⑥香草の香り
それからの日々、リリィ堂は何も変わらなかった。
毎朝、ミナは扉を開け、棚を磨き、香草を束ねる。
客は絶えず訪れ、町のざわめきは変わらない。
けれど――世界の色だけが、少し薄くなったように思えた。
「ミナちゃん、今日も綺麗な香りだねえ」
「はい、今朝はラベンダーを多めにしました」
口元では笑っている。
けれど、胸の奥では誰かの声を探していた。
扉の鈴が鳴るたびに、
“エリ”の名を呼びそうになる。
……鳴らない鈴。
香草の香り。
夢のようだった十日間。
すべてが現実だったのだろうか、と時々思う。
けれど、机の上に置かれた銀の留め具が、確かに彼の存在を告げていた。
ミナはそれを、布の袋に包んで大事にしまってある。
ある晩、ふとした気まぐれで、その留め具を取り出した。
月明かりの下、銀の紋章が静かに光る。
まるで、“また会おう”と囁いているように見えた。
ミナは深く息を吸い込み、香草の束を胸に抱いた。
ラベンダー、ミント、そしてほんの少しのローズマリー。
彼が好きだと言った香りだ。
それらを束ねながら、ミナは静かに目を閉じた。
――エリ。
あなたが王子でも、
私にとっては、香草の香りを選んでくれた“お客様”です。
いつかまた、どこかで、
あなたがこの香りを思い出してくれたなら。
それだけで、きっと私は報われる。
風が窓を通り抜け、
扉の鈴が――ちりん、と鳴った。
夜の町に、柔らかな音が響く。
その音を聞いた瞬間、
ミナは不思議と笑顔になっていた。
――もう一度、会えますように。
その願いは、香草の香りとともに夜空へと溶けていった。




