呪鐘ノ刻《じゅしょうのとき》
教会の中は、もはや混乱と苦痛の渦。
不気味な呪いの鐘が鳴り響き、子供も大人も胸を押さえ、頭を抱え、倒れ伏している。
そんな中で――タリズとエルフだけが、静かに言葉を交わしていた。
「今、人々を苦しめているのは呪鍾による呪いです」
エルフが低く、重い声で告げる。
「だが……聖女である貴方なら、解呪できるはずだ」
タリズは胸元に手を当て、ぎゅっと聖印を握りしめた。
だが、その表情は苦悩に満ちている。
「……いいえ。私は聖女ではありません」
その声には、かつて抱いた憧れや理想を自ら葬った者の響きがあった。
エルフは信じられないとばかりに目を見開く。
「そんなはずない……! あの日、俺を救ってくれたのは――」
タリズはその言葉を遮るように、ふっと微笑む。
しかしそれは、希望を諦めた者が浮かべる弱い笑みだった。
「私の力は真似事なのです、聖水の加護と祈りを借りて……ほんの少し癒しを与えるだけ。本物の聖女の力など、私には……ありません」
その言葉は静かだが、深い絶望が滲んでいた。
エルフは思わず言葉を失い、拳を握り締める。
しかし――
「……ですが、希望はあります」
タリズの声が変わった。
さきほどまでの弱さを振り払うように、澄んだ眼差しでエルフを見つめる。
「希望……?」
エルフは眉を寄せて問う。
タリズは小さく頷き、視線をある一点に向ける。
「私などではなく……本当に才を持ち、資格を与えられた者がここにおります」
「……まさか」
エルフはタリズの視線の先を追い、その答えを悟った。
タリズは静かに告げる。
「――セリナです」
その一言が、呪鍾の響きよりも強く、重く――エルフの胸へと落ちた。
「彼女こそ……真に神の加護を受けた聖女なのです」
苦しむ子供たちの間で、セリナは膝をつき、震える小さな手を必死に握りしめながら声をかけ続けていた。
「大丈夫……大丈夫だから……みんな、頑張って……っ」
涙で潤む瞳。
震える声。
それでも、誰よりも必死に子供たちを救おう声をかけ続けるセリナ。
そんなセリナのもとへ、タリズとエルフが駆け寄る。
「セリナ」
タリズが名を呼ぶと、セリナははっと顔を上げ、涙をぽろぽろと溢しながら縋るように叫ぶ。
「タリズさん、子供たちが……! どうしたら……!」
タリズは静かに、しかし確かな意思を込めてその場にしゃがみ込み、セリナと視線を合わせた。
「セリナ――貴方の力が必要な時が来ました」
「え……?」
意味がわからないというように戸惑うセリナ。
だがタリズの目は真剣だった。
「貴方が皆を救うのです。貴方の力で」
「そ、そんな……私はまだ未熟で……タリズさんのようには……!」
首を振りながら弱々しく否定するセリナ。
しかしタリズは、その頬にそっと手を添えた。
慈母のように優しい、包み込む手つきで。
「……セリナ、貴方がここに来た日のことを覚えていますか?」
セリナの肩が、びくりと震える。
「あなたは言いました――『多くの人を救いたい。幸せを願いたい』と」
タリズの声は柔らかく、祈りのように穏やかだった。
「そして、貴方はここで多くの祈りを捧げ、学び、悩み、迷い……それでも前を向いて研鑽を積んできました。その純真でまっすぐな心は――必ず、女神ルミナにも届いています」
その言葉が胸に届いた瞬間、セリナの瞳に、かすかな光が揺れた。
恐怖と混乱の中で沈みかけていた意志が、タリズの言葉に温かく抱きしめられ、息を吹き返していく。
「タリズさん……」
「セリナ。貴方ならできます。貴方にしか、できないのです」
その断言は、宣告のように重く、温いものだった。
セリナは胸元をぎゅっと握り――涙を拭い、震える息を整えた。
そして、小さく、しかし確かな声で応えた。
「……はい。私……やります……!」
その瞳に宿ったのは、迷いを振り払った決意の光。
「みんな、もうちょっとだけ待っててね……」
セリナは苦しむ子供たちに優しく声をかけ、震える小さな手をそっと握り返してから立ち上がった。
向かった先は――女神ルミナを象った像、その前に膝をつき、胸の前で手を組む。
小さく、しかし澄んだ祈りの声が、騒乱に満ちた教会の空間にそっと流れ込む。
――どうか……どうか、皆をお救いください。
その祈りに応えるように、女神像の足元から淡い光がふわりと立ち上がり、セリナの身体を包む。
静謐で優しい、祝福の光。
一方その頃。
「よし……っ、これで……!」
バニッシュは額の汗をぬぐいながら教会の外壁に向けて両手を突き出す。
魔力が流れ込み、教会の外周に薄い膜のような光が走る。
――結界、展開。
壁に沿って淡い光が広がり、教会全体を包み込むが――しかし、その結界は揺らぎ、今にも破れそうな不安定さだった。
「なんとか……張れたが……!」
それでも呪鍾の呪いの響きは、結界のおかげでわずかに弱まった気がした。
バニッシュは急ぎエルフのもとへ走る。
「結界は張ったぞ! で、この後は――」
言い終えるより早く、視界の端に光が映った。
「……ッ!」
セリナだ。
女神像の前で祈りを捧げるセリナの全身が、穢れを払うように純白の光に包まれている。
息を呑むバニッシュ。
「セリナ……さん……?」
まるで時間が止まったかのように呆ける。
聖女――そんな言葉が自然と脳裏をよぎるほどの、神聖な光景だった。
そのバニッシュの肩を、そっとタリズが叩いた。
「呆けている場合ではありませんよ、バニッシュさん」
穏やかな口調だが、その声には強い意志が宿っていた。
「さあ、私たちも――やれることをやりましょう」
タリズの言葉に、バニッシュはハッと正気に戻る。
隣でエルフも、険しい表情のまま静かに頷いた。
「セリナの祈りには……時間がかかります」
タリズは、震える子供たちを見守りながらも、凛とした眼差しでバニッシュとエルフを見つめた。
「奥に聖水があります。貴方がたはそれを持ってきてください」
「ど、どうするつもりなんだ?」
バニッシュは動揺を隠せず問い返す。
タリズは短く息を吸い、決意のこもった声で答えた。
「セリナの祈りが女神ルミナに届くまで……私が出来る限り、呪いを解いていきます」
「なっ――これだけの人数だぞ! 一人じゃ無理だって!」
バニッシュは止めようと手を伸ばす。
だがその手が触れる前に、エルフがバニッシュの言葉を遮るように一歩前に踏み出した。
「――わかった。聖水を持ってくりゃいいんだな」
「お、おい!」
バニッシュは思わずエルフの肩を掴む。
「無茶だろ! タリズさん一人じゃ――」
エルフは振り返り、深いため息をついた。
「……バニッシュ」
その声はいつもの飄々とした態度とは違い、年季のこもった低いものだった。
「誰かがやらなきゃならねぇんだ」
ゆっくりと言葉を続ける。
「そして……それが出来るのは、今ここにいるこの二人だけだ」
その言葉に、バニッシュは返す言葉を失い、拳を握りしめた。
タリズは静かに頷く。
「大丈夫です。セリナが祈っている間くらい、私でも持ちこたえられます」
その表情は、長年多くの人々を救い続けてきた母のような包容力と、かつて夢見た聖女としての使命感が重なっていた。
その時――教会の正面扉が、勢いよく開かれる。
「ここか!?」
「呪いの気配が濃い……中はどうなってる!?」
次々と駆け込んでくる冒険者たち。
顔には恐怖と焦り、そして必死の思いが混ざっていた。
バニッシュとエルフは同時に振り返る。
扉を蹴破るようにして駆け込んできた冒険者たちに、エルフは口角を吊り上げて笑った。
その笑みは、混乱の中でさえ獣のような自信を放っていた。
「おう、お前ら――丁度いいところに来たな!」
悲鳴の混ざる教会内で、その声だけが鋭く響く。
冒険者たちは息を切らせながら辺りを見回し、状況の異様さに戸惑い顔を見合わせた。
「外の状況はどうなってる?」
エルフが顎に手を当て、冷静に問いかける。
数秒の沈黙ののち、先頭にいた大柄の戦士が答えた。
「街は……倒れる人が続出して混乱状態だ。俺たちは鐘が怪しいと思って駆けつけたんだ!」
「そうか……」
エルフは短く息を吐き、鋭い目を細める。
そして――すぐさま判断を下した。
「よし、ならお前らを三つに分ける!」
張り詰めた空気を切り裂くような声。
冒険者たちは一斉にエルフへ視線を向けた。
「一つは、街の混乱を出来るだけ抑えろ!二つ目は、ここに残ってシスターたちの手伝いだ。倒れてる連中の介抱を優先しろ。そして残った奴らは――聖水を集めてこい! この教会にある分じゃ足りねぇからな!」
「い、いや、だが俺たちは鐘を止めに――!」
焦ったように一人が声を上げる。
エルフはその冒険者を睨みつけ、口の端を吊り上げた。
「鐘のほうは、信頼できる奴らが向かってる。安心しろ!」
それでも冒険者たちは顔を見合わせ、決断を迷うように動けずにいた。
その姿にエルフは苛立ち混じりに舌打ちし、床を蹴り鳴らす。
「おらァ! 悩んでる暇も、躊躇ってる時間もねぇんだ!」
怒声が教会全体を震わせる。
「今ここで止まってる時間が、勿体ねぇ!」
その一喝に、冒険者たちはハッと目を見開き――一斉に動き出した。
街へ走る者、倒れた者を支える者、聖水を取りに行く者。
混乱の中にも、ようやく秩序が芽生える。
そんな中、エルフは短く息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「よし、俺も手伝――」
バニッシュが冒険者たちと共に動き出そうとした瞬間、エルフの手が肩を掴んだ。
「おっと、お前さんの役割はそっちじゃねぇ」
「はあ!? 役割って一体なんの――」
言いかけたその瞬間、エルフは鋭く言い放つ。
「お前は仲間のところに行け!」
そう言うや否や、エルフは背中から外した大きな布包みを勢いよくバニッシュに投げた。
「うおっ!?」
反射的に受け止めたバニッシュ。
包みが手の中でほどけ、その中身が覗く。
――鈍い銀光を放つ、大剣。
「お、お前……これ……!」
信じられないような顔でエルフを見上げる。
エルフは唇の端を吊り上げ、短く言った。
「持って行け。必要になる」
「必要になるって……どういう意味だよ!?」
混乱するバニッシュが詰め寄る。
しかし、エルフはただニヤリと笑い、首をすくめた。
「俺に質問してる時間があるなら――さっさと行ったほうがいいんじゃねぇのか?」
その瞬間――
ドゴォォォォン!!
教会の上部から、凄まじい爆音が響き渡った。
空気が震え、天井の装飾がカランカランと落ちる。
「なっ……!?」
バニッシュはとっさに上を見上げ、天辺の鐘楼のほうを確認する。
黒煙のようなものが、うっすらと立ち上っていた。
「おら、さっさと行け!」
エルフの一喝が飛ぶ。
迷っている暇などない。
バニッシュはぐっと奥歯を噛みしめ、両手で大剣の柄を握りしめた。
刃の冷たい感触が、今だけは心を奮い立たせる。
「……わかった。後で、ちゃんと説明してもらうからな!」
叫び返すと同時に、バニッシュは駆け出した。
地響きのような鐘の音が再び鳴り響く中――彼の背に、エルフの低い声が追いかけた。
「さて、運命はどちらに転ぶ――」
その言葉が、混乱と光の狭間に消えていった。




