⑤夜、月明かりの下で
その夜。
ミナは店を閉めたあと、
ひとりで棚の奥を整理していた。
月の光が窓から差し込み、
木の床に淡い影を落とす。
机の上には、ひとつの香草袋。
王子――いや、“彼”に渡したものと同じ作りだ。
あのとき、彼が言っていた。
――「香りが、心を整えてくれるんですね」
――「貴女の作る香りは、どこか懐かしい」
どうしてそんな言葉をくれたのか。
あのときはわからなかった。
でも今なら――少し、わかる気がする。
「……王子様、だったんだね」
声に出すと、少しだけ涙がにじんだ。
彼の正体を知っても、何も変わらない。
けれど、もう会えないことだけはわかっていた。
それでも――
香りはまだ、部屋に残っている。
彼と過ごした時間のように、
静かで、優しくて、少し切ない。
⸻
ミナは机の引き出しを開けた。
その中には、仕入れ用の帳簿。
ふと、香草の新しい品名を記すページの片隅に、
小さく書き込んだ。
> 「王子の香」
> ――心を落ち着かせる香草の調合。
誰に見せるでもなく、
ただ自分の記録として。
「……この香りだけは、忘れたくない」
夜風が店の外を通り抜ける。
吊るされたハーブがまた、さわさわと鳴った。
まるで――誰かが優しく笑っているように。




