③客足と噂、心の揺れ
エリがリリィ堂を訪れるようになってから、もう十日が過ぎた。
最初の頃はただ香草を買うだけだった彼も、
最近ではミナの手伝いを申し出たり、珍しい香料の話をしたりするようになった。
「この花、城の温室に似た香りがする」
「え、城の……?」
「あ、いや。旅の途中で、似た花を見たんです」
時々、ふとした拍子に“貴族の気配”をのぞかせる。
その度にミナは少しだけ不思議に思った。
でも、問い詰めようとは思わなかった。
彼の優しい眼差しと、店に流れる穏やかな時間が、何より大切だったから。
エリが現れてからというもの、
店の評判はますます高まっていた。
元々、リリィ堂は庶民の店だったが、
近ごろは城勤めの兵士や門兵たちまでもが
「最近、いい香りがする」と立ち寄るようになった。
「おいミナちゃん、この香草、門の詰所に飾ったら空気が変わってよ」
「本当ですか? じゃあ今度、少し強めの香りも作ってみますね」
「はは、助かるよ。あのエリとかいう客も、よくここで見かけるな」
「……そうですね。常連さんになっちゃいました」
ミナは笑ってごまかすけれど、
心の中では何度も同じ言葉が反響していた。
――また来てくれる。
その言葉だけで、胸の奥が少し温かくなる。
ある日の夕暮れ、エリは店の外で空を見上げていた。
日が落ちる直前の空は、淡い金と紫が混ざり合って美しい。
ミナが店の扉を閉めようとした時、ふと彼が呟いた。
「この町は、いいですね。人が優しくて、香りが穏やかで」
「エリさん、ずっとここにいればいいのに」
言ってから、自分で驚いた。
けれど、もう言葉は止められなかった。
エリは静かに笑った。
「そうしたい。できるなら、ずっとここにいたい」
「……じゃあ、できないんですか?」
「難しいんです。少し、事情があって」
その瞳に、影が差す。
ミナは何も言えず、ただ小さく頷いた。
風が吹いて、扉の鈴が鳴る。
その音が、なぜだか切なく響いた。
それでも、次の日も、その次の日も――
彼は来た。
香草を買い、少し話をして、穏やかに笑う。
ミナはその時間が永遠に続くと信じたかった。
だが、町の噂というものは、いつも風より早い。
「なぁ、聞いたか? リリィ堂の娘、上の方の人間と仲良いらしいぜ」
「門兵たちが見たって話だ。王族に似た顔の男が通ってるとか」
「まさか、そんな……」
店の前を通り過ぎる人々の声に、ミナは息を呑む。
心臓が小さく跳ねた。
――王族に似た顔。
まさか。
そんなはず、ない。
けれど、思い出す。
エリの仕草、言葉遣い、立ち居振る舞い。
まるで“誰かに仕込まれたように整っている”彼の姿を。
「……嘘、でしょう?」
ミナはその晩、初めて眠れなかった。
枕元に置いた香草袋から、かすかにミントの香りが漂う。
それはエリが選んだ香り。
彼の笑顔が、頭から離れない。




