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冷たい水面が君を抱く

作者: スフィーダ

◆◆◆ 第一章 水光の邂逅 ◆◆◆


京都、北区。古い寺社と新興住宅地が混在するエリアに、古びた公共スポーツセンターがある。


大学生の河野洋平は、ここでアルバイトを始めて二度目の夏を迎えていた。

プールの監視、清掃、受付。

塩素の匂いが染み付いたポロシャツは彼の生活そのものだ。

両親に捨てられ、親戚の家を転々とした過去を持つ彼にとって、生活費と学費を稼ぐこの仕事は辞めるわけにはいかなかった。

プールで仲睦まじくはしゃぐ家族連れを見るたび、古傷が疼くことも度々あった。


「河野くん、次、受付代わって」


先輩の声に促され、洋平はカウンターに座った。

自動ドアが開くたびに外の熱気が入り込み、扇風機がぬるい風をかき回す。


その時だった。

自動ドアが静かに開き、一人の女性が足を踏み入れた。

その瞬間、洋平の視界から色が消え、彼女だけにスポットライトが当たったかのような錯覚に陥った。

白のノースリーブワンピース。歩くたびに風を(はら)んで揺れる裾。

手入れされた黒髪が夏の陽光を撥ね返して輝いている。


「……あの、利用したいのですが」


彼女の声は、チェロの弦のように心地よく響いた。


「あ、はい。初めてのご利用ですか?」


洋平は声が上ずるのを感じた。心臓が警鐘のように脈打つ。

彼女が利用申込書に記した名前は『九条尚美』。住所は北白川。

古くからの名家が立ち並ぶエリアだ。

築四十年の壁の薄いアパートに住む自分を思い出し、一瞬だけ胸が疼いた。

彼女が記した文字は、驚くほど美しかった。


(綺麗な人は文字までも綺麗なんだな)


それに引き換え、自分の指先はどうだ。

親戚の家を転々とさせられるたび、重い荷物を握りしめてきた手。

結局どこにも居場所はなく、最後に行き着いたのは施設の冷たいベッドだった。

書き方さえ誰にも教わらなかった自分の名前。

凛とした彼女の文字を見つめていると、自分の過去まで不格好に思えて、洋平は小さく拳を握り込んだ。



「プールをご利用ですか?」

「はい。……体力をつけたいんです。私、あまり外に出ることがなくて」


彼女は少し困ったように微笑んだ。その微笑みには、壊れ物を扱うような危うさがあった。



それから尚美は週に三回、必ず現れるようになった。

二人の会話は最初は些細なものだったが、次第に互いへの関心が滲み出るようになった。

洋平が夜学のために働く苦学生であることを隠さず話すと、尚美はそれを異世界の物語を聞くような、純粋な驚きと憧れを持って聞いてくれた。


「コンビニのおにぎりが、そんなに種類があるなんて知りませんでした」

「食べたことないんですか?今度こっそり買ってきますよ。人気のツナマヨを」


洋平が冗談めかすと、尚美はいたずらが見つかった子供のように笑った。


しかし、彼女を迎えに来る黒塗りの車がロータリーに現れると、魔法は解ける。

尚美の瞳から親愛の色が消え、名家の娘としての仮面が貼り付く。

彼女は一度も振り返ることなく、重厚なドアの向こう側へと吸い込まれていく。

その境界線があまりに強固で、洋平は自分がプールの底に取り残されたような、言いようのない孤独感に襲われるのだった。


彼女の態度から透けて見えるのは、何不自由ないが、一歩も外へ出られないような厳格な家という名の鳥籠だった。





◆◆◆ 第二章 飛べない鳥の羽音 ◆◆◆


七月の終わり。京都特有の蒸し暑い熱気が、最高潮に達した夜だった。


閉館間際、激しい夕立がスポーツセンターを襲った。

ロビーで途方に暮れる尚美に、洋平が声をかける。

「尚美さん、お迎えは……」

「来いへんのです。何度掛けても、誰も出てくれへんくて……」

いつもなら閉館と同時に滑り込んでくる黒塗りの車は、雨の中にその影もない。

心細そうに肩をすくめる彼女の姿に、洋平は意を決した。


「……送っていきますよ。自転車ですけど」


洋平の背中に、尚美の細い腕が回された。

雨に濡れて肌に張り付いたワンピース越しに、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。

それは冷たい雨の夜には不釣り合いなほど、生きている証としての熱を帯びていた。

ペダルを漕ぎながら、洋平は生まれて初めて、この時間が永遠に続けばいいと願った。


「洋平さん、ここで止めてください」


石垣に囲まれた、寺院のような屋敷の前で自転車を止めた。


「私、こんなにドキドキしたん、生まれて初めてです」


雨に濡れて潤む瞳を見つめた瞬間、洋平の感情が堰を切った。


「尚美さん……僕じゃ、ダメですか。何も持っていない学生やけど、あなたを外の世界へ連れ出したい」


尚美は驚いたように目を見開き、やがてその頬を赤く染めて洋平の胸に顔を埋めた。


「私も……ずっと待ってたんかもしれへん。あなたが、籠の扉を開けてくれはるのを」



二人の交際は、常に細い糸の上を歩くような危うさを孕んでいた。

デートの場所は、九条家の目が届かない場所だけを選んだ。

壁の薄い洋平のアパートの一室、あるいは郊外の古びた喫茶店の隅。

彼女が望んだのは宝石でもドレスでもなく、自販機の缶コーヒーの熱さや、商店街に漂う夕飯の支度の香りだった。

洋平が教える”普通の世界”を、尚美は宝物のように慈しんだ。


しかし、二人が幸福の熱に浮かされるほどに、背後に伸びる影は色濃く、冷徹になっていく。


ある日、デートの別れ際に尚美が洋平をじっと見つめた。

その瞳には、悲壮なまでの決意が宿っていた。


「洋平さん、私、この家を出たい。あなたと一緒に、どこか遠くへ行きたいの」


その言葉に、洋平はただ歓喜した。彼女を縛る鎖が、今にも断ち切られようとしているのだと。

だが、二人の背後には、雨に濡れたアスファルトを静かに噛むタイヤの音があった。


家を出たいと願う彼女の決意を嘲笑うかのように、九条家の影は常に足元に伸びていた。

アパートの軒下、古本屋の角。

至る所に潜む『番人』の視線に、盲目となった二人はまだ気づけない。

自由への渇望が強まるほどに、彼女を縛る鎖はその冷徹な重みを増していく。


幸福の絶頂にいた二人の頭上で、逃げ場のない絶望の幕が、音もなく下りようとしていた。




◆◆◆ 第三章 逃避行と泥濘 ◆◆◆


八月。

お盆を過ぎ、空がわずかに高さを増した頃、二人の蜜月は最悪の形で露見した。


「九条の名を汚すとは何事や。この馬鹿者が!」


九条家当主である父の罵声が、重厚な屋敷の壁に跳ね返る。

「どこの骨とも分からん学生など、庭を這いずり回る虫ケラと何ら変わりない。名前すら覚える価値もない、ただの『汚れ』や。そんな寄生虫に身を委ねるとは、九条家の千年の歴史を泥水に沈める恥知らずな行為やぞ!」



鋭利な刃物のような侮辱は、尚美の心を執拗に切り刻んだ。

しかし、言葉が激しさを増すほど、彼女の瞳の奥では『自由』への渇望が、静かに、しかし消えることのない青い炎となって燃え上がっていた。


厳しい監視下に置かれた尚美だったが、一度自由の味を知った彼女を止めることは誰にもできなかった。

深夜、シーツを繋ぎ合わせて窓から脱出し、隠し持っていた中古の軽自動車で洋平と合流。

二人は夜の闇に紛れ、京都を脱出した。



辿り着いたのは、滋賀県の山間にあるひっそりとした町。

洋平は名前を偽り、日雇いの土木作業で泥にまみれて働いた。

狭いアパートでの暮らしは貧しく、冷房もない部屋で一台の扇風機を分け合う日々。

それでも、尚美の顔には屋敷にいた頃にはなかった生命の輝きが宿っていた。



「洋平さん、見て。今日は肉じゃが作ってみたんや。ちょっと焦がしてしもたけど」

「美味しいよ、尚美……。でも、本当にこんな生活でよかったんか?」

「それ以上は言わんといて。私、今が一番幸せ。誰の娘でもない、ただの尚美として、あなたと生きてるんやもん」



しかし、九条家の執念は二人の想像を絶していた。

逃亡から三ヶ月。山々が血のような赤に染まり始めた頃、その()()()は唐突に訪れた。


洋平が仕事から帰ると、アパートの前に黒塗りの高級車が三台、異様な威圧感で居座っていた。


「尚美!」


ドアを蹴破るようにして飛び込んだ洋平の目に飛び込んできたのは、数人の男に羽交い締めにされた彼女の姿だった。


「黙れ、この出来損ないが!」


尚美の叫びを遮ったのは、背後から現れた父の無慈悲な拳だった。

床に崩れ落ちる尚美。


逆上して飛びかかろうとした洋平には、暴力の専門家たちが牙を剥いた。

一撃で顎を砕かれ、二撃目で腹部を抉られる。

床に転がった洋平へ、容赦のない蹴りが降り注ぐ。


「身の程を知れ、ゴミ屑が。九条の血をお前のような泥が汚していいはずがないやろ」


顔面を踏みつけられ、鼻骨が折れる鈍い音が響く。視界が鮮血で真っ赤に染まった。


「やめて!私が帰るから、彼は関係ない!殺さんといて!」


尚美の悲痛な叫びを余所に、洋平の伸ばした手を男は無慈悲に踏みにじった。

何度も何度も。

骨が軋み、指が不自然な方向に曲がる。


父は怒りで震える手で尚美の髪を掴み上げ、血まみれの洋平の眼前にその顔を突き出した。


「見ろ。これが貴様が選んだ男の成れの果てや。分をわきまえん下衆には、言葉より痛みがふさわしいわ」


父は汚れた靴を拭うような眼差しで洋平を見下ろすと、杖の先を彼の喉元へ深く突き立てた。


「……なお、み……」


薄れゆく意識の中、最後に見えたのは、スモークガラス越しに泣き叫ぶ、彼女の歪んだ顔だった。




◆◆◆ 第四章 開かずの間 ◆◆◆


一命を取り留めた洋平が、病院のベッドで意識を取り戻したのは、それから一週間後のことだった。

通りがかった誰かが、血の海に沈んでいた彼を見つけて救急車を呼んでくれたようだった。


全身を軋ませる激痛よりも、尚美を奪われた喪失感の方が彼を深く傷つけた。

あの時の尚美の顔が目に浮かび、悲痛な叫びが耳朶にこびりついて離れない。


彼は退院するや否や、折れた肋骨を庇いながら、京都のあの屋敷へ向かった。

しかし、そこには以前にも増して強固な警備が敷かれていた。


「尚美さんに会わせてくれ!彼女はどないしてるんや!」


門の前で叫ぶ洋平を、家の使用人たちが氷のような眼差しで見下ろした。


「お嬢様はなぁ、お前のことなんて、もう忘れたわ。二度とこの敷居を跨ぐな。次は入院では済まんぞ」


洋平は、屋敷の外壁に沿って、毎日毎日歩き続けた。

どこかに彼女の気配はないか、彼女の叫びが聞こえてこないか。

しかし、厚い壁の向こう側は、死後の世界のように静まり返っていた。



その頃、尚美は屋敷の最奥にある『開かずの間』に監禁されていた。

食事は一日一度、無表情な使用人が運んでくるだけ。

窓には鉄格子が嵌められ、空を見ることも叶わない。

窓に現れる雀だけが下界との繋がり。そう感じていた。

父は毎日、彼女のもとを訪れては、呪詛のような言葉を吐きかけた。


「あの男は、お前の居場所を教える条件で金を受け取って逃げたんや。これがその領収書や」


父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類だった。


「……嘘。洋平さんは、そんなことせえへん」


父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類だけではなかった。


「これを見ても、まだあの男を信じるって言うんか」


父が差し出したのは、巧妙に偽造された書類と洋平が大切にしていたはずの古びた腕時計。

そしてあの狭いアパートの鍵だった。


「奴はこれらを置いて、笑って去ったわ。『思い出なんてこの程度のゴミや』と言い捨ててな」


さらに父は、画質の荒い一枚の写真を見せつけた。

そこには、見知らぬ女と親しげに肩を並べ、札束の入った封筒を手に卑屈な笑みを浮かべる洋平の姿があった。

精巧に細工された写真であることなど、極限状態の尚美に見抜けるはずもなかった。


「……やめて。もう、堪忍して……」


尚美は震える手で耳を塞いだが、父の追撃は止まらない。


「奴はお前の身体よりも、九条家が支払う端金を選んだんや。それが、お前が『真実の愛』やと信じ込んだものの正体や。お前は金で買われただけの女に過ぎんかったんやで」


物理的な暴力よりも鋭い言葉の刃が、尚美の心の核を容赦なく叩き潰していく。

外部からの情報が一切遮断された閉鎖空間で、彼女の心は次第に蝕まれていった。


洋平の温もり、あの狭いアパートの匂い、二人で食べた焦げた肉じゃが。

それらの記憶が、父が提示する”証拠”という名の毒によって、色彩を失っていくのが怖かった。


「洋平さん……。あなたがいない世界は、こんなにも冷たくて、暗いんやね」


彼女は、自分が生きる意味を見失いつつあった。


もし、彼が本当に自分を捨てたのだとしたら。

あるいは彼が自分のせいで、もうこの世にいないのだとしたら。

その疑念が、彼女の脳裏に『水』のイメージを浮かび上がらせた。



――スポーツセンターの深い青色の水――



すべてを包み込み、苦しみを溶かしてくれる静寂の世界。

それが、尚美に残された唯一の『出口』に見え始めていた。





◆◆◆ 第五章 冷たい水面だけが、君を抱く ◆◆◆


十一月の末。

京都に冬の足音が聞こえてくる、ある冷え込みの激しい夜だった。

屋敷の警備が当主の外出のために一瞬だけ緩んだ。


尚美は、この数週間の間に食事を削って痩せ細った体を利用し、格子の隙間を抜ける方法を見つけていた。

彼女は寝巻きの上に一枚のコートを羽織っただけで、裸足で屋敷を抜け出した。

向かったのは、月極駐車場。

そこには、かつて洋平と逃げた時に使った、あの小さな軽自動車が埃を被ったまま放置されていた。

震える手で隠し持っていた予備の鍵を差し込む。

祈るような気持ちで回したエンジンが、静寂を切り裂いて悲鳴のような咆哮を上げる。

彼女はアクセルを強く踏み込み、決別を告げるように走り抜けた。



向かったのは、かつて洋平と逃げた時に通った、あの山道だった。

その先には、巨大なダムがある。

洋平がいつか『水面に映る月が綺麗なんやって』と教えてくれた場所。


夜のダムは、巨大な獣が横たわっているかのような、不気味な静寂を湛えていた。

尚美は、震える足で堰堤(えんてい)の端に立った。

下を見れば、吸い込まれそうなほど深い黒。

だが、彼女の目には、その黒の中に洋平が笑っている姿が見えた。


「洋平さん。今、行くからね」


彼女はフェンスを乗り越え、宙に身を投げた。


落下する刹那、彼女の脳裏を駆け巡ったのは、あの夏の日のスポーツセンター。

自動ドアが開き、洋平と目が合った、あの一瞬の永遠。


ドォォォォン……という、重い衝撃。


冷たい水が彼女のすべてを奪い、そして同時に、あらゆる苦しみから彼女を解放した。

九条という名も、家のしきたりも、父の呪縛も、水底の静寂の中では無意味だった。


そこは、誰にも邪魔されない、彼女だけの聖域だった。





翌朝、洋平のもとに警察から一本の電話が入った。


「……ダムで女性の遺体が発見されました。お名前は九条尚美さん。それと彼女の左の手のひらに油性ペンで何か書かれていまして」


受話器を持つ洋平の手が震える。

警察によれば、冷たい水にさらされながらも、そこには滲んだ文字で洋平の携帯電話番号が、そしてその下に震える筆致で『あいしてる』と書き残されていたという。


万が一、身元不明の遺体として処理されそうになっても、必ず洋平の元へ辿り着くように。

死してなお、彼女の魂は実家ではなく、洋平の元へ帰りたがっていたのだ。


一方、警察から遺体安置所に呼び出された父親は、変わり果てた娘の姿を前にしても、涙一つ流さなかった。

それどころか、手のひらの番号を見るなり、忌々しげに吐き捨てた。


「死んでまで、あんな男と繋がり持とうとするなんて……。どこまで卑しい娘や。九条の血を引く者が、死に際に汚らわしい数字を肌に刻むなんて、一族の末代までの恥やぞ。さっさと洗い流せ!見てて反吐が出るわ」


その冷酷な怒号を、遺体安置所の重い扉の外で洋平は聞いていた。

不自由になった右手の指を骨が軋むほど強く握りしめる。

彼女が最期に自分の肌に刻み込んだ、唯一の『繋がり』さえも、この男は踏みにじろうとしている。





洋平は、彼女が身を投げたダムのほとりに立ち、冷たい水面を見つめていた。


「……どうして、僕を置いていったんや。尚美」



彼の問いに答える者はいない。ただ、風が吹き抜け、水面が小さく波立つだけだ。

悔恨の涙が、水面に落ちて波紋を作る。


しかし、ふと彼は感じた。

吹き抜ける風の中に、あの夏の日の百合の香りが混じっているのを。


「……ああ、そうか」


彼女は、死を選んだのではない。

この残酷で理不尽な世界から、自分たちの『愛』を永遠に守り抜くために、あの水の底を選んだのだ。

そこは誰にも汚されることのない二人だけの場所。


洋平は、水面に向かって静かに呟いた。


「待ってて、尚美。僕がそっちへ行くまで、もう少しだけ時間くれへんかな。君が愛してくれたこの世界を、君の分まで見てから必ず会いに行くから」


ダムの水面は、冬の朝日を浴びてキラキラと輝き始めた。

それは、あの日スポーツセンターのプールで見た彼女の瞳の輝きに似ていた。





◆◆◆ 終話 止まった時計と流れる水 ◆◆◆


尚美が亡くなってから、三年の月日が流れた。


洋平の身体には、あの日に負った傷の痕が今も残っている。

雨が降るたびに、折れた肋骨のあたりが鈍く痛み、踏みつけられた右手の指は、少しだけ不自然に曲がったままだ。

しかし、肉体の痛みなど、心の欠落に比べれば何の意味も持たなかった。


彼は大学を中退し、あの日二人で暮らした町に近い小さな町工場で働いていた。

彼が生きていく理由はただ一つ。

彼女の命を奪った『家』が、彼女の存在を歴史から消し去るのを許さないためだった。



ある日、洋平のもとを見知らぬ老女が訪ねてきた。

かつて、尚美の屋敷で長年働いていたという元使用人だった。

彼女は震える手で、古びた風呂敷包みを洋平に差し出した。


「……あの日、お嬢様がダムへ向かはる直前まで、枕の下に隠してはったもんです。旦那様に見つかったら燃やされてしまう。それだけは忍びなくて」


中には一冊の小さな日記帳が入っていた。

ページをめくると監禁されていた日々の、震えながらも懸命に綴られた筆跡が並んでいた。



―― 十月十二日 ――

今日も窓の外に雀さんが来ました。

雀さんに「洋平さんはどこにいるの」と聞いても答えてくれません。


私を助けようとして、ひどい怪我を負わせてしまった。

私のせい。全部、全部全部、私のせい。

でも、後悔はしていません。

あの三ヶ月、私は初めて『自分』として生きていた。



―― 十月二十日 ――

父が、洋平さんはもう私を忘れて別の女の人と暮らしてるって言いました。

嘘やわ。あなたはそんな人じゃない。

私の指には、まだあなたの手の温もりが残ってるもん。




そして、最後の日付のページ。そこには、ただ一行。


―― 十月二十四日 ――

今夜、会いに行きます。 冷たい場所かもしれへんけど、そこが一番、あなたに近い気がするから





洋平は日記を抱きしめ、声を上げずに泣いた。

彼女が最期に選んだ『死』は、絶望ではなく、彼への純粋すぎるほどの愛の証明だったのだ。


洋平が日記を抱きしめて泣いたあの日を境に、九条家の運命は音を立てて崩れ始めた。

きっかけは、尚美の死を『恥部』として隠蔽し、何食わぬ顔で次の政略結婚へ動こうとした父親の冷酷さだった。

日記を届けた老女をはじめ、長年一族の闇を黙認してきた使用人たちが、洋平の執念に突き動かされるように次々と内部告発に踏み切ったのだ。


名家という虚飾の仮面の下で行われていた監禁、暴力、そして不正な資金工作。

それらはSNSや週刊誌を通じて瞬く間に世に知れ渡り、九条家は社会から激しい指弾を浴びた。

取引先は潮が引くように去り、膨大な借財だけが残された。


父親は、最後まで『自分が正しい』と叫び続けたが、没落の速度は残酷だった。

広大な屋敷は差し押さえられ、先祖代々の家宝や土地もすべて競売にかけられた。


かつて尚美を『籠』に閉じ込めていたあの高い石垣は、重機によって無慈悲に崩され、九条の名は京都の社交界から永遠に抹消された。

最後には着る物さえ失った父親が、かつて洋平を『泥』と呼んだその口で、一切れのパンを求めて震える無惨な姿が目撃されている。




数日後、洋平は彼女が身を投げたダムの淵に立っていた。

観光客もまばらなその場所で、彼は日記を一ページずつ破り、風に乗せた。


「尚美。僕は、まだこの世界で生きていくよ」


彼は曲がった右手を強く握りしめた。


彼女を連れ去り、踏みにじった者たちは、今やその地位も富も失っている。見る影もなく没落したのである。

だが、彼らがどれほど無様に堕ちようとも、洋平の胸に開いた穴が埋まることはない。

ただ、尚美の魂が、あの日の夜に冷たい水面を通り抜けて、本当の自由を掴んだことだけが彼の唯一の救いだった。



洋平は空を見上げる。

雲の間から、あの日スポーツセンターで初めて出会った時のような、透き通った光が差し込んでいる。


「いつか、僕もそっちへ行く。その時は、もう誰にも邪魔させへんよ。二人で、あの安アパートで、また肉じゃが作ろうな」


水面は、ただ静かに彼の言葉を飲み込み、穏やかに揺れていた。


かつて彼女を閉じ込めていた屋敷の跡地には、今や名もなき雑草が生い茂っている。

風が吹くたびに、まるで誰かの祈りのように力なく揺れているだけだった。

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