第十章 卒業、そして未来へ
三月一日。卒業式の日が来た。
体育館には、まだ少し冷たい空気が漂っている。
わたしたちは違うクラスだったけれど、座席は近かった。
校長先生の話も、来賓の挨拶も、今日は不思議と耳に残る。
卒業証書を受け取る一人ひとりの背中を見つめながら、胸の奥が静かに熱くなっていった。
入学式の日の不安。
初めて声をかけられたあの朝。
屋上で食べたお弁当。
ぶつかった夜。
何度も交わした約束。
三年間が、まぶたの裏で光っていた。
教室に戻って、最後のホームルームが始まる。
先生の声はいつもと変わらないのに、どこか遠くに聞こえた。
「三年間、ありがとうございました」
クラス全員で頭を下げる。
「みんな、立派に成長したな。これからの人生、頑張ってください」
先生の目が、少しだけ潤んでいる。
それを見た瞬間、堰を切ったように涙があふれた。
校門を出るとき、わたしは足を止めて振り返った。
三年間過ごした校舎が、春の光の中に立っている。
「さよなら、明石潮風高校」
そうつぶやいた声は、思ったより震えていた。
「まだ終わりちゃうやろ」
陽菜が笑う。
「せっかくやし、あそこ行こ」
屋上――三年前、初めて三人でお弁当を食べた場所。
フェンス越しに、明石海峡大橋が見える。
変わらない景色。
でも、わたしたちはもう、あの日のわたしたちじゃない。
「懐かしいね」
「あのとき、あゆみガチガチやったよな」
「う、うるさい」
笑いながら、涙をぬぐう。
「写真、撮ろう」
わたしが言うと、陽菜ちゃんがすぐにスマホを取り出した。
通りかかった後輩にお願いする。
「はい、チーズ」
カシャッ。
画面には、少し泣きそうで、それでも笑っている三人がいた。
「この制服も、これで最後か」
春の潮風が強く吹く。
陽菜ちゃんが、フェンス越しに橋を見ながら伝えた。
「うち、春から東京や」
「え……東京?」
「東京の専門行って、卒業したらそのまま向こうで働くつもり」
「そうなんだ……」
わたしは思わず言葉を失った。
「私も、京都の大学だから……きっと今までみたいには会えなくなりますね」
時子ちゃんが、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「大阪でもじゅうぶんかなって思ったんやけどな。でも――」
陽菜ちゃんは、少しだけ笑う。
「本気でやるなら、東京やと思った。有名なトレーナーも多いし、チャンスもいっぱいある。挑戦するなら、東京や」
潮風が、陽菜の髪を揺らす。
「そっか……」
寂しいのに、不思議と誇らしかった。
陽菜は振り向いて、いつもの笑顔で言った。
「十年後、またここで会おうや」
「そうだね。その時は、それぞれの夢を叶えた姿で」
「約束だよ」
「離れ離れになっても、うちらは友達や」
「うん」
「ずっと友達です」
また小指を絡める。
春の風が、フェンス越しに吹き抜ける。
遠くに見える明石海峡大橋は、三年前と同じように空を横切っていた。
変わらない景色。
でも、わたしたちは確実に前に進んでいる。
「十年後、ここ集合な」
陽菜が笑う。
「遅刻したら罰ゲームやで」
「何それ」
「そのとき考える」
時子ちゃんが、静かに呟いた。
「その頃には、歩未さんは個展を開いているかもしれませんね」
「陽菜は、人気トレーナー」
「時子ちゃんは、きっと本屋さんに自分の本が並んでる」
想像するだけで、胸が高鳴る。
不安もある。
でも、あの入学式の日みたいな孤独は、もうない。
わたしはカメラを取り出した。
「最後に一枚、自分で撮らせて」
時間は流れていく。
でも、ここで過ごした時間は、きっと消えない。
セルフタイマーをセットして、三人で並ぶ。
フェンス越しの空と橋を背にして、肩を寄せ合う。
十秒。
九。
八。
「歩未、泣くなよ」
「泣いてないし」
四。
三。
二。
――一。
カシャッ。
シャッター音が、春の空気の中に溶けた。
この瞬間が、また未来のわたしたちをつなぐ気がした。
画面には、少し大人びた三人の笑顔が写っている。
迷いも涙も抱えながら、それでも前を向いている顔。
あの春の日、校門の前で立ち尽くしていたわたしは、もういない。
友達を作るのが怖かったわたしは、今、大切な二人と未来の約束をしている。
潮は止まらない。
海も、人も、時間も、流れ続ける。
でも――
流れるからこそ、また交わる。
十年後。
わたしたちはきっと、ここに戻ってくる。
それぞれの夢を抱えて。
少し大人になって。
そしてきっと、また笑う。
春の光の中で、新しい一歩を踏み出した。
この日、明石の海はいつもより速く流れているように見えた。




