マリカエル・リターンズ
僕と一緒に住んでいるマリカエルさんは、とても魅力的な人だと思う。
外見は長い黒髪の清楚な印象で、ものすごく綺麗な人ではある。それも、魅力の一部。だけど、一番大事なことじゃない。
そんなマリカエルさんは、地下室から出てきてすぐに僕をじっと見てきた。ちょっとだけ、冷たい目で。
「人間、歯磨きしなさい。洗顔料と歯磨き粉を間違えてはいけませんよ。どれだけゆすいでも、取れませんから」
「もしかして、間違えたの? 僕も気をつけないとね」
「う、うるさいですね。とにかく、不潔なまま寝ることは許しませんよ」
顔を真っ赤にして、そっぽを向いている。月明かりだけでも分かるくらいに、頬が染まっているんだ。つい、笑顔になってしまう。
「もちろんだよ。ありがとう、心配してくれて」
「汚いままでいられると、私の品位まで落ちるというだけです」
ジトッとした目で冷たい言葉を投げかけてくるけれど、素直じゃないだけ。同じようなことは、何度もあったから。
言葉は厳しいけれど、ずっと僕を大切にしてくれている。それが分かるから、僕はマリカエルさんと過ごす時間のほとんどを、笑顔でいられるんだ。
きっと、誰よりも優しい人。他の誰が認めないとしても、僕は信じるよ。
歯磨きをしたら、マリカエルさんは先にベッドに入っていた。そっと近寄ると、布団からぬっと腕が伸びてきて、勢いよく引っ張り込まれた。
マリカエルさんに抱きつく形になってしまう。柔らかさとか、優しくて甘い香りとか、少し高い体温とか、いろいろなものが伝わってくる。
僕は、固まったように動けない。きっと、像みたいにカチコチだと思う。
「まったく、何を照れているのですか。私たちは家族でしょう? いい加減、慣れてもいいですよね」
「そ、その……。マリカエルさんって、とっても素敵だから……」
「ば、バカなことを言わなくて良いんです。さっさと目を閉じなさい。寝坊をしても、知りませんよ」
言われるがままに目を閉じて、眠りにつこうとする。少しも動ける気がしないし、ドキドキもする。目を開かなくても、目が冴えているって分かるくらいに。
「むにゃ……。ペンダント、外してはいけませんよ……」
首にさげたペンダントは全く苦しくないのに、息すらうまくできなかった。結局、僕が寝るまでには、たぶん数時間くらいかかったんだ。
次の日。優しく揺すられながら僕は目覚める。目を開くと、そこには冷たい目のマリカエルさんがいた。
僕のことを呆れたように見ていて、首を振ってため息までついている。
「人間。寝坊するのなら、朝ごはんは抜きでも良いんですよ?」
その言葉に時計を見ると、もう9時になっていた。いつもは7時くらいに朝ごはんを食べていることを思えば、大寝坊だ。
ただ、食欲をそそる匂いが布団のところにまで届いてくる。朝ごはんを作ってくれて、それで起こしてくれたんだね。
いま笑顔を向けると、機嫌を損ねちゃう。それでも、微笑みかけたいくらいだよ。
「わざわざこの私が作ったことに、心から感謝することですね」
「ありがとう、マリカエルさん。今日も、楽しみだよ」
マリカエルさんにお礼を言って、一緒に食卓に向かった。
そこに置かれていたのは、オムライス。卵がちょっと破れていて、中のチキンライスが飛び出ているんだ。もっと言えば、ケチャップで書かれた模様は何がなんだか分からない。
僕はきっと、マリカエルさんを優しい目で見ている。
「形が崩れている? 問題は味です、味。火の通りはしっかりしているんですから、十分でしょう」
何も言っていないのに、僕をにらみつけてきた。まあ、当たっているんだけど。
ツンツンした姿も、僕は好きかな。ちょっと不器用なのも、また可愛いというか。
「マリカエルさんが醤油とコーラを間違えた時も、案外おいしかったからね」
「余計なことを言わなくて良いんですよ。まったく、この人間は……」
「ほっぺに米粒を付けながら言われても、可愛いだけだよ?」
「う、うるさいですね。そんなこと、わざわざ言わなくて良いんです」
また、にらみつけられてしまった。視線に圧力は感じるけれど、どうしても笑顔になりそうだ。神妙な顔をしないと、きっと怒らせてしまうけれど。
マリカエルさんが可愛すぎるのが悪い。そうとしか言えないかな。
朝ごはんを食べたら、マリカエルさんはカバンを持って出かける準備をしていた。
僕は外に出ていったことがないんだよね。いま住んでいる家だけが、僕の知っている世界。
でも、それで良いんだ。マリカエルさんと過ごす時間は、確かに暖かいから。
「では、食材を買いに行ってきます。言うまでもありませんが……」
「ペンダントはなるべく外さない。地下室には入らない。分かっているよ」
「なら、良いんです。私に、余計な手間をかけさせないことですね」
出かけるマリカエルさんを見送って、僕は適当に本を読んで過ごす。
別に不満はないつもりだけど、ひとりの時間は退屈かな。
でも、本の感想を聞いてもらう時間を想像するのは悪くない。軽くあくびをしながら、僕はページをゆっくりと進めていったんだ。
本を二冊くらい読み終えた頃、足音が聞こえてくる。扉の前まで行くと、マリカエルさんが入ってきた。
「おかえりなさい、マリカエルさん。何か、良いものは買えた?」
「そうですね。良い魚と良い味噌が買えました。まずは、昼食ですね。疲れましたし、軽いものにしましょう」
マリカエルさんは、僕の返事も待たずにキッチンへと向かっていく。
包丁の音が響いて、その後にはジュウジュウという音が届いてきた。
合計で15分くらいで、調理は終わったみたい。マリカエルさんは、朝炊いたお米と味噌の匂いがする野菜炒めを持ってきた。
「さ、食べなさい。話したいことがあるのなら、口にものを入れずにですよ」
「もちろんだよ。手をはたかれるのは、もう十分だからね」
マリカエルさんのしつけは、厳しかったのかどうなのか。手をはたかれたと言っても、別に大して痛くはなかった。むしろ、そっと叩いてくれたのが分かるくらいに優しい感触だったくらい。
そう考えると、甘やかされているのかもしれない。料理も作ってもらっているし、買い物にも行かなくていいし。
本の感想を少しずつ話す。マリカエルさんは髪をいじりながら聞いていたよ。
でも、絶対に内容は覚えてくれている。主人公が実子でないことを悩むシーンの感想を最初に話した。最後に話し合うシーンの感想の時に、悩みの時のことを言ってくれたから。
ただ、少しだけマリカエルさんは目を伏せていた。きっと、僕の下手な話でも感動が伝わったんだと思う。なんだかんだで、感情豊かな人だからね。
夕食も同じように作ってもらって、食べる。マリカエルさんは、ため息をつきながら食べていたんだ。
それを見て、僕の中には浮かび上がってくる感情があった。少しでも、この人を喜ばせられたら。
気付いたら、僕は言葉を発していたんだ。
「マリカエルさん、料理を始めてみても良いかな?」
僕の言葉を受けて、マリカエルさんはあごに手を当てて考え込む。どこか、目を揺らしながら。しばらくして、鼻のあたりに指先を向けられた。キッと見つめられてもいた。
「構いませんが、玉ねぎやネギは入れないように。破ったら、叩き出しますからね」
「そんなに嫌いなんだ……。じゃあ、絶対に入れたりしないよ」
そう言ってなお、嫌そうな顔をしていた。本当に嫌いだということが、どこまでも伝わってくる。
まあ、玉ねぎやネギを食べた記憶はないし、そもそも家にないとは思うんだけど。
あったとしても、入れないよね。喜んでほしくて始めることなのに、嫌がらせになっちゃったらおしまいだから。
次の日から、僕は料理を始めた。最初の頃は、手取り足取り教わっていた。
焦がしかけて、即座にマリカエルさんが火を止めたり。包丁の持ち方を間違えて、メチャクチャに怒られたり。
それでも、少しずつ上達していった。どんなに失敗しても、マリカエルさんは絶対に完食してくれた。
「まずいですね。もっと腕を上げなければ、話になりませんよ」
そんな事を言っていても、僕には愛情の証だとしか思えなかったんだ。
なにせ、まずいと言うような料理ですら、全部を食べてくれたんだから。それが、どれだけ嬉しかったか。きっと、どんな言葉でも言い表せないと思う。
だからこそ、僕は料理にのめり込んでいったんだ。手間のかかった料理も、マリカエルさんに食べてもらえるように。
地下室への扉はキッチンの近くだから、マリカエルさんはたまに僕の調理光景を覗き込んでいたよ。
そういう時は、どこか疲れていることが多い。僕は、マリカエルさんが地下室に居る時間でメニューの数を調整することも覚えたんだ。
結果としては、マリカエルさんが満足そうに頷く機会は増えた。僕の料理は、間違いなく喜んでもらえていたよ。
色々と作っていく中で分かったことは、マリカエルさんは魚と味噌が好きってこと。
思い返してみると、魚や味噌の料理が出ることが多かったと思う。
だから僕は、とあるメニューを作ろうと決めたんだ。しっかりと頭の中でレシピを考えて、こまめに味見をしつつ調整していく。
まだ空が青い頃から作り始めて、暗くなった頃にできあがる。ひとくち食べて、僕は何度も頷いたよ。会心の出来。そう言い切れるくらいだったから。
食卓で待つマリカエルさんは、目を伏せながら待っていた。並べた料理を見て、目を見開いて瞳を揺らす。
何かあったのだろうか。少しだけうつむいて、僕は確認したよ。
「どう、かな? ちょっと、今回は自信作なんだよね」
マリカエルさんは、とてもゆっくりとサバの身をほぐしていた。箸でつかんでからも、口を開いたり閉じたり。ひとくち目を食べる前に、手を止める瞬間もあったんだ。
僕は、祈るような気持ちでマリカエルさんを見ていたよ。実際に動くことはできなかったけれど。
どこか神聖なものを見ているように思えて、息を吸うことすら怖かったんだ。
口に入れたマリカエルさんは、噛みしめるように味わっているようだった。じっと目をつぶって、深く。
「これは……。サバの味噌煮……。私の、知っている……」
マリカエルさんは目頭を押さえて、どこか遠くを見ている。何かを懐かしむかのように。恋い焦がれるかのように。
大して珍しい料理でもないんだけど。そんなこと、とても言えなかった。
その日のマリカエルさんは、寝る直前まで地下室にこもっていたんだ。
次の日、マリカエルさんは朝から出かける。いつものように、食材を買いに行くために。
僕は、できるだけ美味しい料理を作ろうと思ったんだ。サバの味噌煮で、どこか感情を揺さぶられているように見えたから。
ホッとするようなものが作りたくて、味噌汁と魚の煮物にするって決めたんだ。
そんな中で、味噌を服にこぼしてしまう。ペンダントにも付いちゃって、拭くために外す。そうしたら、洗い忘れていた手が滑った。
ペンダントが転がっていって、地下室に落ちていくのが分かった。
なぜか今日は、地下室への入り口が開いていたらしい。マリカエルさんらしい失敗だったんだと思う。
というか、僕もマリカエルさんみたいな失敗をしちゃったな。
けど、僕はとても困ったことになっていたよ。地下室への入り口を見ながら、僕は足を進めて止めてを繰り返していたんだ。
「ペンダント……。でも、地下室……。うん、ペンダントを取るだけだから……」
どちらを選んでも、僕は言いつけを破ることになる。なら、マリカエルさんが贈ってくれたペンダントを大事にしたい。
そう考えて、僕は地下室へと足を進めていったんだ。どこか、胸に冷たさを感じながら。
階段の一番下に、ペンダントを見つける。そこまで走っていって、拾う。
顔を上げると、無数のガラスケースのようなものがあった。その中には、僕と同じ顔をした人ばかりが入っている。
心臓の音を、妙に強く感じた。気がついたら、震えていた。寒くなって、自分を抱きしめるような格好になってしまう。
「これは……、僕? いったい、何人……」
こぼれた言葉で、少しだけ状況を理解できた。マリカエルさんは、きっとこの大量にいる僕を隠したかった。だから、地下室に入ることを禁止していたんだ。
でも、どうして僕がこんなに。マリカエルさんは、何をしていたんだろう。
ガラスケースに、そっと触れる。ただ冷たさだけが、伝わってきた。中に入っているものは、僕と同じ顔なのに、とても無機質に見えた。
息をしている感じは、しない。なら、きっと……。
僕は、ただ周囲を探し出した。自分でもどうしたいのか分からないまま。マリカエルさんの真実を知りたいのか、知りたくないのか。
きっと、なにか事情があるはず。自分に何度も言い聞かせて、ただ手がかりを求める。
優しいマリカエルさんらしい裏があるはず。そう願いながら。
しばらくして、一冊の本を見つけた。手にとって、ページを開く。その中には、多くの文字が記されていた。
軽く目に入った範囲では、日付だけが分かった。それは、つまり日記だってこと。
一度本を閉じて、深呼吸。そしてページを開こうとすると、手が震えてつかめない。
もう一度深呼吸して、日記を見つめる。見なかったふりをすれば、元の日常に戻れるかもしれない。マリカエルさんと笑い合っていた、これまでの日々に。
だけど、きっと脳裏によぎるだろう。大量の僕と、この日記が。
もしかしたら、マリカエルさんが暗い顔をした理由も書かれているのかもしれない。その心に、寄り添えるのかもしれない。
気付いたら、震えは止まっていた。最後にまた深呼吸をして、1ページ目を開いた。
――
▲月■日
人間の魂を得て、何年経っただろうか。当然にやってきた、寿命での別れから。
あの人の顔を、声を、話を、ただ追い求めるしかなかった。けれど、どこにもなかった。
懐かしいサバの味噌煮が、今は遠く思える。料理に挑戦しても、あの味は再現できなかった。どうしても、違うものでしかなかった。
どうして、私は記録しておかなかったのだろう。人間の言ったことも、したことも。全部残しておけば、まだマシだったはずなのに。
私は、魂を持っているだけ。それだけでしかない。
――
サバの味噌煮は、亡くなった人との思い出の料理。遠くを見るような目は、そういうことだったんだろう。
そっと、胸を抑える。大丈夫。まだ、読み進められる。
――
▲月●日
あの人の器を作ることに決めた。私は魂を持っているのだから、肉体さえあれば取り戻せるはず。
もう一度、私に微笑みかけてほしい。料理を作ってほしい。優しい瞳で、私を見つめてほしい。
それさえ叶うのならば、どれほどの禁忌にだって手を出そう。あの人の尊敬する大天使でなくなるのだとしても。
――
少し、日付が飛んでいる。毎日書くようなことは、していなかったみたいだ。
マリカエルさん、ちょっと適当なところがあるからね。それがポンコツさにつながっているというか。だから妙な失敗をするというか。
ちょっとだけ、くすりとしてしまった。でも、きっとここからは……。息を呑んで、ページを進める。
――
✘月■日
完成した器に、魂は定着しなかった。もはや、単なる肉の人形でしかない。
腐り落ちる前に、処分していく。閉じたままの瞳から、見つめられているような気がした。
いや、ただの気のせいだ。私の罪悪感が見せた幻影に過ぎない。それだけ。
――
一度、目を閉じる。全部、息を吐き出す。
あの大量の僕は、そもそも生きていないみたいだ。良かったのか、悪かったのか。
いずれにせよ、僕が何者なのかは分かってきた。マリカエルさんが取り戻したかった人の、器。
とりあえず、続きを読もう。
――
✘月●日
魂を定着させるために、触媒を用意する。私の力を込めた金属。それを近くに触れさせていれば、きっと。
✘月▲日
仮称:ハートメタル。胸に触れさせると、より強い反応を示す。ずっと触れさせる手段は……。埋め込むには、無理がある。装飾品。ペンダントだろうか。
それにしても、胸に強い反応があるとは。心は胸にある俗説は、案外的を射ていたのかもしれない。
――
ペンダントを、握りしめる。外してはいけない理由は、これで分かった。
もしかしたら、僕はペンダントがないと死んでしまうのかもしれない。それとも……。
――
■月●日
ついに、完成した。魂を定着させる手段が。ハートメタルのペンダントで、合っていた。これで、私は輝ける日々を取り戻せる。久しぶりに、甘いものでも食べようか。そんな気分だった。
■月▲日
魂は定着したのに、記憶を持ち合わせていなかった。私のことを見て、不思議そうな顔をするだけ。それが、どうしようもなく胸を締め付けた。
いっそ、処分するか。そう考えた時に、小首を傾げる姿が目に入る。あの人と、同じだ。
そう気づいた時には、もう殺せるような気がしなかった。受け入れるしか、ないのだろう。
――
息が止まったのが分かった。心臓が、妙にうるさい。
マリカエルさんが、僕を処分しようか考えていた? あの笑顔も、ただの演技だった?
何度も何度も首を振る。そんなわけない。マリカエルさんは、僕を大切にしてくれていたんだ。そのはずだよ。僕にだけは、分かるんだ。
――
●月★日
新しい人間と過ごして、しばらく経った。やはり、記憶は戻らない。
それでも、少なくとも私から殺すことはできない。寿命まで、見守り続けるつもりだ。その先のことは、その先で考えればいい。
ただ、方法論は考え直さなければならないのだろう。同じ手段では、また同じ結果になるだけ。それだけなのだから。
どうか、私を許して。決して、私を許さないで。
せめて、あなたには人としての幸せを……。
――
軽く、ため息が出た。安心したのか、それとも呆れたのか。
ただ、ひとつだけ確信できたよ。それは、本当に僕を大切にしてくれているってこと。
たとえ、かつての誰かの代わりだと思っているのだとしても。
――
★月●日
サバの味噌煮。あの人との思い出の料理。偶然ではありえない。やはり、あの人と同じ。きっと、魂にまで刻み込まれた記憶。
胸が暖かくなるような、どこまでも寒いような。あの人と今の人間は、完全に同じではない。
私にとって、我が子のような。弟のような。かつてと同じ目で見ることは、もうできない。だけど……。
――
胸を、そっと抑えた。僕は、喜べば良いのだろうか。悲しめば良いのだろうか。
分からない。マリカエルさんに対して、どんな態度を取れば良いのか。これまでと同じでいいのか。
少し、頭を冷やそう。日記を置こうとすると、足音が聞こえてきた。
隠れる場所を探す。ガラスケースばかりで、見つからない。
そっと、階段の方を見る。ため息をついて、ただマリカエルさんを待った。
やってきたマリカエルさんは、どこか消えてしまいそうに見えた。
目を伏せて、悲しそうな顔をしている。手を伸ばしても、すり抜けてしまいそう。
僕は、ただ見ているだけしかできなかった。
「人間。それを、見てしまったのですね。ダメだと言ったはずなのに……」
「マリカエル、さん……。僕は……」
「責めても、仕方ないですね。いいえ。責められるべきは、私なのでしょう」
「ごめんなさい……。僕が、ペンダントを落としたばっかりに……」
「閉め忘れた私が、バカだったんです。いくら動揺していたからって……」
マリカエルさんは、胸元のあたりをぎゅっと握っていた。血管が浮き出るくらいに、強く。
どれだけ強い感情が込められているかなんて、簡単に分かる。
そこにあるのは、怒りなのか悲しみなのか。僕には、分からなかった。
言葉が思いつかない。なんと言えば良いのか、整理できない。
黙ってしまう僕を前にして、マリカエルさんはゆっくりと話し始めた。
「あなたには、すべてを知る権利があります。……聞いて、くれますか?」
怒られるのを待っている子供。たぶん、今のマリカエルさんみたいな顔のことを言うんだと思う。本で読んだだけの言葉だけど、しっくりと来る気がしたんだ。
僕は、ただ頷く。知らなきゃ、何も始まらないから。マリカエルさんの本当の気持ちだけは、せめて。
「お願い、マリカエルさん」
「私には、かつて恋人がいました。無力で、愚かで、ただ優しいだけの人間だった人。特技なんて、ちょっと上手な料理程度でした」
「僕と、似ているね……」
「はい。サバの味噌煮は、あの人との思い出なんです。私のためだけに、作ってくれたもの。私の心に、寄り添ってくれたもの」
「やっぱり、大好きだったんだね……」
「そうです。絶対に、否定できません。身も心も、私たちは深くつながっていた。どこまでも、燃え上がるほどに」
マリカエルさんは、口元を緩めていた。楽しい思い出が、たくさんあったんだろう。僕の知らないことが、たくさん。
なんか、胸が痛い気がする。でも、話を続けないと。少しだけ舌を噛んで、僕はマリカエルさんに向き合う。
「うん、分かる。マリカエルさんの顔を見ていたら」
「確かに、満たされていたんです。その記憶と魂を抱えているだけで、幸せだと思えたんです」
「でも……」
「結果は、あなたも知っている通り。大天使でも、いえ、大天使だからこそ、耐えられなかった」
だから、器を作る実験をした。僕は、記憶を持っていなかった。それが現実。どこまでも、残酷な話。
マリカエルさんは欲しいものを取り戻せなかった。僕は、ただの偽物でしかなかった。
せめて記憶を持っていれば、ただ甘い日常だけが待っていたかもしれないのに。
胸のあたりが、むかむかしてきたかも。なんか、マリカエルさんの顔がぼやけてきたな。
「マリカエルさん……。僕は、失敗作だったの?」
「そんなわけありません! あなたは、私の家族なんです。あの人の記憶を持っていないとしても、間違いなく」
「でも、僕を処分するか悩んだって……」
「……ずっと一緒に過ごしてきて、捨てられるはず無いじゃないですか。あなたは、ずっと私を慕ってくれていたのに」
そっと、包みこまれるような感触があった。マリカエルさんが、僕を抱きしめてくれた。
体温が、気持ちを伝えてくれるような気がする。僕を、大切にしてくれていると。僕を、僕として見てくれているんだって。
涙が、とめどなくあふれてくる。とても優しく、頭をなでられた。宝物みたいに、そっと。
「マリカエルさん、僕は……」
「どうか、私と生きてください。あなたの命が尽きるまで。大切な思い出で満たされるまで」
マリカエルさんは、優しく微笑みかけてくれた。
僕は一度だけうつむいて、しっかりと目を合わせる。ゆっくりと、背中に手を回す。何かに背中を押されたかのように。抱きしめられる力が、もっと強まった。
それだけで、聞きたいことが全部吹き飛んでいってしまう。幸せで、頭がいっぱいになる。僕のすべてが、満たされてしまったんだ。
マリカエルさんの笑顔が見られるのなら、幸せ。そんな気持ちも、僕は引き継いだのかな。サバの味噌煮に、たどり着いたみたいに。
だって、もっと怒ってもおかしくないもんね。もっと恐れても。自分でも、分かるよ。少し、おかしいって。
でも、これでいいんだ。僕とマリカエルさんは、これで。
「うん。一緒に、生きてほしい。僕には、マリカエルさんしかいないから……」
「……はい。きっと、苦しむのでしょう。悲しむのでしょう。私も、あなたも。それでも、私は……」
「大丈夫。今だって、僕は平気だから。でしょ?」
「あなたは、優しいですね……。だからこそ、今度こそ。安らかに生を終えるまで、あなたに寄り添い続けます」
どうせ、僕は外の世界で生きていけない。そんな気持ちも、否定できないけれど。
でも、本当に大丈夫。なでるように頬に触れて、微笑みかけてくれる。それだけで、僕は幸せだから。今、頭がとろけそうになっているから。
「ずっと、よろしくね。お願いだよ、マリカエルさん。サバの味噌煮も、頑張って作るから」
「大天使として、あなたに祝福を。ただ、幸福を祈りましょう。あなたの魂を、いずれ奪い去るまで」
「それって……?」
「ふふっ。あなたが生きている間は、あなたはあなたのものです。その先は、私だけのもの……」
「でも、前は……」
僕を作らなきゃいけないくらいに、悲しみに果てていた。それでも、大丈夫なのかな。
マリカエルさんは、僕のあごを指先で持ち上げて、色っぽく笑いかけてきた。目どころか、心まで奪われそうなくらいに。
「今回は、別の手段です。あなたの魂を、私の魂と混ぜるんです。そうすれば、私は両方を手に入れられるんですから。私の魂が歪もうとも、構いません」
「なら、ずっと一緒だね……」
「はい、永遠にです。いつか私に溶けゆく日を、楽しみにしていてくださいね?」
マリカエルさんは、とても透き通った笑顔を見せてくれた。何もかも、晴れやかになったように。
それだけで、どんな未来が待っていても良いって思えた。頬をなでられる感触に、ただ身を預けたんだ。




