④正体と別れ
その夜、王都は静まり返っていた。
城壁の上を見張りの灯が巡り、
遠くの鐘楼が九つの鐘を打つ。
リリィ堂の店内は、閉店後の静けさに包まれていた。
香草の香りがわずかに残る空気の中、ミナは一人で棚を拭いていた。
昼間の噂が、まだ耳の奥に残っている。
「王族に似た青年」――
誰もが口々に囁いたその名が、エリの姿と重なるたび、
心が痛んだ。
カラン。
閉めたはずの扉の鈴が鳴る。
「……エリさん?」
そこに立っていたのは、見慣れた姿だった。
けれど今夜の彼は、いつもの優しい旅人ではなかった。
濃紺の外套の下に、銀糸の刺繍が施された衣をまとっている。
月光を受けて輝く紋章が胸元に光った。
――王家の印。
「やはり……本当に……」
ミナの声が震える。
エリは静かに息を吐いた。
「隠すつもりは、なかったんです。
でも、名を明かせばあなたはもう、今まで通りには接してくれないと思った」
「じゃあ、本当の名前は……?」
「エリアス・アーヴィング。
この国の第一王子です」
そう告げた瞬間、ミナの胸に冷たい衝撃が走った。
目の前の青年――香草を選び、笑い、手を貸してくれた彼が。
あの“王城の中の人間”だなんて。
信じられない。けれど、目の前の紋章がすべてを物語っていた。
「どうして……こんなところに?」
「この国がどう見えているのか、確かめたかったんです。
戦や政治の書類ばかりでは、人の暮らしはわからない。
あなたの店に来て、初めて“香りが生きている”と知った。
……だから、通い続けた」
「でも、それならどうして黙ってたの?」
涙がにじむ。
彼の優しさを信じていたからこそ、
裏切られたような気がしてしまう。
エリアスはゆっくりと首を振った。
「あなたを傷つけたくなかった。
王子としてではなく、“ただの男”としてあなたと話したかった。
……けれど、限界なんです。
明日、私は王城に戻らなければならない。隣国との会談がある」
「じゃあ、もう来ないの?」
「来られません。
あなたに会えば、立場を忘れてしまいそうになるから」
沈黙が落ちた。
夜風が窓を揺らし、香草の束をかすかに揺らす。
ラベンダーとミントの香りが、やけに切なく漂った。
ミナは唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになるのを堪えながら、
震える手で棚の奥から小さな袋を取り出す。
「これ……最後に渡しておきます。
“眠りの香草”です。
疲れた時に、そっと嗅ぐと少し楽になります」
エリアスはそれを両手で受け取り、
しばらく見つめたあと、静かに微笑んだ。
「ありがとう。あなたの香りは、私の記憶になります」
「……そんな言い方、ずるいです」
「ずるいのは私の方ですよ。
本当は――あなたと、もっとこの町で過ごしたかった」
その言葉に、ミナは目を伏せた。
涙が一粒、頬を伝って落ちる。
エリアスはそのまま近づき、そっと手を伸ばした。
けれど、その指先がミナの髪に触れる前に、
扉の鈴が鳴った。
――ちりん。
「……さよなら、ミナ」
そう告げて、エリアスは去っていった。
扉の向こうで、夜風が香草の香りをさらっていく。
ミナはその場に立ち尽くし、
小さくなっていく背中を見送った。
まるで夢の終わりのように、
現実が静かに閉じていった。
翌朝、リリィ堂の扉を開けても、
もうあの鈴は鳴らなかった気がした。
店内には昨日と同じ香りが漂っているのに、
何かが確かに欠けている。
ミナは棚の上に残された銀の留め具を見つめた。
それは、彼が落としていったもの。
王族の印が刻まれた小さな装飾品。
触れると、指先がほんのり温かかった。
「……バカね、私」
笑いながら、ミナは涙をこぼした。




