。

 彼女は先ほどの話を信じただろうか。信じてくれればよい。「香水の瓶にまだ農薬を残しているなら、早く捨てなさい」と何度か喉からでかかった。農薬が窓の外にある器に入っていたのだとしたら、それを盛った可能性が最も高いのはアッシリア嬢である気がする。次いで彼女の母。理由は恋敵の排除。ただし母親ならばマァリの排除にはもっと確実な手を打つような気がする。アッシリアはおそらく、窓の外にある器に毒を入れた。朝になり、思い通り行けばマァリの部屋の窓際に鳥が死んでいる。その程度の嫌がらせのつもりで、あの場所に毒を仕込んだに違いない。

 何も証拠はない。全ては推測だ。

 小屋の中で香水の匂いがしたこと。現時点で誰もその香りを使っていないようであること。アッシリア嬢が最近、香水を変えたと朝の話題で話していた。いくつかの点が線を結ぶ。つい最近、屋敷中の植物に農薬を撒いたにしては、農薬の瓶の減りがわずかであった。おそらく、農薬が残り少ない瓶が少し前にはあったのだろう。

 二週間前、薄暗い納屋の中で彼女は香水の中身を全て捨て、農薬をその中に詰めたのだ。もしかしたらその香水は、かつてカールズから送られたものであったかもしれない。農薬の瓶に残りはわずかであったから、彼女にも持ち上げることが出来た。持ち帰った農薬を室内の水差しに入れようとして何度思いとどまっただろう。殺す代わりに鳥の死骸を見せつけてやるという代償行為のつもりが、翌朝になってみると本当にマァリが死んでしまっていた。自分の愛する人が、別の人間を愛し、その人の死を悲しんでいるのを見守る。愛している相手が憎む犯人が自分だと思っているのはどのような心境だろうと、考えてしまう。無駄な妄想だなと、考えるのを止めた。まだ寝るわけには行かないかと、布団から出た。

 オバール氏や屋敷の給仕には殺す理由がない。フィアネル婦人には殺す理由はあっても、この手段をとる理由がない。そして毒にはバジリスクが使われた。そして、農薬で死んだわけではないので、レスリー嬢やアッシリア嬢にマァリを殺すのは不可能である。バジリクスのような毒が自然発生するはずが無いことを加味して、さて、あとは消去法で物事が見えてくるのである。


 ドアをノックすると「どうぞ」とカルーズの声が聞こえた。彼からは見えぬよう、服の裏には暖炉からくすねた火かき棒を隠し、いつでも取れる位置に右手を意識して構える。

「どうかしたか?」

 カールズは部屋で一人、ロウソクのそばに座りワインを飲んでいた。窓は開けられ、吹き込む風に燭台の火が揺らぐ。

「外に何か見えるか?」と彼に聞いた。

「星が見える。あのどれか一つはマリーがなった星かなと」

「ロマンチストだな。そのマァリの話だが。聞きたいか」

 窓の向こうを見ていた瞳が、こちらを向いた。

「推測の域を超えないが、毒を盛ったのはアッシリアだろう」

 カールズがふうと溜息をついた。大きく灯りが揺らぐ。

「だろうなと思っていた」

 彼の反応は、予想通りだった。一つ屋根の下に住む仲だ。彼もなんとなく、誰ならば何をし何ができうるという予想を立てていたに違いない。暗殺者を雇ったのは単に、客観的な意見を欲しただけなのだ。

「前にも言ったが、犯人を殺して欲しいんだろう」と、あえて言ってみた。

「……なんのことだ?」

 彼の目元は見えない。しかし、どす黒い心の視線で彼から覗き込まれているような気がした。『わかっているなら、やれ』と物語っているような気がした。吹き込む風のせいばかりではあるまいが、身震いがする。この仕事をしていて、何遍も、そう何遍もこの身震いをした。いま、許しがたいほどに汚いものを見ている。そういう気持ちが湧き出てくる。

「言っておくが、アッシリアではないぞ。彼女は農薬を、窓の外の皿に盛ったかもしれない。だが、マァリが死んだのはそのせいではない」

「なに?」

 そして、汚いものに向き合い、自分はさらに汚いことを自覚する。

「聞きたいならば成功報酬を貰おう。殺し屋としての仕事を要求するならその分もだ」

「欲張るじゃないか」

 カールズは立ち上がり、戸棚から宝石箱を取り出す。鍵をつかって蓋を開けると、中には宝石のついた装飾品が綺麗に並んでいた。

「バジリスクが使われたのならだ」

 言いながら、彼から指輪をいくつか受け取った。輪の部分も宝石の部分も確かな値打ちがあるだろう。

 マァリを殺したのがオバールでも給仕でもレスリテナスでもアッシリアでもフィアネルでもない。そしてこの件を解決してくれと言ってきたカールズでもない。カールズと結ばれることで貴族になれるというマァリ自身の自殺でもないとすれば。

「マァリを殺したのは、バジリスクの毒と言うことになる」

「言葉遊びは嫌いだといわなかったか?」

「そのバジリスクはどこから来たか。魔女のところからだ」

 呆れかえったのだろう。カールズが溜息をついた。

「一度した話をまたするのか。その指輪、返してもらう」

「まあ聞け。話の根本を考えるのは大切なことだ。何故バジリスクの毒にやられたのか。何故マァリはこの屋敷に来たのか。何故お前とマァリは出会ったのか」

「意味がわからない」

「使った道が違ったから最初は気がつかなかったんだが、マァリと魔女の家は近くにあるんだ。大聖堂の西側。夕日を背にするとちょうど影がまっすぐ大聖堂のほうに伸びる」

 こつこつと音がした。カールズが机を叩いている音だ。要点が見えない話にいらいらと来ているようだった。

「パン屋の娘と夜の酒場で出会ったというのも不思議だ。知っているか? 人は朝からパンを食べる。だからパン屋はもっと早く起きなければならない。なあ、そもそも貴族の坊ちゃんが下町の小娘と恋に落ちるなんてなんの歌物語だ? 毒を盛られたのはカールズ、お前なんだよ」

 マァリを調べて分かったことは以下のことだ。魔女の家の傍に住んでいる。パン屋ならば、客にどんな人間が居るのかをよく知っていたのかもしれない。どういうきっかけか、貴族の坊ちゃんがちょくちょく近くの酒場に遊びにきている。

「お前はマァリに毒を盛られていたんだ。惚れ薬を。お前がマァリをどんなに想っていても、それは幻想なんだよ。夢の中にお前はいたんだ。マァリは魔女の家から惚れ薬を盗んで、お前に飲ませたんだ」

 魔女の家を思い出す。むやみに薬瓶に触るなといわれた。盗賊避けの毒が塗ってあると。じわじわ苦しめるのにうってつけの毒が塗ってあったのだ。そう、バジリスクが。途中で毒のことに気がつき魔女に謝りに行けば、解毒剤と交換に高額の代価を吹っ掛けらるにに違いない。

 もう一度言った。

「お前がマァリを愛していようと、その気持ちは嘘だ」

 言い終わる前に、ワイングラスが飛んできた。横に避ける。カールズが投げたのだ。

「本物だ! マァリを想う気持ちは本物だ!」

「いや、違うね」

 或いは、気持ちがどうだとかはどうでもいいのだ。マァリがカールズに毒を盛り懐柔したのも、フィアネル婦人が娘をつれてこの屋敷によく来るのも、彼の夫という地位の美味しさが目当てに他ならない。王族の血は一部の人間にとって、どんな手を使ってでも欲しいものなのだ。

 カールズは激昂して立ち上がり、首を絞めようとしてきた。彼とは間逆に、どんどんと冷めていく自分を感じる。隠していた火かき棒を使って、腹に一撃をくれてやった。うめき声を上げて、カールズが崩れ落ちる。

「依頼は遂げた。じゃあな」

 報酬の指輪を懐にしまい、窓から飛び出る。夜の街は暗い。町に人の灯す明かりはほとんどなく、月に照らされて左右に、前後に石畳が続く。つまらない仕事だったと思い返しながらどちらでもない方向へと歩く。屋敷から離れさえすればどこかにつくだろう。アッシリアは毒を盛ったことに思い悩んだりしないだろうかと、それだけが少し心配だ。自分が殺したのではないと分かれば、これから少しは気が楽になるだろう。

 誰もいない石畳の道。いつの間にか土の道に変わる。民家もぼちぼちと無くなってきて、それでもまだ歩く。いつ振り向くべきかとタイミングを取り損ねていた。背後から、足音がした。一人分、二人分……五人以上はいそうだ。歩を止めて振り返る。

「耳がいいね、イワンさん」

 暗くて人相は分からない。帽子をかぶったヒゲの男が立っていた。立ち住まいは軍人のようだ。どこかで聞いたことのある声。後ろにも何人かが控えている。

「おや、私が誰かわからないかな。一緒に食事をした仲だろう」

「ああ、ボロンゾフ様のご友人ですね。あまり話をする機会がありませんでしたからね」

 名前は何と言っただろう。覚えていない。屋敷に居たボロンゾフ氏の友人だという男だ。

「いや驚いた。君の素性を調べたら、なんと殺し屋と言うじゃないか」

 星の光だけでも、認識するのに十分なほど大きな仕草で彼が言う。彼の言葉に思わず笑いがこぼれた。カールズへ言った言葉だったろうか。ボロンゾフは外にマァリの死を求めている、という予測は。

「なるほど。マァリ殺しの罪をきせるのにはうってつけと言うわけか」

 笑いながら言うと、男は首を降った。

「そうではない」

 男の後ろから、もう一人大柄な男が前に出た。その印象的な声は覚えている。

「ボロンゾフ様までいらっしゃったのですね」

「せがれやアッシリアと話していたことは聞いた。なかなか賢いじゃないかと感心したよ」

 なんとまあ。どこでどう盗み聞きされていたのだろうか。全く気が付かなかった。これはどうも、早い時期から警戒されていたのかもしれない。

「こんな話が外に出るのは見逃せん。大人しくつかまってくれないかな。また客人として迎えよう」

「随分と寛容ですね。ついていったらどんな食卓に案内されるのかな。ギロチン台に座らされて、自分の首を見下ろしながら赤ワインをすするのは勘弁ですが」

 オバールが豪快に笑った。

「そうではない。貴族の椅子にすわらせてやろう」

「は?」

「結婚させてやろうといっているのだ」

「ご冗談を。薄汚い殺し屋と、縁談ですか? 家門に傷がつきますよ」

 先ほどまで後ろに下がっていた男が、

「素性は調べたと言っただろう。アッシリア様と並んでも遜色ない振る舞い。もしやとおもってな。西のほうから来たそうじゃないか。向うのほうの王家で有名な、家出人の話があるのを知っているぞ」

「そこと繋がりが出来るのは、国益になるのでね」

 肝心の家の名前を出さないのは、まだ半信半疑だからだろう。

 さて、どうしようか。つかまるのは真っ平だ。しかし今ここで逃げられても、彼らに睨まれたらこの街で、いやこの国で生きていくのはやり辛いに違いない。

 しかし懐かしい話だ。あの頃はどうしてあんな行動力を持っていたのだろう。昔を思い出す。

「来てくれるね? お望みなら、他国からの密偵と言うことで君の両腕を縛ることもできるが。出来れば手荒に扱いたくない」

 男がゆっくりと近づいてくる。逃げようにも周りは囲まれているような雰囲気があった。しかし、

「どれもいやだね」

 懐から、魔女の薬を取り出す。地面に叩きつけると薬瓶が割れてもうもうと煙が立ち上った。視界が悪くなると同時に、違う薬をがむしゃらに投げた。大げさな炸裂音が響く。鼓膜が痛い。

 なぜ家を出たか。つい最近その話を誰かにしたばかりではないか。

 世界を股に冒険に行こうと、誓ったのだ。

 五年もこの国で燻っていた。政治の材料だとか、社交界だとか、狭い世界に居るのに嫌気が差して船に忍び込んだのだ。この国に居られないのならば、居なければいい。世界は広いのだと知っているではないか。

 魔女の煙は、甘い香りがした。嫌いな匂いだ。苦さのない、甘い匂い。魔女の香りを振り切るように走る。走る。走る走る走る。私はこの国を出ようと、走る。

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[良い点] 貴人漂流譚か。 最後でビビッた。 [気になる点] い、今俺は(略 「短編だと思ったら長編だった」 超スピードとか魔術とかそんなちゃちなモンじゃない。 もっとすごい満足感だったぜッ! [一言…
[一言] まずは、しっかりとした作品だと思いました。雰囲気がよく出ていて、違和感なく、ファンタジーというより異国を舞台にしたミステリとして読むことができました。書割になっていないところが凄いです。言葉…
[一言] 出来が良すぎて、気持ち悪いくらいです。すごく勉強になります。 ただ、主人公の暗殺者という設定は、この小説内では少し中途半端に感じられました。冒頭を始め、暗殺者にしてはちょっと軽すぎる印象で…
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